<Mより発信>
生協総合研究所の前身である生活問題研究所の月報『生活協同組合研究』1988年4月号(第148号)の「時に思う」という巻頭言のコーナーに元日本生協連副会長・勝部欣一氏(故人)の「木下保雄のいもこじ論」という文章が掲載されている。1969年に専務理事に在職中に急逝された木下保雄氏(協同組合人物略伝はこちら)は中林貞男氏と二人専務体制で初期の頃の日本生協連を支えた方であり、こちらにも何度も登場していただくように考えているので、以下、ご紹介する。

【木下保雄のいもこじ論】勝部欣一
家の光協会が「心に残る協同の言葉」を亡くなった先人から集めて出版するので協力をたのまれたが、その中でもう20年も前に日本生協連専務理事のとき亡くなった木下保雄さんのことを書くことになった。
木下さんは戦前東京の家庭購買組合に入り、仕入れや組織の実務をしたあと全国産業組合中央会の全国消費組合協会の役員をやり、戦後は賀川さん提唱の日本協同組合同盟の創立に参画し、以後中林さんの女房役として日本生協連の運動指導の中心となってきた方である。
その木下さんは自他ともに生協の教育総監と任じられていたが、「協同の言葉」には、『生協運動』誌に毎月連載された「生協12こう」の中の教育活動について述べられた文の中から次の一文を選んだ。
「銭湯が混むと『いもこじ』のようだともいった。今では古い言葉でしかないが、肌をこすり合って磨きあげるこの方法を、教育の場でも考えてみて私はいったのだ。」
木下さんはよく講演などで、この“いもこじ論” を出すとともに協同組合での人と人の結びつきは、一人の指導者をとりまく太陽型ではなく、人が丸く手をつないだ組織だから、仲間同志の励まし合いと相互教育が大切だと強調されていた。
組合員の出資金も主婦達が自分の暮らしを守るために自分の意志で「チャリンと出す」ことの意義をあらゆる場で訴えてみえたが、協同組合は大衆による民主主義そのものの実践であり教育であることを常に説かれていた。それらが今日の生協運動の原点になっているといえよう。
またこの「生協12こう」の中では、生協運動にたずさわる者が「協同組合とは何であろう」と一度は誰しもが胸にもっ疑問に対して、「それは歴史を学ぶことだ」と解き、「オルグマン」については「相手の自発的協力をどう引きだか」、「仕入れマン」については「消費者組合員に代って仕入れせよ」といったように自らの体験をふくめ具体的に協同組合人の日常の心構えと行動を教えている。
私自身永年,直接木下さんの指導を受けたが、ミスに対して怒りつけたりせず、決済印を半分押して、じゅんじゅんと説かれた。あとできくと、わがままで突っ走るこの人間には大変悩まれたということで申訳なく思っている。ただ亡くなられる前、病院に木下さんが構想していたCO-OP印歯磨をとどけたときの嬉しそうな顔は今でも思い浮べる。
生協の組織や事業が大きくなって行くにつれて官僚性が強まったり、担当者が他に向って大きな顔をしたりする傾向があるが、だれに対しても丁寧に対応されていた木下さんを想いだしてならない。
無類の整理好きであり、芸術を愛し、千代子夫人とともに造られた木彫り「平和」(いのり)は生協会館の役員室に飾られてある。
ロッチデールの公正開拓者組合を励まし続け、世界に紹介し、協同組合運動を言論と文筆で導いたジョージ・ヤコブ・ホリヨ-クの言葉も、私が選者にされたが、彼の書いた『ロッチデールの先駆者たち』より次文を紹介した。
「わがロッチデールの協同組合が成就した道徳的奇蹟とは、意見を異にするも調和を失わず、互いに異議を唱えるも分離せず、ときに憎しみ合うもつねに団結を守り抜く良識を持ち待たことである。」
ホリヨーク自身、職工の子として貧困の中を生き抜き、自ら社会運動者として労動運動、協同組合運動を指導した人だが、色々な運動が起きては潰れるのを体験する中で、ロッチデールの先駆者たちが内で意見を異にしていても団結を守り抜いて行ったときに、大衆運動の原則として大きな意義を見出したことを述べていると思う。
戦前の消費組合運動は考えの違いから、分断されたとともに弾圧されたが、戦後イデオロギーの故をもって組織は割らないことを誓い合って日本生協連は発足した。
いま労働運動は大きな変化をしつつあり、平和運動もこれだけ統一運動で世界に原水爆禁止の輿論をもりあげできたのに、その統一を保てなくなっている。
大衆運動の生命はこのホリヨークの言葉にこめられており、戦後の生協運動の発展も統一を守ってきたからだということを改めて皆んなが真剣に討議し合ってほしい。
以上
(Mによる追記)
家の光協会発行の『心に残る協同のことば』も資料室にあったので、表紙を携帯で撮影してご紹介。
「現代に生かす協同のことば」表紙.jpg
また、その中にあった勝部欣一氏の文章から、上記の内容とダブる部分を避け、木下保雄氏の紹介にあたる部分を以下でご紹介する。

若くしてキリスト者であった木下は大学時代YMCAの活動を通じ、家庭購買組合専務理事であった藤田逸男のもとで消費組合運動に身を挺する決意をもったが、戦時中配給統制下で市街地購買組合が中心としていた米等の配給権を奪われ、多くの店舗が空襲で焼かれる中で、全国消費組合協会の常務理事として苦悩した。
また戦後賀川豊彦の唱導による日本協同組合同盟創立に参画したが、占領軍の政策で農協、漁協、生協が別々の法律となり、ことに生協法制定には当時からの小売商の反対の中で苦労し、相次いで倒れていく生協をみとりながら、日本生協連を設立、その後も困難な生協には自ら長期張りついて指導に当たるなど、生協の困難期を生き抜いた人であった。
(勝部欣一)

【2010/07/04 21:14】 | アーカイブ
トラックバック(0) |
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿
URL:

Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 


トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック