主婦会館初代館長 奥むめお写真.jpg
<Mより発信>
全国消団連の主要な会員でもある主婦連(主婦連合会)の創立者である奥むめおに関して、設立当初から日本生協連の副会長でもあり、GHQの承認が得られないまま渡欧の際にICA事務所へ加盟申請書を届けた人物であるという理解はあった。
主婦連は、1948年に発足、翌年には「運動の拠点」づくりのための募金活動がはじめられ、1956年に四ツ谷の駅前の主婦会館を建てている。日本生協連や全国消団連のさまざまな集会や会合が主婦会館で開催されているのが資料を見ていてもよくわかる。その会館が老朽化し、1998年に全面的に新築、主婦会館プラザエフが誕生した。その際に日本生協連が2フロアを買い取って協力している。歴史的経過からして当然のことだと思う。
そのプラザエフ5階に日本生協連の会議室・資料室が、6階に生協総合研究所、全国消団連事務局、消費者機構日本が入っている。しかしながら、日本生協連と奥むめおや主婦連との関係について、きちんと理解している職員はどんどんいなくなっているのが実情であり、かくゆう私もそうであった。調べていくと生協運動家でもあったこともわかってきて、きちんとこちらでもご紹介しておかなければという思いを強くしていた。
主婦会館プラザエフHPの「創立者 奥むめお」のコーナーはこちら

1997年3月30日発行の国民生活センター調査研究室編による『戦後消費者運動史』が資料室にあり、奥むめお・主婦連についてわかりやすい記述しているのを見つけたのでご紹介したい。
同資料編はこちら。本編の表紙デザインは資料編のデザイン部分を青にしたもの。
【国民生活センター編『戦後消費者運動史』より奥むめお・主婦連関係の情報】その1
『戦後消費者運動史』P19~
(3)物価安定推進運動と主婦連の結成

東京では敗戦直後、食糧難やインフレ、住宅難等のなかで、いち早く協同組合運動の再建が動き出した。戦時中は活動停止を余儀なくされたり、弾圧されて消滅した消費組合運動の関係者が戦前の分裂を超えて結集し、1945年11月18日には農業・漁業関係者も含めて「日本協同組合同盟」(以下日協と略す)が発足した。戦時体制下での配給組織の町内会等を基盤とした消費組合が各地で自然発生的に簇生するなかで、日協の活動も活発化し、特に婦人の活動(婦人実行委員会、婦人中央委員懇談会を経て婦人対策部の活動。47年1月から49年5月まで)に目覚ましいものがあった。
東京の主婦連合会の生い立ちも、このような消費組合運動(48年7月に消費生活協同組合法制定。その頃から生活協同組合、生協運動と呼ばれるようになり、今日に至っている)と大きく関わっている。後に主婦連合会会長として戦後消費者連動のリーダー的存在となる奥むめおの戦後の活動も、東京・上野毛生協の結成から始まる。同時に奥は、日協創立時から中央委員を務め、生協法制定等でも活躍した。
もともと奥は、婦人参政権獲得をめざす婦人運動家であったが、大正末期に消費組合西郊共働社に参加して以来の生協運動家でもあったから、戦後奥が生協活動から出発したのは当然の選択であったろう。昭和3年当時、奥は赤松常子や丸岡秀子等と共同で「婦人消費組合協会」を結成している。同協会は、“婦人はすべて婦人消費組合協会へ”をスローガンに「物価値下げ、不正商品の征伐からはじめて児童福祉、母性保護、学校教育の改善、税制改革、社会的福利施設の増設など」多彩な運動に取り組んでいる。また、同協会ではこのほか生鮮野菜の産地直送や物価の調査、日用品の品質検査、講習会の開催など極めて今日的な活動にも積極的に取り組んだ。これらの運動は、戦後の主婦連の活動にもそのまま引き継がれている。したがって、主婦連結成の動機付けは、このあたりまで遡ることができるといっていいだろう。事実、奥自身後に、婦人消費組合協会の解散に触れて「婦人自身の手による婦人のための消費組合、この組合の理想は、その時(解散)のくやしさとともに、その後の私のなかに脈々と流れ、戦後、主婦連合会という形を取って実現した。婦人消費組合協会は短命だったが、戦後のおしゃもじの主婦連の原形とも言えるのである」と述べている。
『戦後消費者運動史』P21~
(4)物価安定推進運動の展開と婦人運動

