【中林貞男氏「賀川先生と私 生活協同組合運動の基礎」】その2
その1はこちら
(三)
私は賀川さんにはいろいろな思い出を持っています。これも終戦間もない頃だったと思いますが、社会党の鈴木茂三郎、三輪寿壮の両氏から都知事選に出て貰いたいと思っているがと内交渉を頼まれ、松沢のお宅へ行きましたら、君は俺と一緒に仕事をしていて俺の気持が判らないのか、俺に江戸川の泥水を呑めというのかと一喝され、ほうぼうの体で帰ったことを覚えています。
しかし、一番教えられたのは日協同盟や日本生協連の初期の総会の時です。その頃大学生協連の若い諸君が国際情勢の分析等で延々と質問や討議を繰り返し、本論に入ろうとしない訳です。大人の代議員や私等がいらいらしだすと、隣りの会長は「若い者の発言に耳を傾けることが出来なくなると人間はおしまいで発展しなくなる、特に君は専務で執行部の中心だ、執行権を持っている者は絶対に怒ってはならない。これは民主々義の原則だ。日本は新憲法が出来て議会制民主々義が確立したと言っているが、執行権を持っている政府や与党がそれを理解していないところに最大の不幸があるのだ」と何回となく私を諭されました。これは先生から学んだ最大の教訓で、私は総会、理事会は勿論日本生協連の運営で一番気を使って来た点ですが、生協運動にとっても大切なことで、平和を守るための原則でもあると思っています。
また1957年2月に岸内閣が出来、警職法を制定しようという計画があり、58年に警職法反対の国民運動を起すために南原繁さんや賀川さんを中心に7人のアッピールを出そうということで、私がお宅へ署名の了解を戴きに伺った処、それは当然のことだ「若し日本が二度と戦争への道を歩むようになったら生協は組織を上げて反対しよう。若しそのために牢屋へ引張られるなら一緒に行こう」と固く握手されましたが、私はその時のきつく然も温い握手を忘れることが出来ません。いまも平和の問題をしゃべる時等にはその模様を引用しています。
(四)
更に大変だった思い出があります。1958年1月に第一回の協同組合のアジア会議がクアラルンプールである時、生協の理事会ではみんな賀川さんに行ってもらおうということになりました。当時日本生協連はICAの場で田中さんも私も原水爆反対、中国の加盟を主張していました。従って私は松沢へ伺ってその経過を説明しました処、俺は台湾の独立論者だ、台湾のことは台湾の人が決定すべきで俺は毎年その資金を送っているのだ。と激怒され、私もこれは大変だと引き下り、本部で相談しましたが、理事会で既に決め、ICAの総会でも主張していることなので会長を説得すべきだということで再度訪ねましたが将があきません。それでは別の者が行くようにしようということで三度伺いましたら、今度は賀川さんはにっこりして俺は未だ君に会長を止めると言っていないだろう。会長でこれだけ君に説得されたら機関の決定に従うよと握手され、私も流石賀川さんだと感心しました。
また私は1957年にICAのストックホルム大会に出席後、西欧諸国は勿論東欧も廻り、東ベルリンへも行きましたが東西ベルリンで同一民族が二つに分断され、兄弟、親戚が東西にバラバラになっている不幸をしみじみ聞かされると共に生協だけは僅かに商品の交流をしていることを知り、流石生協運動だと感心しました。同じ頃先生は韓国を訪問されて私と同じ感想を持って帰られ、大国の政治によって分断されることの悲惨さ、日本ではそんなことが絶対にあってはならない、その意味でも戦争には飽く迄反対しようと誓い合いました。その時、私は賀川さんに将来若し共産党が議会で多数を占め、権力を握ったような場合にはどうされますふ、飽く迄武力ででも反対されますかと、尋ねましたら「俺は暴力には絶対反対だよ」若しそうなったらタッピング君(米国人の牧師) の軽井沢の別荘へ引きこもって日本人の幸福を神に祈って暮らすよと言われ、私は賀川さんの態度に心から圧倒されました。
(五)
日本生協連結成の時、私は賀川さんに木下君はクリスチャンだし、戦前からの運動者だから彼を専務(*)にした方がよい、と言いました。そしたら先生は、現在生協運動の中にはクリスチャンは沢山いるし、また共産党の諸君もいる。生協は絶対に片寄ってはならない。俺もクリスチャンだから君のような立場の者が中心になるのが一番よいし、そうしないと運動は発展しないと言われ、それにも先生の卓見に感心しました。私はお互の思想、信条、宗教は自由だが、生協としては政府に対し毅然とすると共に如何なるイデオロギーや政党の支配を受けてはならないと固く信じています。この賀川さんから受けた教訓は非常に大切なことであり、この賀川精神は今日迄脈々と流れていますが、それが生協発展の基礎になっていると確信しています。
私は未だ賀川理論というものを体系的に研究したり、纏めてはいませんが、以上の点からしますと『賀川豊彦研究』第3号の深田未来生さんの「人間全体の解放」には共感を感じます。賀川さんは素晴らしいキリスト者であると共に思想家であり、数字に詳しく賀川流に科学を愛し、先駆者的な鋭い洞察力の持ち主で、一緒に旅行等をしていると突然発想が飛び出し困ったこともありますが、また行動の人でした。大正初期の川崎造船のストにも関係されたり、労働総同盟の創立や農民組合、医療組合の運動にも関係し、また有名な神戸の新川の活動に投じられたのは明治42(1909)年で、神戸消費組合をつくられたのが大正8年、続いて灘購買の設立を助言された。同12年に関東大震災が起ると直ちに上京して江東消費組合を創立、戦後日本協同組合同盟の創立に尽力され、それが今日の日本生協連に発展している訳ですが、これをみても行動の人であったと言えるし、世間にはいろいろな賀川批判があることも私は百も知っています。これだけ多彩な行動力を持った賀川さんにそれぞれの立場で批判のあることは己む得ないことだと思いますが、私は賀川さんは一貫したヒューマニズムに基く平和主義者であり、民主々義者で、国際人で今後も日本の生協運動の中に脈々と流れ続けると確信しています。
(日本生活協同組合連合会会長) (一九八五・四)
以上
(Mによる注記)
*のちに二人専務制をとるが、この時は一人専務制で、中林貞男氏が専務になった。

【2010/07/06 22:22】 | アーカイブ
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