【『想いで集』福田 繁「日生協創立と中林貞男さんなど」】その2
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労働者福祉活動と中林さん
中林さんは敗戦の時は産報の幹部だったが、迷わず生協運動に身を投じたのは、新しい時代は労働者が中心になって創っていくのだと考えておられたからだと思っている。生協運動と労働運動の関係の重視、労働界出身の生協関係者の重用などが私の記憶に残っている。労働者福祉運動や購買事業以外の各分野の生協事業にも積極的だったのも同じ考えからであったと思う。日協同盟、日生協を通じてこうした分野での中心的な推進者は中林さんだった。
1950年7月に結成された総評は同年9月、傘下主要単組が中心になって労働者福祉対策中央協議会(中央福対協)を結成したが、日協同盟や全学協連も参加した。福対協の場でも労働金庫の創立が問題になっていた。労働者の相互扶助の施設として労働者の生活資金の貸付等の事業が考えられていた。生協法で信用事業を否定されていた生協では、経営難打開の融資元が大きな問題であった。こんな中で1953年10月に労働金庫法が施行され、全国的に短期日のうちに県単位に労働金庫が設立されていった。この労働金庫法制定の中心者は中林さんだった。
また労働者共済事業についても、日生協では賀川精神を引き継いで積極的に研究をし、福対協の場での五者会議の一員として当初から大きな役割を果たした。労働者の福祉事業の各分野でのとりくみの発展の流れの中で、購買事業の分野でも、地区福対協を中心に、全国的に地域勤労者生協が創られ活発になっていった。その発生の地の一つであった鳥取県米子市に反生協運動の激しい動きが発生した。小売商の経営困難を生協のせいにした。国会でも生協の立場に立つ議員が数少ない状況で、有効に闘っていくには、広く国民の力を生協の側に結集する必要があると判断した日生協理事会(中林専務)は1956年12月、総評、主婦連等と全国消費者団体連絡会(全国消団連)を結成した。有名な消費者宣言は翌年の消費者大会で採択された。
時代の流れの中ではあったが、労働者福祉活動、各種の労働者の生協活動の創設と発展には中林さんがそれぞれに関係が深かったことは忘れることが出来ない。
平和運動と中林さん
日協同盟はその創立の時から、平和国家体制の確立と国際連帯による世界平和への寄与を理念としていた。日生協創立総会でICA加盟を決議し、平和への強い決意を示した。
中林さんは57年のストックホルム大会以来、日生協代表としてICA大会に出席し、また中央委員になってから毎年ICAの会議に出席していた。ICAの場では必ず発言し、原水爆の禁止と世界平和のために協同組合は行動していこうと呼びかけていた。国際的経験から学び、広い視野で日頃の活動を進めていこうと主張していた。日本の平和運動でも77年の原水爆禁止世界大会統一実行委員会結成に参加して以後、原水禁運動の市民団体代表としても、運動の統一的発展のために身を挺して努力してこられた姿が今でも目に浮かぶ。82年、ニューヨークでの第2回国連軍縮特別総会(SSDⅡ)には、中林さん自身も市民代表として3000万筆の署名を携えて出席した。そしてあの「セントラルパークでの100万人の大集会で受けた感動はこれまでの人生で最も私を揺り動かした」と書いている。
70年5月の福島総会結語として有名になっている「組合員に依拠した活動こそ生協の基本である」との言葉は、長い中林さんの生協運動を貫く本音であったと思う。
“平和とよりよき生活のために”ICAに結集して、協同と連帯を何よりも大切にして、組合員とともに歩みつづけた中林さんをいま思い返している。
以上

【2010/07/22 00:18】 | アーカイブ
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