<Mより発信>
1985年6月30日発行の本所賀川記念館『賀川豊彦研究』第7号が資料室の賀川豊彦コーナーにあり中林貞男氏「賀川先生と私 生活協同組合運動の基礎」という文章が掲載されていたので、2回に分けてご紹介する。
この間、ご紹介している木下保雄氏もその2の部分で登場する。賀川会長の人材登用の考え方の一端もわかって興味深い。
【中林貞男氏「賀川先生と私 生活協同組合運動の基礎」】その1
(一)
賀川先生と私の具体的な関係は、昭和20年8月の終戦の年に廃虚となった日本の再建を協同組合運動の手でやろうと、同年11月に戦前からの関係者がみんなで先生を中心に日本協同組合同盟を結成した時からです。私は大学を出て新聞記者になり、戦争中は大日本産業報国会にいましたが、解散の時産報の会費の半分は政府、半分は企業の負担が大部分であったが、建前は労働者が出すことになっていたので、その財産は当然これから生れる労働者の民主的運動に提供すべきだということを主張しました。この私の提案は内部でも、また政府、GHQでも了承して呉れましたが、労働組合運動は統一の機運がなく、協同組合運動は賀川さんを中心に統一して発足することになっていましたので、GHQ、政府では協同組合運動に譲渡するのがよいだろうということになり、私は旧知の黒川泰一、山岸晟氏等に連絡しましたら賀川さんも大賛成で神田の救世軍の建物の賃借権と机、備品、用紙等を条件付きで同盟に渡しました。産報の現金は一切国庫へ返しましたが、そんな関係で私は同盟の創立にも参加しました。同盟の創立当時の資金は賀川さんが北村徳太郎民の関係で佐世保の海軍の共済会から借りられた100万円が全部です。従って同盟は賀川さん拠出の100万円と産報からの救世軍の建物、備品を中心に発足しましたが、満州の合作社出身の鈴木真洲雄中央委員長を中心に約100名の理想に燃える役職員がいましたのでまたたく間に財政はピンチに陥りました。私は産報で会長の平生釟三郎氏の秘書をしており、平生さんは賀川さんの運動の協力者で、文部大臣もした財界の大立物でしたのでそんなところから賀川さんに信用され、同盟発足後しばらくして事務局長をやって内部のコントロールをきちんとして呉れと言われました。それ以来松沢のお宅へ伺ったり、先生との関係が深くなった訳ですが、先生の巾広い行動を支え、財政のきり盛りをされていたのはハル夫人で、夫人があったからこそ先生の存在があったのだとつくづく思いました。
(二)
当時賀川さんが事務所へ来られる度毎に私等に口癖のように言われたことは、生協運動者は身辺を清潔にし酒と女に注意しろということでした。その頃農協等によく不正事件があり、新聞等をにぎわしていた関係もあって耳にタコが出来る程聞かされました。そして生協はこれから段々商品等も扱って行くようになると業者等からの誘惑が多くなるのだ。生協は組合員の運動だから君達はその立場にたって仕事をすることが一番大切で、そこが商人との違いなんだ。私はこの賀川さんの創立時のお説教はいまもずっと受けつがれ、貧乏時代から現在迄大した事故もなくやってこれたのだと感謝しています。ただ賀川さんもお年ですのでタクシーで松沢のお宅迄お送りしようと言いますと、足を叩いて立派なこれがあるではないか、庶民がみんな歩いているのに俺がタクシーに乗れるかといつも叱られ、そのために田村羊子君か誰かがお宅迄お送りしなければならず却って困ったことを覚えています。
そして生活の態度、人格論もよく説かれ、俺は唯心論者で唯物論には絶対反対だ、従って共産党は大嫌いだといつも言っておいででしたが、日協同盟の第三回総会に共産党の野坂参三議長が来賓とし挨拶にみえたら、壇上でかつての労働総同盟(*)時代の旧交を温め、胃袋は一つなのだから仲よくやろうと固い援手を交わされる光景にはみんな驚き、私は賀川さんの偉大さに感心しました。
→その2へ続く

(Mによる注記)
*労働総同盟とは、「日本労働総同盟」のことだと思われる。
Wikipediaの「日本労働総同盟」の項はこちら

【2010/07/06 14:45】 | アーカイブ
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