<Mより発信>
2009年8月10日発行の村山富市・佐高信氏の対談集『「村山談話」とは何か』(角川ワンテーマ21新書)を読んでいる。第3章の「私の政治人生」の中に「日本社会党」結党の頃の記述があり、賀川豊彦が結党を呼びかけた3人のうちの一人ということで出てきた。
当時の政治状況を理解するためにわかりやすいと思ったので、以下、ご紹介したい。
【村山富市氏『「村山談話」とは何か』より「日本社会党」結党の頃】
『「村山談話」とは何か』第3章「私の政治人生」 P110~
日本社会党は敗戦から2ヵ月半後の1945年(昭和20年)11月2日に結成された。
戦前からの代表的な知識人であった安部磯雄、高野岩三郎、賀川豊彦の3氏の呼びかけにより、結党大会には共産党をのぞいた戦前からの著名な社会主義着たちが大同団結したのだ。片山哲、松岡駒吉、松本治一郎、西尾末広、平野力三、浅沼稲次郎、鈴木茂三郎、加藤勘十、水谷長三郎の各氏だ。
右派は「社会民主党」を主張し、左派は「日本社会党」を主張したが、結局、一票差で党名は「日本社会党」になった。
11月8日には日本共産党が再発足。
11月9日に日本自由党。
11月16日に日本進歩党。
12月18日に日本協同党と、相次いで、政党が結成された。
私は昭和22年に23歳で社会党に入党したが、それは社会党の綱領に共鳴したからだ。
社会党は綱領として「民主主義、社会主義、平和主義」という三本柱を掲げていた。
私は、戦争中の暗い時代の経験を通して民主主義の大切さを何よりも痛感していた。
社会主義については旧労農派の山川均さんの著作に親しむようになっており、そこに日本の進路があると考えていた。
当時は、軍閥、財閥が解体され、民主主義を土台に日本が戦後復興をするのに、資本主義的な復興をするか、社会主義的な復興をするかということをよく議論した。私としてはドイツの復興なども参考にして、権力者や資本家でなくて、労働者や農民が主役になれる時代をつくる、そういった意味で資本主義的よりも社会主義的な復興だと、考えた。また、軍隊生活を体験し、敗戦後の東京や大分市の荒廃を目の当たりにして、平和こそかけがえのないものだと考えていた。「二度と戦争はしてはならない」と強く思っていた。のちに党委員長となった鈴木茂三郎さんが「青年よ再び銃をとるな」と呼びかけたのも、私たちの切実なる思いを代弁したものだ。
この社会党の三本柱の主張は戦争を体験した人から強く支持されたと思う。
社会党は1947年(昭和22年)の新憲法下初の衆議院総選挙で143議席を獲得して、第一党になった。こうして、民主党(1947年結党)や国民協同党(1947年結党)と連立して、片山哲を首相とする我が国初の社会党首班内閣を発足する。
しかし、片山内閣は残念ながら10ヶ月足らずで倒れてしまった。その原因としては、GHQ(連合国軍総司令部)からの圧力説や民主党内の内紛などいろいろ言われてきたが、 社会党内の左右の対立が原因のひとつであることは間違いがないだろう。
片山内閣に続く、芦田均連立内閻も、昭和電工疑獄事件をきっかけにやはり7ヶ月で倒れてしまった。ここでも原因はGHQ内部の対立などがとりざたされたが、社会党内の抗争もからんでいたと思う。というのも、当時、大分県連の若手活動家だった私は、党大会などで上京した折に、左右両派の激しい抗争を目撃しているからだ。
いまでも鮮明に覚えているのは、昭和23年夏の中央委員会だ。私は青年部の仲間と一緒に会議の模様を傍聴していた。右派の指著で芦田内閣の国務大臣だった西尾末広氏が建設業着からうけとった献金問題を新聞などで報道されて、中央委員会でも議論になった。壇上には片山哲氏ら左右の党の幹部がずらりと並び、鈴木茂三郎氏らの左派は激しく 西尾氏を攻撃した。それに対して水谷長三郎、森戸辰男氏らの右派も鋭くやり返していた。 やがて西尾氏が立ち上がり、憮然とした表情で釈明した。「ここに集まっている方々は日本を代表する知性である。その知性に富む諸君が新聞の読み方ひとつも知らないとは誠に嘆かわしい。」
