<Mより発信>
引き続き、『現代日本生協運動史』から戦時の経済統制と配給権の獲得運動についてご紹介する。私なども戦時中と戦後の配給経済のイメージが湧かないのでその手がかりとしたい。
【『現代日本生協運動史』より戦時の経済統制と配給権の獲得運動】
『現代日本生協運動史』上巻P69~
4節 戦時統制と生協運動の窒息

2.戦時統制の進行のもとで
2)経済統制と配給権の獲得運動

1938(昭13)年の国家総動員法以降、物品販売価格取締規則によって「公定価格」制がとられ、さらに価格統制だけでなく生活必需品の配給統制と消費規制が推進された。それは1939年末の木炭からはじまり、繊維製品、米、麦、砂糖、マッチ、練炭、大豆と拡大され、1941年、太平洋戦争開始を前に物資統制令とそれに対応する生活必需品配給機構整備要綱が発表された。
米穀でみると1939年には一部で消費規制(切符制)がはじまっていたが、1940年には一切の米穀を国が管理し、消費者には配給割当制がとられることとなった。翌1941年から6大都市では基準配給量は1人1日2合3勺(330g)となり、通帳制が実施され、そのために米穀配給統制組合がつくられた。
米の配給ルートはそこに一元化され、生協もその統制組合に入らないと米穀の取り扱いはできなくなった。この制度では、消費者はあらかじめ「登録」された店から購入しなければならず、小売商としては一定数の登録がないと配給業務ができず、その特定された区域内でいかに多くの消費者の登録を獲得するかが問題であった。広い範囲に組合員をもつ生協では、組織率の高い地区では米を扱えても低い地域では米を扱えないという、きわめて深刻な事態となった。
さらに、1942年には食糧管理法が制定され、米をはじめとする食糧が食糧営団によって一元的に取り扱われることとなった。そのため、生協では各県の食糧営団への職員の移籍、生協の米扱い店舗の営団への移譲を余儀なくされ、生協としての米穀取り扱いはできなくなった。
このように経済統制が価格統制から配給統制へ、間接統制から直接統制に移行すると、商業者も生協も独自の営業は困難となった。いかにその仕組みのもとで事業を継続するかが問題となり、配給機構の整備が進むにつれ、「消組のごときは既に存在の要なし」といった考えも流布された。1937年の産業組合大会では灘購買組合や東京府下の消費組合から、国に物資の配給ルートとして生協を位置づけるよう陳情すべきとする意見が出された。1940年以降「新配給機構に於ける消費組合の地位の確保ならびに消費者組織を基礎とする公的配給機関の確立」=配給権の獲得が全消協を中心とする生協の最大の課題となった。
1940年5月の全国産業組合大会では「国民協力体制の確立」めざして「農村協同体制確立」と「都市消費者組織確立」の2方針を決定した。全消協はこの方針にもとづき具体的な方針を作成した。従来の消費組合は「組合員の個人的利益の擁護または生活向上」を目的としていたが、新しい方針においては「消費組合は国民生括を国家目的に奉仕せしむる」ものと規定した。さらに、「当面の任務は統制経済下における配給機関の再編成に努力するとともに配給に関する統制政策に協力」することとし、他の商業機関との提携などをうたった。
そのような国策への協力姿勢と全消協の関係方面への働きかけの結果、1940年12月、「生活必需物資配給機構整備に関する市街地購買組合の取扱方針に関する件」と「米穀割当配給制度実施に伴う購買組合、官庁購買会等の取扱に関する件」の農林次官通牒が出され、生協の統制機関への役員選出と配給地区の担当などが可能になった。
しかし、それは米穀配給統制組合による配給制のわずかな期間であり、米穀取り扱いの食糧営団への一元化で生協の米取り扱いは不可能となった(注5:この項は主に前出の日生協『現代運動史』、『産業組合発達史(第5巻)』を参考にした)。
以上

【2010/07/03 00:33】 | アーカイブ
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