【国民生活センター編『戦後消費者運動史』より戦後の生協の動向と生協法制定関係の情報】その2
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『戦後消費者運動史』P50~
5 生協運動の動向と生協法の制定
(2)生協法制定の経緯とその特徴

1948年7月、「消費生活協同組合法」が公布・施行された。生協がそれまでその法的根拠をおいてきたのは、1900年(明治33年)に制定された「産業組合法」(産組法)である。しかし、産組法は「商業資本および高利貸資本の収奪から農民および中小企業者を保護する」というものであり、その対象は主として農民であった。同法では、信用組合、購買組合、販売組合、生産組合の4種類の組合を規定、このうち購買組合のみが「生計に必要なる物」の購買を認められていた。購買組合は、同法によって「営業税免除の特典を与えられる一方、設立認可、監督、解散などの規制を受けたが、この法律の適用は官僚の権限に属していたため、生協運動に対する弾圧の手段とも」なった。戦後GHQは、民主化政策の一環として法体系の整備を進め、協同組合関係についても農業協同組合法、漁業組合法、経済協同組合法等の法案制定が関係各省において検討されていた。
日協は、創立総会において綱領の一つとして「我等は民衆生活を圧迫する一切の悪法・悪政に反対し、民主的協同組合法の制定と官僚的協同組合の徹底的民主化を期す」を謳う一方、諸決議のなかでも「協同組合法制定に関する件」のなかで「大衆の手に依って下から作り出されたる協同組合法を政府に依って制定せしむべきことが必要である」を決議、民主的協同組合法の制定を当面の目標としていた。この時すでに日協内部では、協同組合法制定促進実行委員会を設置したほか、山本秋、辻誠、笠原千鶴等による小委員会を設けて、協同組合法案制定の準備に取りかかっていた。
47年、GHQの指示に基づき政府は、「町内会及び類似団体廃止」に関する政令を公布、これに引き続きGHQは、同年5月3日、政令15号において、町内会役員であった者の町内会類似団体への就職の禁止・町内会財産の処分・政令公布以後に設立された町内会類似団体の解散を指示した。
その際警視庁では、解散すべき町内会類似団体の一つとして生協を含めようとした。このため日協が、同日内務省に真意をただしたところ、内務省は、「純粋に経済的な協同組合については、問題ないものと考える。GHQにも打ち合わせてみよう」と回答した(『日本協同組合新聞』第30号、47年5月15日)。一方、本位田祥男東大教授の斡旋によってGHQに真意を確かめると、GS(民生局)のグラシュダンチェフ係官は、「戦争協力組織だった町内会・隣組を解散させた後に、国民のよるべき生活組織として民主的な協同組合を組織させたいと考え、目下その根拠法を研究中である」との回答であった。これに対し日協では、日協中央委員山本秋による私案があることを伝え、両者協議の結果同私案を基盤として生協法案を起草することとなった。山本は、後に主著『日本生活協同組合運動史』においてこの点に触れ、「直ちに日協同盟は事務局員野村カツを川崎生協の山本の所に派遣し、GHQとの交渉に加わるように伝えた」と述べている。これに関して野村は、日協婦人対策部の主婦たちとGHQへ生活必需品の荷受権の要請に行った時、グラシュダンチェフ(後にグラッドと改名したため以後グラッドと呼ぶ)が出てきて、「みなさんがどうしても生活必需品の共同購入をしたいのなら、協同組合法をつくればよい。きちんとした法律があれば実現できる」と言った。野村は、すでに山本秋の私案があることを伝えたところ、「すぐに持ってこい」ということになった、と回想している。
グラッドは、当初農協、生協等を包含した単一の協同組合法の制定を進めていたが、日協側では個別法を主張、最終的には生協法案という個別法として作成されることになり、以後日協側とGHQ(主としてグラッド)との問で逐条的に審議が進められた。生協法案審議の経過及び同法案の詳細な内容については、前記『日本生活協同組合連合会25年史』及び山本秋『日本生活協同組合運動史』等に詳しいので、ここでは簡単に触れるに留めるが、47年6月、審議経過を踏まえて生協法案が起草され、同月13日グラッドの承認を受け、その後同月19日の日協中央委員会の決議を経て、「生活協同組合法案」として正式に決定した。
日協6月案と呼ばれた第1次法案は、生協組織の根拠を憲法25条の国民の権利条項に求め、「国民の権利の行使として国民は生協を作ることができる」と規定するほか、生協は、金融・保険・貿易を含む事業活動や地域制限なしの合理的な配給活動ができるなどの極めて民主的な色彩を備えたものであった。
6月案は、全国的に取り組まれた「生協法制定促進運動」の高まりを背景に、第1国会での審議をめざして各政党に持ちこまれた。しかし、当時石炭国家管理をめぐる与野党対立の状態のなかで国会審議は混乱状態に終始し、生協法案の国会上程は極めて困難な状況となった。このため日協では6月案上程をめぐって各政党の意見調整を図るとともに、6月案を修正して妥協的な「生活協同組合法案(8月案)」を作成した。
しかし、その後事態は思わぬ展開をみせた。生協法制定に積極的に協力してきたGHQ側の係官グラッドが突如解任されて帰国したのである。冷戦体制の深化のなかで、アメリカの対日政策もそれまでの民主化・非軍事化路線から日本を極東の軍事基地として利用する方向へと方針を転換するとともに、ニューディール派の人々が相次いで本国へ召喚された。グラッドもその一人であった。生協8月案はこのような状況変化とともに、石炭国家管理法案をめぐる紛糾と各党の対立のなかで、第1国会に上程するまでに至らなかった。
