<Mより発信>
2009年度最後の「賀川豊彦研究会」の例会(3/12)で、元日生協専務理事の福田 繁氏に「日本生協連創立の頃の想い出~賀川初代会長、当時の日本の生協のこと~」というテーマでご講演いただき、簡単な報告はこちらにも掲載した。その関連ということで、この間、何回かご紹介している
『生協運動 想いで集』に福田繁氏が寄稿されたものを先にご紹介していきたい。関連して読んでいただけばより理解しやすいと思われる。
なお、K代表による例会の詳細な報告書シリーズ作成が予定されているので、後ほど連載の形でご紹介する予定。
【『想いで集』福田 繁「日生協創立と中林貞男さんなど」】その1
創立スローガンの誕生
日生協創立50周年記念事業で、『現代日本生協運動史』が編纂された。日生協の設立当時、東大生協専務理事だった私は、日生協創立発起組合の東大生協を代表して発起人の一人として名を連ねた。現在では生存している発起人は私一人になってしまったと思う。そこで日生協創立に関るいくつかの思い出を記しておきたい。
1951年3月20日、日生協創立総会は東京大学法文経2号館第29番教室で行なわれた。発起人組合討議で総会の会場を何処にするか大いに議論になった。それは金がなかったからである。私は会議の場では特別若造なので恐る恐る「大学の教室でいいのなら只で借りられますよ」と発言した。賀川豊彦議長は身を乗り出して「君、ほんとか」と直ぐ問い質した。「本当ですよ。簡単ですよ」「君、頼むよ」ということになった。当時、東大の教職員、学生は申告すれば無料で教室等を借用することが出来た。私は〝経済学部学生福田繁″と記名して教室借用の申請をした。日生協創立総会の会場はこうして設定されることになった。
日生協の創立総会で中心スローガンとして決まった「平和とよりよき生活のために」は、実は準備会議での私の提案で一発で全員の賛同を得て決まったものである。私は事前に東大の役員仲間でいい知恵はないかと相談していた。仲間の一人が国際学連(*)のスローガン(「平和とよりよき未来のために」)からヒントを得て、生協は生活団体だから“未来”を“生活”に置き換えればいいのではないかと発言し、それはいい案だと纏まっていたものである。51年はまだ戦後の後遺症は色濃く、食べることも大変であった。国民生活の安定は世界の平和と裏腹の関係だと誰もが実感していたと思う。中心スローガンの提案はみんなの気持ちに響いたのであろう。創立宣言の中でも「・・・・・・平和と、より良き生活こそ生活協同組合の理想であり・・・・・・」と記している。創立総会では「平和宣言」を全員一致で採択している。この平和宣言を読み上げる提案者は会議場でみんなが「若いものがやれ~」ということで私の役割となった。
賀川さんと中林さん
さて、戦後の生協運動で忘れられない人は、第4代会長中林貞男さんである。私が中林さんに初めてお目にかかったのは、日生協創立の準備会譲、51年の年明け頃であったと思う。日協同盟の事務局長として、生協法に基づく日生協の創立のための中心者であった時である。それ以来50年以上の長いふれあい-実際は近くにいる部下として指導を受け、よく働かされた関係-で、中林さんは初代賀川会長の影響が大きかったのだと実感している。何かにつけて“賀川さんはね、・・・・・・”とよく話を聞かされたものである。
中林さんは生協運動私史『平和とよりよき生活を求めて』の自著で、次のように書いている。「私はもともと新聞記者出身ですが、平生さんの秘書をずっとしていたということで、経済とか経営についてはきちんとしている男だろうと賀川さんは思われたのではないか。賀川さんは平生さんを非常に尊敬されていたので、平生・賀川の関係で私を信用されたのではないか。・・・・・・」
平生さんとは、平生釟三郎さん(注)のことで、財界人として現在の東京海上火災保険を育て上げたり、川崎造船を再建した人、広田内閣(1936~37年)の文部大臣でもあった。大日本産業報国会(産報)の平生会長の第一秘書が中林さんであり、産報の企画課長でもあった。賀川さんにとっての平生さんは、神戸での貧民街での救済活動に入られた時以来の理解者であり、最大の後援者であったと聞いている。
日本協同組合同盟創立後、最盛時にはその専従事務局貞は100名もいたと聞いている。その財政は、賀川会長が長崎の北村徳太郎さんの口聞きで、佐世保の海軍共済会から借りた100万円(1945年当時)をポンと出されたものに全面的に頼っていたようでみる。
中林さんは、早稲田大学時代の学生運動、報知新聞の新聞記者、産報の企画課長等、戦時中の経験を通して、新しいよりよい社会は勤労大衆がその協同と団結の力で創り上げていくものだと信じて、産報解散後、紹介された他の就職を断って、日協同盟に合流された。
戦後の生協運動が多くの識者の予測を越えて大きく発展した要因はいろいろあると思うが、忘れてならないのは、日生協を中心とした協同と団結を戦後守り通してきたことだと思う。その象徴的な中心者こそ中林さんだったと私は思う。
日協同盟創立方針大綱は、その3に、「本同盟は曾ての協同戦線に見られたる分裂的独善的傾向の厳正なる批判の上に立ち飽迄我国國協同組合運動戦線に於ける単一的に綜合的に結集せられたる勢力たらしめる。従て本同盟は政治的には超党派的存在にして会員の政治的意見の自由を拘束しない。・・・・・・」と述べている。
戦前からの運動の遺産として引き継ぐものは、分裂してはならない、団結を守ることだ、と先輩が、昭和20年代よく語っていたことが耳に残っている。
中林さんは生協運動の中枢にいて、協同統一を実践し通した人だったと思う。長年数限りない会議の場で怒った顔を見たことがない。厳しい指摘や原案反対の意見にもじっと耳を傾けていた。発言者の真意と積極的な意図を汲み取ろうとする態度、一人ひとりの人格を認め合っていけばお互いに理解でき、連帯は必ず出来るという信念に裏打ちされていたのだろう。中林さんは大同団結の旗を実践者として守り通す事に最も努力した人だったとの思いが強い。
→その2に続く
(注)平生釟三郎(ひらお・はちさぶろう)=実業家。1921年灘購買組合の創立に関わり、理事に就任。甲南学園、甲南病院の創立者。川崎造船社長、日本製鉄社長などのほか、文部大臣(1936年)、大日本産業報国会会長も務めた。1945年没。(こちらのブログで言及した記事はこちら)

(*Mによる注記)
「国際学連」:国際学生連盟は1946年9月に結成。日本でも1948年9月に全学連(全日本学生自治会総連合)が結成され加盟している。1949年に作られた「国際学生連盟の歌」が、朝鮮戦争反対の闘いの中で全国の学園に広がり、歌い継がれている。

【2010/07/21 12:21】 | アーカイブ
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