<Mより発信>
6/30の「JCCU協同組合塾」の第1回定例会で「世界の協同組合の歴史と協同組合原則」について学んだ。1937年にロッチデール原則がICAの場で「協同組合原則」となり、さらに時代の変化と協同組合運動の発展のために何度か大きく改定されてきている大きな流れも把握できた。
その中に1966年の改定で「政治的・宗教的中立」の原則がはずされている。この原則の解釈はいろいろとあったようだが、世界の協同組合組織の実情を踏まえてのことのようであった。
その関連ということでもないが、1969年に日本生協連専務理事現職のまま亡くなられた木下保雄氏の人柄がよくわかるエピソードをご紹介する。日本生協連発行の『追悼録 木下保雄』(1970年5/15発行)の「追悼のことば」コーナーに掲載された山本秋氏の文章である。

【『追悼録 木下保雄』より追悼のことば】生活問題研究所理事 山本 秋
日協同盟のころのこと。どうしてそんな顔触れの会議に呼ばれたのかは忘れた。賀川先生、木下君、中林君に私が加わっていた。賀川先生が「その団体は共産党の看板を一緒にかけさせているような団体で・・・・・・」と発言されようとした。木下君がキッとして「先生がそんなことをおっしゃるものではありません」と制した。賀川先生が相手では僕などいいたくてもいいかねることだった。そのころ、共産党が大衆化の政策をとっていて、木下君も誰かから加入の勧誘をうけたのだそうだ。いい加減に承っておくのかと思っていたら、大真面目に妻君と話合って幾晩も眠らなかった。キリスト教と共産主義の関係など疑問がつきなかったのだそうである。木下君の入党は、ついに実現しなかった。木下君は共産主義者ではなかったし、共産主義者になりもしなかった。しかし木下君は政治的中立の原則を、政党関係否定の原則だと考える俗流の解釈を排して、政党関係自由の原則だという正しい立場に立っていたのである。それはロッチデール原則が修正されるのに先だつこと20年も前のことだった。終戦後、日も浅く日本の生協運動としては、運動経験も蓄積されず、理論水準もまだ低いころだった。その段階でここまでの境地に立っていた木下君こそは、生得のロッチデール主義者だったといってよいだろう。ロッチデール原則は曲げさえしなければ正しい結論を引き出すものである。
以上

【2010/07/05 23:51】 | アーカイブ
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