日協は、100万人署名運動等を全国的に展開して生協法制定運動に精力的に取り組むとともに、生協法制定促進のための消費者大会を開催したほか、運動を背景として国会への陳情等の活動をも展開した。一方、各地の商工会議所等では中小商工業者等が中心となって生協法制定に対する反対運動が全国的に展開された。47年12月10日、第2国会が招集され、施政方針演説で片山首相は、インフレ対策の一環として生協の育成を明らかにした。しかし、片山内閣は、公務員給与引き上げ問題を背景に衆議院予算委員会で予算案が否決されたため、翌48年2月総辞職した。後を受けた芦田内閣成立の際、民主・社会・国民協同3党の3党政策協定のなかに生協法制定が盛りこまれることとなった。しかし、与党間の連絡調整がむずかしいため、政党提出ではなく厚生省を立案当局とし、衆議院厚生専門調査委員川井知章により川井私案が作られ、同案に基づく「消費生活協同組合法案」を国会に上程するよう政府に申し入れた。
第2国会へ上程された厚生省案は、「個々の条文では大体において日協案を継承したが、章別構成や重要な諸点では全く役所風に書き替えられ、その精神において大きく後退」していた。具体的な変更点については、前述した『日本生活協同組合連合会25年史』等に譲ることとして、ここでは重要な変更点について1点だけ触れておく。参議院調査部編『生活協同組合に関する参考資料』によれば、厚生省案の基本方針は、「従来の産業組合法の民主的な近代化という改正の方向の上に、対象を真に消費者のために置いた一般法として作成(中略)徒に組合を優先化する方策を取らず、組合と一般業者とを平等の立場に立たしめそれぞれの分野を守って相互に公正な自由競争をおこないながら協力させていく」ことにおかれていた。すなわち片山内閣が公約した生協の育成は「一般業者との自由な競争」という文言のなかに解消され、実態は生協の要求とは大きくかけ離れたものとなった。
その後国会上程のための閣議で、「都道府県の区域を超えて、これを設立することができない」との条項が加えられ、さらに国会審議の過程で「員外利用禁止」規定を盛り込むという与野党間の受協によって閉会直前の48年7月3日午後11時50分、「消費生活協同組合法」は両院を通過、成立したのである。こうして成立は、同年10月1日より施行、同時に産業組合法は廃止された。しかし生協法は、制定当初から生協関係者に多くの不満と反省点を残した。山本秋は、「生協法改正闘争は生協法の字句の修正を求めるだけでなく、実際運動の間に事実を作り上げるための闘争でなければならぬ。その意味では地方自治体に対し生協のあり方を認めさせる地域闘争が非常に重要である」と述べている。また、生協法成立直後の7月10日号の『日本協同組合新聞』紙上で当時の藤田逸男中央委員長は、生協法の成立に関して「法案の内容に付ては、われら言うべき多くのものを有っている。委員会に於てすら、第三国会に於て修正さるべきことが付帯決議と成った程である。之を満足な法律とする努力が続けられねばならぬ」と修正・要望貫徹運動への協力を訴えている。
生協法の成立がその後の生協運動の動向に与えた影響は計り知れないものがあった。中林貞男は生協法の成立について「生協法を獲得したら、日本の運動は更に前進するだろうと大きな夢と期待をもっていましたが、生協法が獲得されてみたらとたんに日本の生協運動は大水が引くように後退しました」と慨嘆しているが、生協法成立を契機に生協運動が厳しい冬の時代を迎えたことは否定できない。その証拠として一点挙げると、産業組合法の経過措置として、産組法による組合については、2年以内に生協法による組合に組織変更することとなったが、この過程で自然消滅し、戦列を離れて行った組合も少なくない。
日協は、生協法の最大の不満点を「生協法が単に組織に法人格を与えるという組織法にとどまらず、統制経済下での事業権を保証する行為法であること、生協の資金的裏付けとして信用事業・保険事業を認めることという二つの基本的要求を踏みにじったばかりでなく、非課税原則の撤廃、員外利用の禁止、地域生協の事業連の禁止など産組法より後退する条項を組みこむに至った」点等を挙げている。このため生協運動は、生協法成立と同時に法の改正を主要課題として展開していくことになるのである。
その後、日協本部を中心に生協の連合体創立の準備が進められ、50年10月には、第1回発起組合会議が開催された。この会議で、活動計画その他創立に必要な事項を審議する小委員会が設置され、地域ごとのブロック会議や全国指導連発起人懇談会の開催が決定した。ブロック会議等で意思統一が進められるなかで、翌51年1月、発起組合会議(藤田逸男代表)が開催され、「日本の生活協同組合は、終戦後逸早く、昭和20年の秋、日本協同組合同盟を結成し、消費生活協同組合法を闘い取ったのである。而してこの生協法は未だ極めて不完全ではあるが、発達を期する指導面に於て、全国連合の途が拓かれているのである。この法的根拠を以て団結し、政治的に又社会的に大いに吾等の主義を貫徹すべき好機として起つべきであろう」を主旨とする設立趣意書を決定した。
そのような経過を踏まえて同年3月19日、東京大学で日協の解散総会が行われ、翌20日同じ場所で、「日本生活協同組合連合会」(日生協)の設立総会が開催された。こうして生協運動は、「日協が培い、闘いとった実績は、今後の日本生協連の活動の基として、同じく日協が生んだ日本生協連の中に太い根となり、運動の支柱となって」(日協最後の活動報告より)脈々として貫かれていくのである。
以上

【2010/07/10 00:16】 | アーカイブ
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