<Mより発信>
引き続き、国民生活センター編『戦後消費者運動史』より戦後の生協の動向と生協法制定関係の情報をご紹介する。特に生協法の制定にまつわるエピソードは、GHQの対日政策の転換に関わる内容のものだけに衝撃的だった。せっかく資料室にいたのだから、生協法抜本改正作業が進んでいた頃に勉強していればよかったと後悔したが、今からでも情報を共有しておくことは大事だと気を取り直してのアップである。
【国民生活センター編『戦後消費者運動史』より戦後の生協の動向と生協法制定関係の情報】その1
『戦後消費者運動史』P48~
5 生協運動の動向と生協法の制定
(1)生協運動の動向

前章に述べたように、戦時中壊滅状態にあった協同組合は、食糧難や悪性インフレのなかで戦前の消費組合運動の指導者たちが戦前の分裂を超えて結集し、1945年11月、「日本協同組合同盟(賀川豊彦会長)」(日協)を結成、いち早く再建へ向けて踏み出した。この間、全国各地で俗に「買出組合」といわれた協同組合が自然発生的に簇生、特に翌46年から47年にかけては、食糧危機の深まりを背景に爆発的に増加、47年6月頃には、6,500組合、組合員数300万人に達した。47年9月の日協調査によれば、このうち5,487組合が日協に参加している。また47年5月には、300組合、130万組合員を擁する「東京都生活協同購買利用組合連合会」(橋浦泰雄理事長)が創設されたほか、「東北・関東信越・東海北陸・関西・九州の5地区で協議会が開かれ、これを通じて地方組織が一応整えられ、同時に、日協の地方組織も確立」されている。
短期間に急増した協同組合について『日本生活協同組合25年史』では、次の3点を特徴として挙げている。(1)食糧難を背景として出発したため、初歩的な共同購入活動を中心とする、(2)職域生協が圧倒的に多く、規模の零細性が特徴、(3)地域生協は町内会単位の小規模組合が大半である。したがって、結論として「全体としての生協の体質の零細性・脆弱性と設立動機の一面性のため、独自の組織行動が行われず、また十分な経営管理技術さえ備えておらず、食糧事情が好転してくると生協への結集の動機は失われ、ドッジラインが強行され、金融統制下で生協への融資が事実上絶たれるに及んでほとんど活動停止、解散するに至る」と述べている。もともと日協は、いわば「同志的結合体として結成された」ものだが、結成当初から組合を基盤として現実の事業活動を行う実戦部隊としての全国連合会の組織化の機運が現れていた。47年1月第3回中央委員会が開催され、国際協同組合同盟(ICA)加盟及び全国連合会組織化が決定した。こうして、同年7月5日の国際協同組合デーを契機に「全日本生活協同組合連合会(全協連)」(田中俊介会長)が結成された。
ドッジラインによる超均衡予算の成立によって、その後の生協運動は深刻な影響を受けた。その最大のものは経済統制の撤廃による弱小生協の経営難である。特に敗戦直後全国各地に簇生した買出型生協の多くは、戦後の経済統制によりほとんどの生活物資配給機構から排除されていたため、40年代後半になると、生協経営は困難を極め、「壊滅するか個人商店化して」いた。このような状況のなかで「財政資金にささえられていた国内購買力を抑制して輸出を増大させる」ため補助金制度を縮小するとともに、資本の活動性を高めるために経済統制が大幅に緩和されたのである。
50年代末までには米・砂糖・油脂等を除き消費物資の大半が統制撤廃となった。このような統制撤廃によって、生協の側も経営上大きな打撃を受けることとなった。その要因として前記『日本生活協同組合連合会25年史』は、「機敏に対応するだけの経営技術と大衆的基盤をもたず、官僚統制に事実上組み込まれることによって自主的な発展の道を見失っていた」ことを挙げている。すなわち当時の生協経営の状況をもっては、自由化後の競争激化に対応できなかったのである。このため最盛期6,000組合を超えた生協も50年10月には、6分の1の1,130組合に減少した。
→その2へ続く

【2010/07/09 23:28】 | アーカイブ
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