<Mより発信>
【連載第3回】:灘購買組合の成立
この組合の成立は、消費組合としては異例でした。創立者は関西実業界で功成り名遂げた那須善治。発祥の地は兵庫県武庫郡住吉村(現在の東灘区住吉町)で、阪神問の大実業家、知識人の住宅地として有名な、六甲山を常に大阪湾を望む風光明媚の地でした。

実業界を引退した那須は「自分が事業に成功し、富を成したのは社会のおかげであるから、余生を社会公共のために奉仕しよう」と決意し、苦いころ勤めていた故郷宇和島の酒造家の子息田中俊介を協力者に選びました(後の四代目灘神戸生協理事長)。田中俊介は一高を病気中退し、那須の世話で製鋼所に就職していたのを、やめさせて引っ張り出したのでした。

二人は当時のベストセラー「死線をこえて」の著者でキリスト教伝道者賀川豊彦を神戸新川の路地裏に訪ね、意見を求めたところ(大正10年1月)賀川は「現在の社会不安は、ありきたりの慈善事業のようなことをやっても解決できない。根本的な解決のためには、対立抗争しあう社会ではなしに、協同しあう新しい愛の社会をつくる実践運動として、消費組合をつくることが必要だ。那須さんのような実業界の経験者には是非それをお願いしたい」と消費組合づくりを強くすすめました。二人が「協同組合」という言葉を聞いたのはこの時がはじめてでした。

協同組合とはどんなものか?研究してみると、それは救済運動でなく経済運動であることがわかりました。二人は更に住吉村居住者で大阪財界きっての思想家でもあった東京海上火災の専務平生釟三郎に相談すると、平生は賀川の意見に同感であるといいイギリスでみた消費組合の立派な働きを紹介して日本でもぜひ必要であると力説して激励しました(平生釟三郎は後に広田内閣の文部大臣となった人)。

ここで那須の決意は固まり、まず住吉村観音林クラブの会員に設立の同意を求めるとともに組合員の勧誘にのりだし、大正10年5月26日有限責任灘購買組合の認可をえて創立総会をひらくことになりました。発足時の組合員は300人余、従業員はわずか6名でした。土地建物の入手は那須組合長が個人として無利子で立替えたり、また必要に応じて惜しげもなく私財を投じたり、この資金面での那須の援助が組合経営の健全化に貢献し、その後の発展の大きな基礎となりました。

組合員数約91万世帯、事業高2,650億余、67年の歴史を誇る世界でも屈指の大生協「灘神戸生活協同組合」はこうしてスタートしました。

この連載第3回の文章を読んでひとつの疑問が起きた。

「那須善治は先に平生釟三郎に相談したところ、賀川豊彦に相談するようにとアドバイスをされたと何かで読んだはず。順番が逆ではないか」ということだ。

日本生協連は創立50年記念事業として、年史を全国の生協運動史、その資料集、連合会史と編纂をしている。その際に、理事会のOBの皆さんに生協に関わるご自分の思い出を原稿として寄せてもらったりヒアリングをしたりしてまとめた『生協運動 想いで集』も発行している。確か、その中にそのようなことが書いてあったと思う。
『コープニュース』2003年6月号に掲載された岩垂弘氏の書籍紹介の文章もリンク

しかしながら上記の『現代日本生協運動史』の上巻をみると、嶋根氏の書かれているように先に賀川豊彦に相談にいき、その後さらに平生釟三郎に会って確信をもったように書いてある。

コープこうべの公式サイトの「2009賀川豊彦献身100年記念コンテンツ」を開いて「賀川豊彦物語~その一生と生協活動~」で確認してみたが、こちらでは「平生は豊彦に『社会にお金を投資したい』という思いを持つ那須善治を紹介しました」とあった。


そこで思いついて、日本生協連資料室の閲覧コーナーにある『追悼録 生協人 田中俊介』で該当する記述がないか確認してみた。那須善治が田中俊介を連れていったはずだからである。(田中俊介は灘神戸生協のトップになり、賀川豊彦が亡くなった後に日本生協連の二代目会長になっている)

追悼の文章だけでなく、自伝の文章も収録されていて、その中にそのエピソードは書かれていた。嶋根さんの書かれていた通り、『現代日本生協運動史』の上巻の記述の通り、先に賀川豊彦に相談に行き、その助言内容について平生釟三郎に相談にいっていた。
さっそく嶋根さんにコピー資料を送っていただいた御礼とともに、田中俊介氏の追悼録も調べて書かれたのですねと確認させていただいた。