戦後奥は、上野毛消費組合を創設した後、1945年11月18日の日協の創立に参加、常任委員に就任している。その後、47年4月、国民協同党(Wikipediaの項はこちら)から参議院議員に選出された。当時安本や物価庁では大々的にインフレ対策国民運動を展開しようとしていた。与党の国会議員でもある奥は、「当時の経済安定本部から主婦の経済的関心を高める方法を考えてほしいと相談を受け(中略)さっそく生協の婦人たちや、婦人団体の人たちと相談して、いろいろな計画をたてた」と述べている」。
『経済安定本部史』においても、48年4月片山内閣の後を受けて組閣した芦田内閣では、ヤミ値の横ばい、公定価格の上昇傾向によってヤミ値との差が急速に接近してきた状況のなかで、本腰を入れて物価安定に取り組むこととなり「7月の補正価格設定の一段落を期し、いよいよ物価安定推進運動を全国的に積極的に展開することとなり、8月13日の閣議で運動方針を決定し、物価安定施策の重点的推進を図るため、物価庁内に推進本部並びに中央協議会を、各地方物価局単位に地方協議会」が設けられた。物価安定推進運動は、これらの組織を通じて、(1)啓発・指導を図るほか、(2)物価監視委員制度の実質的強化、標準店制度の充実、相談所の拡充、価格査定委員会監査業務の強化等が図られることになった。
『戦後消費者運動史』P27~
(6)主婦連初期の主要活動