異様な雰囲気であった。いまから振り返ると、足元がこうしたありさまでは、芦田内閣が倒れたのも無理がない気がする。のちに首相になった私は、この光景をしばしば思い出して、こう戒めたものである。
党内対立を絶対に内閣に持ち込んではならない。党内対立で、もし社会党首班内閣が倒れるようなことがあれば、国民に申し訳ない。まずは社会党内の結束をはかり、足元を固めよう、と。
社会党の分裂
1949年(昭和24年)頃、漁村青年同盟は漁協の設立という役目を終えて、解散した。私は漁民運動から手を引き、社会党左派の活動家になっていた。知人の紹介で大分県職員労働組合の書記となり、機関誌を発行したり、党のオルグ活動に奔走していた。
そのころは、物情騒然たる空気に包まれていた。
ドッジラインによる深刻な不況で、企業倒産や人員整理が相次ぎ、デモ隊と警官隊が衝突していた。下山事件、三鷹事件、松川事件と真相不明な怪事件が続く不安の時代だった。
中国では、毛沢東を主席とする中華人民共和国が誕生し、台湾の解放を叫んでいた。
「日本は共産主義阻止の防壁」とマッカーサーは語り、米国の占領政策は大きく転換した。
1950年(昭和25年)には朝鮮戦争が勃発、緊張はさらに増した。国内でもレッド・パージの嵐が吹き荒れた。
1951年になると、対日講和をめぐり、ソ連を含む「全面講和」か、ソ連を除いた「単独講和」かで、世論は真っ二つに分かれた。
南原繁・東大総長をはじめ知識人・学者は、全面講和こそが唯一の正しい講和であると訴えた。これに対し、吉田茂首相は南原総長を「曲学阿世の徒」と呼んで非難するなど、議論は大いに白熱した。
社会党は大きく揺れた。
対日講和条約(サンフランシスコ講和条約)と日米安全保障条約をめぐって、乱闘の末、とうとう右派社会党と左派社会党に分裂(1951年10月)したのだ。
右派は単独講和には賛成で安保条約には反対、左派は両条約に反対という立場だった。
社会党大分県連にも激しい対立が持ち込まれた。県連の指導部には圧倒的に右派が多かった。若手は左派が優位に立っていた。
(中略)
P121~ 55年体制
昭和26年に社会党は左右両派に分裂したが、大分県でも分裂劇が繰り返された。大分では「顔の右派、組織の左派」と言われていた。右派は議員が多かった。しかも木下郁、哲兄弟を中心とした木下一家が強かった。木下郁は弁護士で人望があり、のちに衆議院議員、大分県知事になった。弟の哲氏は兄に続いて衆議院議員になった。
一方、私が属していた左派は若手が中心だった。当時は少数派で懸命に県内の労組や農民・漁民組織に浸透を図っていた。私は田上光、田中積、木本正義ら先輩と一緒に毎晩のように集会に出かけていっては、「左派の旗を守ろう」と血気盛んに左派の主張を訴え、勢力拡大に努めた。
こうした社会党の分裂は、真剣な議論の末の分裂だった。とは言え、有権者たちはとまどったことだろう。やがて、平和憲法の改正を阻むには統一すべきだという声が高まり、1955年(昭和30年)10月、社会党の統一が実現した。委員長に鈴木茂三郎さん、書記長に浅沼稲次郎さんが選ばれた。いっぽう保守勢力も民主党、自由党が合同して、自由民主党を結成した。いわゆる55年体制のスタートである。
この年は、私にとっても議員活動の始まりだった。4年前の市議選で落選した時もある程度の票を獲得していたが、2度目の挑戦で初当選することができたのである。
(以下、略)
以上
(Mによる追記)
日本協同党をネット検索したら、「賀川豊彦の提唱により、協同組合のための政治を実現することを党是として新しい政党の結成を画策」とあって驚いた。日本協同党が協同民主党になった時はGHQによる戦争協力者の公職追放の影響で、雑誌『改造』の創立社長が委員長になっていて、「死線を越えて」つながりかと納得。賀川さんの提唱を受けて動く人がいれば、賀川さんはそれを応援するという関係と理解した。

さらにネット検索でみつけた以下の書評も「村山談話」全文の掲載もあり、大いに参考になるのでご紹介しておく。
書評『村山談話とは何か』

【2010/07/23 01:12】 | 文献紹介
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