歴史的な記述というのは一つの資料だけを信じてはならず、いろいろな文献を突き合せて検証してこそ正確性が増すものだ。まとめる者の立場によって記述の仕方はどうにでも加減できるからである。
人間や人間がつくる社会というものは過ちを繰り返すものだ。日本の歴史教育の問題でも感じることだが、生協においても過去の歴史をきちんと踏まえる視点を大事にしていかないといけないと、日々思いながら仕事をしている。

→以下、第4回に続く。


追記を閉じる▲
「那須善治は先に平生釟三郎に相談したところ、賀川豊彦に相談するようにとアドバイスをされたと何かで読んだはず。順番が逆ではないか」ということだ。

日本生協連は創立50年記念事業として、年史を全国の生協運動史、その資料集、連合会史と編纂をしている。その際に、理事会のOBの皆さんに生協に関わるご自分の思い出を原稿として寄せてもらったりヒアリングをしたりしてまとめた『生協運動 想いで集』も発行している。確か、その中にそのようなことが書いてあったと思う。
『コープニュース』2003年6月号に掲載された岩垂弘氏の書籍紹介の文章もリンク

しかしながら上記の『現代日本生協運動史』の上巻をみると、嶋根氏の書かれているように先に賀川豊彦に相談にいき、その後さらに平生釟三郎に会って確信をもったように書いてある。

コープこうべの公式サイトの「2009賀川豊彦献身100年記念コンテンツ」を開いて「賀川豊彦物語~その一生と生協活動~」で確認してみたが、こちらでは「平生は豊彦に『社会にお金を投資したい』という思いを持つ那須善治を紹介しました」とあった。


そこで思いついて、日本生協連資料室の閲覧コーナーにある『追悼録 生協人 田中俊介』で該当する記述がないか確認してみた。那須善治が田中俊介を連れていったはずだからである。(田中俊介は灘神戸生協のトップになり、賀川豊彦が亡くなった後に日本生協連の二代目会長になっている)

追悼の文章だけでなく、自伝の文章も収録されていて、その中にそのエピソードは書かれていた。嶋根さんの書かれていた通り、『現代日本生協運動史』の上巻の記述の通り、先に賀川豊彦に相談に行き、その助言内容について平生釟三郎に相談にいっていた。
さっそく嶋根さんにコピー資料を送っていただいた御礼とともに、田中俊介氏の追悼録も調べて書かれたのですねと確認させていただいた。


歴史的な記述というのは一つの資料だけを信じてはならず、いろいろな文献を突き合せて検証してこそ正確性が増すものだ。まとめる者の立場によって記述の仕方はどうにでも加減できるからである。
人間や人間がつくる社会というものは過ちを繰り返すものだ。日本の歴史教育の問題でも感じることだが、生協においても過去の歴史をきちんと踏まえる視点を大事にしていかないといけないと、日々思いながら仕事をしている。

→以下、第4回に続く。

【2010/04/18 00:02】 | アーカイブ
トラックバック(0) |


Kより
灘購買組合の設立に関するところ
よく調べられましたね。すばらしいです。
よく経緯がわかりました。

★Kさま
Mより
エピソードの記録というのは、伝聞を文字にした資料だけでなく、ご本人の記録まで検証できるといいのです。会見したという記録についてはその双方で確認できるともっといいのです。
こういう文献をあたる学問のあり方については歴史を専攻した友人からの耳学問だったりしていますが(^^ゞ

コメントを閉じる▲
コメント
この記事へのコメント
灘購買組合の設立に関するところ
よく調べられましたね。すばらしいです。
よく経緯がわかりました。
2010/04/19(Mon) 23:15 | URL  | Kより #-[ 編集]
★Kさま
エピソードの記録というのは、伝聞を文字にした資料だけでなく、ご本人の記録まで検証できるといいのです。会見したという記録についてはその双方で確認できるともっといいのです。
こういう文献をあたる学問のあり方については歴史を専攻した友人からの耳学問だったりしていますが(^^ゞ
2010/04/20(Tue) 21:05 | URL  | Mより #9I5CiGdQ[ 編集]
コメントを投稿
URL:

Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 


トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック