『追悼 木下保雄』の遺影写真

【『追悼録 木下保雄』より弔辞】日本生協連副会長 中林貞男
木下君。貴兄と私達は幽明境を異にしました。いま、私は悲しみをこめて、貴兄に最後の告別の辞を述べたいと思います。正直にいって、私は貴兄に告別の辞を述べるようになるとは夢にも思っていませんでした。周囲の仲間もそういっています。ということは、われわれの間で貴兄ほど健康を重んじ、節制ある態度で生活していた人はありません。そして貴兄は信仰の人であり、その立場から平和の人でした。このことは貴兄の生協運動に対する態度にも、はっきり現れていました。
貴兄は、昭和8年大学を出て家庭購買組合に入ってから今日迄生協運動一筋に頑張ってきました。略歴紹介にもありましたように、貴兄の人生は生協一色でした。人間として初心を貫き通すということは、なかなか困難な業です。しかし貴兄はそれをやり遂げ、日協連専務理事として倒れました。その点からいえば貴兄は生協運動に体を張り、その戦いの途中で倒れたといえるでしょう。貴兄を日協連葬でおくろうという声が自然に湧き起ったのもそのためだったと思います。
私自身も終戦の年、昭和21年11月日本協同組合同盟の創立に参加して以来24年間、時には悩んだり、考え込んだりすることもありましたが、とにも角にも生協運動の道を通せたのは貴兄の支えがあったからです。 いま私はしみじみ貴兄は本当に私の心の支えであったと思っています。貴兄と私は性格も、ものの考え方も全くなっていました。従ってよく議論や論争をしました。私はよく『主観的にどんなに正しくてもそれが客観性を持たなければ駄目だ』といいました。すると貴兄は正しいことが何故いけないんだと反論しました。しかし私は貴兄とのコンビは絶対に崩してはならないということを肝に命じてやってきました。それは貴兄の正しくきれいな生協運動に対する態度が私をそうさせたのでした。私の家内も私に『あなたが日協連の仕事ができるのは木下さんがあるからだ』と、よくいっていました。事実現在日協連が全国の生協の中央連合会として指導性を確立することができ世間から一定の信頗を得るようになったのは、貴兄のその一貫した態度があったからだといっても過言ではないでしょう。その大切な支柱であった貴兄が私たちの前から消え去ったのです。
顧みるとこの24年問いろいろなことが思い出されます。現在の生協法の立法にあたって当時司令部にいたグラジュダンチェフ氏(*)を相手にあの情熱を捧げた君の態度、また24、5年所謂名義貸組合のことが喧しく問題になった時、貴兄は生協の純粋性を強く主張しました。私は組織内の意見の調整をはかるため毎日築地の魚市場の中にあった事務所から新橋まで二人で歩きながら、時には喫茶店で論争をしました。しかし貴兄はなかなか譲りませんでした。私は貴兄の頑固な頑張りようをグロテスクにさえ思ったことが何回かありました。そして二人の間では今後の運動の中で解決しようということにしてあったのですが、もうその論争はできなくなりました。
更に31年の春、関西地方本部をつくった時、理事会は二人で話し合ってどちらか行けということでしたが、貴兄は自ら行くということを私に主張してその任についてくれました。近くは鳥取県東部生協の経営が年金福祉事業団との関係で問題になった時、貴兄は日協連が実任を負うべきであり、私に『君が留守を引き受けてくれるなら自分が行く』ということを私に主張しました。私は朝出勤の途中突然その心境を打ち明けられ、貴兄の生協運動に対する崇高な態度に感激し、私は貴兄に留守を守ることを誓いその方針を実行ずることを約束しました。その後、その方針を発表すると、丁度日協連事業連の合併問題が論議されていた時でしたので内外からいろいろな批判や議論が出たり、臆測も生れました。しかし私達二人の間の話は純粋に日本の生協運動をどうするかという以外何もありませんでした。私は今日まで貴兄と二人で日協連をなんとか守らなければならないと卒直に思ってやってきました。従って貴兄が不帰の人となったことは私のこれ迄の人生にとって最大の衝撃でした。
しかし木下君。私はいま貴兄の霊前でひるんではならないということを自分自身にいい聞かせ、また貴兄の遺志をついで生協運動の発展のために頑張り抜くことを誓います。貴兄が奥さんとの合作で心血を注いでつくってくれた生協会館の玄関の彫刻は毎朝私たちを見守り、永久に激励してくれるでしょう。
またあの会館自体も貴兄が建設委員長として苦労して完成してくれたものです。昨年8月あれが竣工した時これでわれわれの日協連に対する大きな責任の一つを果したと二人で喜び合ったことをいまも覚えています。貴兄はあの会館に更にいろんな夢を持っていました。資料室の完成、そしてその過程で生協の教育体系をつくり上げたいといっていました。貴兄は後輩の教育婦人活動家の養成については特に力を注いでいました。その点では日本における最高の指導者だったといえるでしょう。貴兄の情熱を傾けた講義を聴くと、皆魅了されるとよく云っていました。そして貴兄は生協運動者としての最後を東京の生協づくりに捧げたいということから去年総会後自ら進んで首都圏対策委員長を引き受けたのでした。そして建設地探しに東奔西走していて倒れたのです。貴兄にとってはどんなに痛恨事であったことかと思います。しかし木下君!その東京生活協同組合は去る25日立派に創立されました。私たちはこの生協を必らず成功させることを誓い合っていることを貴兄の霊前に報告します。また今年の日協連総会も昨日無事終りました。木下君安らかに眠って下さい。全国の同志は貴兄の姿が壇上に見えないことを非常に淋しく思っていました。しかし貴兄が守り抜いてくれた日協連の旗を高く堅持して前進することを誓い合いました。木下君、貴兄は本当にあらん限りの力をふりしぼって私たちの運動の先頭に立ってくれた、それこそ輝ける日協連の専務理事でした。私は総会の役員選考委員会に臨んだ時、貴兄が亡くなる前4、5日前病院で奥さんが、『木下の命はもうそれ程長くはないでしょう。何年も寝込まなくてはないということでしたら、私も無理を申し上げようとは思いませんが、もしこのまま総会まで生きていたらどうかもう一度役員に選んで日協連の現職として送ってやっていただけないでしょうか。木下は生協以外のことは何も知らなかったのですし、寝込んでからも気持さえよければ日協連のことばかり話していたのですから。中林さん、これが木下の妻として私の最後のお願いですが』といわれたことを思い出しました。
木下君。貴兄は苦しかった日協同盟から日協連を支えるなかで奥さんがよく協力してくれた話を私にしていました。私は貴兄らの御夫婦は本当に生協運動家らしい夫婦だといっていました。
木下君。安らかに眠って下さい。私は勿論日協連の仲間達は貴兄のたくましい精神をうけついで頑張り抜くでしょう。貴兄の情熱はわれわれの中に永遠に燃えつづけるだろうと思います。御遺族に対しても私たちはできるだけのお力になることをお誓い致します。
以上
*グラジュダンチェフ氏:『日本生協連50年史』ではグラシュダンツェフ、国民生活センター編『戦後消費者運動史』ではグラシュダンチェフと表記されている。
冒頭の写真は『追悼 木下保雄』掲載の遺影写真。
(その1)山本秋氏の追悼のことばはこちら

【2010/07/13 23:25】 | アーカイブ
トラックバック(0) |
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿
URL:

Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 


トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック