<Mより発信>
引き続き、『現代日本生協運動史』から昭和初期の福島消費と各地の状況についてご紹介する。
【『現代日本生協運動史』より昭和初期の福島消費と各地の状況】
『現代日本生協運動史』P51~
3節 運動の広がりと戦時下の苦闘

3)福島消費と各地の状況
大正末から昭和初期の生協設立の動きは引き続き労働者生協のほうが盛んで、官吏・俸給生活者を中心にする混合型組合の設立はあったが、東京の家庭購買組合や兵庫の神戸消費組合、灘購買組合のような市民型生協の設立ははとんどなかった。市民型生協が盛んになるのは、労働者生協が相次ぐ弾圧で消滅していく満州事変以降である。
〈表0-3-3〉(省略)は、1939(昭14)年の主な地域生協(一般市民組合と混合型組合)の概要であるが、まだ規模は小さいが全国の主要都市に分布していたことがわかる。設立間もない福島消費組合よりも規模は大きい組合(組合員300人以上)だけ抽出したものであるが、ほとんどが戦時中まで奮闘しながら戦時体制下で解散した組合である。
その規模でみると、既出の生協以外では札幌の2組合、旭川、秋田・楢山、山形・松岬、石川・協同会、長野・高嶺、松本、岡谷、下諏訪、名古屋、鳥取、松山、宇和島、長崎、佐世保軍港、鹿児島・共助会、同・信購利組合などの各購買組合(消費組合)が当時の大組合だったといえる。
(中略)。
この時期に設立された生協の状況を数少ない存続組合のひとつである、福島消費組合の例でみてみよう。
福島消費組合の設立の動きは、東北地方が大凶作に見舞われ、「借金のかたに土地を手放しても足りず、歓楽地に身売りされる娘も多く、……県内の失業者は6万人を越す」といった状況にあった1931年、満州事変が勃発した年に始まった(注8:福島消費組合『だれでもできることをみんなで(50年のあゆみ)』82年10月)。それは福島高等商業(福島大学経済学部の前身)の学生を中心としたキリスト教青年学生同盟の活動からであり、学生の宮原良平やアメリカ人牧師の伝道を手伝っていた関誠一が中心であった。高商の榊原巌教授らの指導をうけ、家庭購買組合や神戸消費組合の活動を知った彼らは「消費組合期成青年同盟」を結成、その呼びかけに、「婦人之友社」の羽仁説子の影響下で「友の会」活動=生活改善運動を進めていた婦人たちが結集、1932年7月に福島消費組合の設立総会をもった。
出資金1口10円(加入時2円)で、設立時の組合員56人であった。宮原、関の2人を常務者にした組合は1本(180cc)4銭(市価6銭)の牛乳を配達することから事業をはじめ、米、味噌、醤油はじめ必需品のご用聞き事業を拡大していった。組合員は1934年200人、初年度7,145円だった供給高は1936年に3万円となるが、理事長、専務はじめ役員は無報酬で、2人の常務者の給料も当時の高商出身者の10分の1の月5円からのスタートだった。組合事務所は“協働の家”と呼ばれ、機関紙も“協働の家”と名づけられたが、まさに組合員と役員、常務者の‘協働”が理念だけでなく活動の実態であった。

「協同互助」は「不穏」
福島消費は1935(昭10)年8月に知事に購買組合としての認可申請を出したが、その定款は神戸消費組合をモデルにしたものであった。第1条に、本組合は「協同互助の精神を普及し経済組織の改善を計り洽く人類の福祉を益さんが為」組合員の経済に必要なる物を云々とあったが、この34文字が「不穏である」と削除された。「<協同互助の…経済組織…>は社会主義組織づくりを意味し、<洽く人類の福祉…>は反戦連動に通ずると恐れられた」ためであった(注9:前出『だれでもできることをみんなで』)。
2・26事件がおき、日中戦争に突入しようとする情勢が、設立間もない福島消費組合に見当違いの暗い影を投げていた。
当時、未認可ではあった市内に余目消費、伊達郡に飯野消費の2組合があり、福島消費組合はそれらと協同すると同時に、秋田、仙台、鶴岡、盛岡、能代、横手などの消費組合と連携し、1933年には東北消費組合連合会を結成した。しかし、それらの生協は戦時体制の強化のなかで次々と姿を消し、福島消費組合だけが戦後までに生き残ることとなる。
以上

【2010/06/26 23:38】 | アーカイブ
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