<Mより発信>
【連載第5回】:東京学生消費組合(学消)のこと
文芸評論家佐々木基一氏は著書である「昭和文学交友記」の中で、学生消費組合の思い出を次のように語っています。
「わたしが大学に入学した当時学生消費組合赤門支部は、大学正門前の現在郁文堂があるあたりに店舗を構えていた。この年はじめに、森川町の路地から表通りへ進出したとのことだった。文房具、洋服、帽子、靴、書籍などを取り扱っていた。入学してすぐわたしは組合員になったが、組合員になると警察からにらまれるのではないかと恐れている学生も大勢いた」「毎日本郷に出かけると鞄をおろすのは教室でなくて学生消費組合赤門支部の店であった。三ケ年学消に通勤したようなものだった」(昭和10年)

前にもふれましたが、第一次世界大戦後、ロシア革命、米騒動、労働運動のひろがり、いわゆる大正デモクラシー時代を背景として、学生も従来、学校附近の商店、食堂、下宿屋の営利の対象となっていた消費生活の防衛と合理化に対する関心を高め、学生消費組合を設立する気運がひろがっていきました。こうした動きは先づ早大学生消費組合として創設され、大正15年4月19日神田YMCAで東京学生消費組合の創立発起人会となり、9月早大南門前に小店舗を設けて事業を開始し、11月、産業組合法の認可をうけ有限責任購買組合東京学生消費組合が正式にスタートしました。初代組合長には賀川豊彦が推され、専務理事には早大出身の松浦武夫が就任しました。

この組合は現在わたしたちの見ることが出来る各大学ごとの別々の組織ではなく全東京の単一学生組織で昭和2年拓大支部、昭和3年赤門支部、更に明大、明治学院、法大、立大などにもひろがり昭和9年には組合員約6000人位の組織へと発展しました。
しかし二・二六事件(昭和11年)以後は学生運動にも圧迫が強まり、何かと学生の検束なども増加していくなかで、各支部も次々に解散し、早大支部は 「学生運動10年の歴史は今やここに帰らぬ残骸となり終った。全早大生諸君、昭和12年5月15日を銘記せよ、早稲田における自主的学生運動の全面的敗退の日を・・・」という解散宣言を発表して解散しました。

最後まで残った、比較的経営的内容のよかった赤門支部も、山岸晟専務が警視庁特高課から呼びだされ内務省の指示により解散が命ぜられました。学消は産業組合法による認可組合で合法的団体であると主張しましたが、経済団体とは認めず、思想団体とされました。治安維持法による解散でした。昭和13年10月14日のことでした。

戦後の大学生協運動はこの 「学消の歴史をくりかえさない」ことを誓いあい「平和とよりよき生活のために」を合言葉として、昭和22年6月、先づ東京大学で再建されました。

→以下、第6回に続く。


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しかし二・二六事件(昭和11年)以後は学生運動にも圧迫が強まり、何かと学生の検束なども増加していくなかで、各支部も次々に解散し、早大支部は 「学生運動10年の歴史は今やここに帰らぬ残骸となり終った。全早大生諸君、昭和12年5月15日を銘記せよ、早稲田における自主的学生運動の全面的敗退の日を・・・」という解散宣言を発表して解散しました。

最後まで残った、比較的経営的内容のよかった赤門支部も、山岸晟専務が警視庁特高課から呼びだされ内務省の指示により解散が命ぜられました。学消は産業組合法による認可組合で合法的団体であると主張しましたが、経済団体とは認めず、思想団体とされました。治安維持法による解散でした。昭和13年10月14日のことでした。

戦後の大学生協運動はこの 「学消の歴史をくりかえさない」ことを誓いあい「平和とよりよき生活のために」を合言葉として、昭和22年6月、先づ東京大学で再建されました。

→以下、第6回に続く。

【2010/04/20 00:07】 | アーカイブ
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