大阪の牛肉不買運動の報告を受けた東京の活動家たちは、東京では何をすべきか話し合った末、48年9月3日、渋谷の社会事業館で「不良マッチ退治主婦大会」を開催した。「会場前では、大型トラック2台に山と積まれた優良マッチが、つぎつぎと不良マッチと取り替えられていった。(中略)主婦たちは日頃、いかにマッチがつかなくて苦労しているかを訴え、業者や係官を追及」した。主婦大会では、その後生活問題全般について懇談協議の後、以下の決議文を採択、関係官庁につきつけた。
1、主食の計画配給、持込み配給の実施
1、鳥も食べない主食の配給はお断り
1、大きなジャガ芋を配給して下さい
1、のぎつき麦はもう一度ついて配給して下さい
1、ガス、電力、木炭の増寵要求
1、粗悪繊維製品や既製品はいりません
1、衣料の配給制度の企画は婦人に相談して下さい
その後約20日間、奥たちは都内の各駅前広場や学校の校庭、空き地、寺や教会を利用して主婦大会を開催、純綿の手ぬぐいやタビなどさまざまな商品の公定価格販売を行う一方、出席した主婦にヤミ撲滅を訴えた。奥自身「日に11回も出席したこともあった」と語るほど精力的な活動が展開された。主婦大会の参加者は各地で地域の主婦の会を組織していたが、全体をまとめる組織はなく、しだいに組織化の必要性に迫られるようになった。その間、48年10月の協議会で、「主婦連合会」という正式名称が決定している(主婦連の第1回総会は49年4月に開催され、奥会長就任)。主婦連合会(以下、主婦連と呼称)は、結成直後から「主婦大会」開催を中心として全国に活動の輪を広げていった。
同年12月10日、日比谷公会堂で「物価値上げ反対全国主婦総決起大会」が開催され、協議の結果以下7項目を決議、物価庁長官に提出した。
1.年末物価値上がり防止
2.警察当局のヤミ退治、ヤミ物価取締りの強化
3.木綿布の配給増加の要望
4.(丸に公の文字)引き下げの要望
5.年内に計画された燃料の確実配給
6.優良店選定は主婦の手で
7.正月用品確実配給
これに対して物価庁からの回答は、「価格表示に関する規則の周知徹底に務めるが、消費者各位の協力と監視を特にお願いする。本問題に閲し爾後取締官庁をふくめて一般関係官庁と連絡会議を設け、御鞭捷の趣旨にむくいることに決定した」等で何ら具体的な解決策を示すものではなかった。
しかし、いずれにしても大阪主婦の会の牛肉不買運動を契機に、主婦連の結成と全国規模にまで展開した主婦大会の活動がヤミ物価の沈静化、物価の安定に及ぼした影響は目覚ましいものがある。このような運動は、物価安定に寄与すると同時に、とくに主婦層の物価問題や品質問題に対する「消費者」としての意識を高めることにもなった。ちょうど48年から49年にかけては、占領下の経済政策が大きく転換した時期である。48年12月には「経済安定9原則」が指令され、それを推進するため49年2月にはドッジ公使が来日して、いわゆるドッジラインが展開された。経済統制はむしろ資本の活動を妨げることから、次々と廃止され、米穀、砂糖、油脂などを除き、ほとんどの消費物資の統制は50年末までに解除された。消費生活上では、小売業者等の活動が活発化する一方、ある程度統制の配給機構の上に乗って経営されていた弱小の生協の多くが潰れていった。48年7月に成立した消費生活協同組合法(生協法)が、産業界からの攻撃で信用事業、保険事業、非課税などを勝ち取れなかったことも当時の生協の危機に拍車をかけた。このような統制経済から戦後の市場経済への転換期のただなかで、主婦層は小売業者やメーカーに対して消費者の立場からの声を上げていく運動に着手したのである。
翌49年、主婦連は「主婦の店選定運動」に取り組んでいる。主婦の店は、「業者の覚醒と消費者の(丸に公の文字)や量目等に対する関心を高め、両者の物価安定協力態勢を確立強化して、物価安定推進運動に寄与しようとする」ものであった。主婦連では、全市の主婦が優良店選定運動に入ったと宣伝を徹底することが大きな社会的刺激となるので、主婦側の態勢を整えること、業者側にも趣旨を徹底させて、双方の理解を深め自粛と協力態勢の確立を申し合わせた。選定条件は、値段表通りか、量目が正確か、品質がよいか、自由販売品は他店より安いか、公平で親切か、衛生的かの6項目。選定店は魚屋、八百屋、加工水産物店、味噌醤油店、肉屋の5業種で、デパートと生協の店舗は除かれた。
投票は3月15、16の両日行われ、総投票数47万,857店が主婦の店に選定された。選ばれた店のなかには、「お礼回りをした店、額縁に入れて店頭に飾った店もあった」、その反面「同じ町内で一軒の店に“主婦の店”のレッテルをはられるのは同業者にとって死活問題」と反対を表明する業者も少なくなかったようだ。
このほか主婦連初期の活動として、「銭湯の料金値上げ反対運動」、「電力料金値上げ反対運動」等の物価値下げ運動に取り組む一方、不良マッチ追放運動に代表される不良品追放に大きな力を注いでいる。
主婦連はその後、科学的裏付けに基づく運動を取り入れるために、50年、日用品審査部を設けている。日用品審査部は、マーガリンやたくわん、プラスチック食品など数多くの日用品を科学的に試験し、安全性や適正表示を求めて次々と発言していった。50年代後半から高度成長期にかけて、新たな消費者間題が生成してくる過程で、主婦連の商品テストが消費者運動に果たした影響は極めて大きなものがある。後年奥が、「主婦連合会の背景は、なんとしても多くの主婦の家庭生活の中から出る素朴な声と日用品試験室にある」と述懐しているように、物価値下げの運動から商品の品質までを含んだ幅広い運動へと次第に拡大していった。
→その2へ続く
*冒頭の写真は「主婦会館開館50周年」記念のリーフレットに掲載されていた奥むめお初代館長の写真を携帯で撮影したもの。

【2010/07/08 12:55】 | アーカイブ
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