<Mより発信>
引き続き、『現代日本生協運動史』から関東大震災と江東消費組合などについてご紹介する。
【『現代日本生協運動史』より関東大震災と江東消費組合などの情報】
『現代日本生協運動史』上巻P48~
3節 運動の広がりと戦時下の苦闘

昭和に年号がかわった翌年の1927(昭2)年、台湾銀行の破綻を契機とする金融恐慌により、経済は不況となり、1929年にはアメリカの株式暴落が引きがねとなった世界恐慌が日本を襲った。さらに1931年には東北での凶作、飢餓と、国民は失業と生活苦に追われることとなった。
一方、軍部は中国大陸での侵略行為を拡大し、1931年に満州事変を引きおこし、日本は太平洋戦争=第2次世界大戦への暗い道を歩みはじめることとなる。
昭和の初期、太平洋戦争までの時期は、経済と社会の混迷のなかで生協の設立が続いたが、政治的経済的な困難の激化のなかで多くの組合が解散を余儀なくされた激動の時期であった。
1.地域に広がる運動
1)関東大震災と東京の生協
1923(大12)年9月1日、関東南部に死者10万人、行方不明者4万数千人を出した関東大震災が襲った。前述したように家庭購買組合や共働社など、発展途上にあった東京の生協は多大な打撃を受けた。すばやく上京しその惨状を見た神戸の賀川豊彦は、同志とともに義援物資をもって再上京、本所松倉町にテントを張って救援活動を開始した。
医療、宿泊、給食、訪問看護などの活動は本所基督教産業青年会のセツルメント活動として継続され、賀川と同行した神戸消費組合の創業期の一員である木立義道が中心を担った。木立はセツルメント関係者と労働組合関係者に呼びかけ消費組合づくりをすすめた。
同様に、震災で上野の山に避難した被災者の救援にあたっていた東京帝大の末広厳太郎教授に指導される学生たちもセツルメント活動を展開、江東の柳町に拠点を構えた。そこでは診療所、法律相談所、労働者・市民・児童の学校、託児所などとあわせ消費組合の店舗も開設した(注1:江東会『回想の江東消費』79年11月、東協連『東京の生協運動史』83年1月、前出『運動史』)
1927(昭2)年4月、賀川組合長、木立専務で江東消費組合が発足した。ロッチデール原則に忠実に現金主義、市価主義を守り、6か月ごとに決算し購買高配当も行なった。しかし、昭和恐慌といわれる不況のなかで、東京市の復興計画による区画整理などによって組合員の異動などが続き、経営は苦しかった。組合員が1,000人をこえ、経営が安定するのは栄養食配給事業をはじめた1936年以降であった。
栄養食配給事業は、震災救護のためにはじめたセツルメントの託児所の弁当改善をヒントにはじまったが、家内工業、零細企業の労働者、家族に歓迎され、急速に広がった。1日3食で26銭という配食事業は4か所に調理工場をもち、最盛期には2万食を供給した。日用品供給の店舗も4か所に開設、精米所、製パン所ももち、1942年には組合員9,500人、払込済出資金25万円、供給高138万円の規模となった。また、江東消費組合の発足の翌年、庶民の金融機関として中ノ郷質庫信用組合を設立したが、この信用組合は戦後も中小企業等協同組合法によって運営された。
東大セツルメントの活動のなかで準備された柳島消費組合も、江東消費組合と同年の7月に設立された。東大生の山本秋(2代目組合長)らは江東消費組合に米の仕入れ方など業務め指導を仰ぎながら事業を開始した。この組合は関消連に加盟し、共働消費組合(関東木材労組、1929年設立)と合併、東京第一合同消費組合になった。
以上

【2010/06/23 23:38】 | アーカイブ
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