上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

1920年代創立当時の東京共働社の事務所
<Mより発信>
引き続き、『現代日本生協運動史』から大正期の「労働者生協」の勃興についてご紹介する。
【『現代日本生協運動史』より大正期の「労働者生協」の勃興の情報】
『現代日本生協運動史』上巻P43~
2.労働者生協の勃興

1)共働社などと消費組合連盟
大正期の生協運動の大きな特徴は戦後につながる市民型生協の誕生であるが、もうひとつは戦前の生協運動のひとつの潮流を形成した労働者生協の誕生であった。
先にみた友愛会は安部磯雄らの指導で機関紙に「消費組合規定草案」を発表するなど生協づくりを奨励し、その影響下に1919(大8)年、東京に月島購買組合が誕生した。友愛会鉄工部京橋連合会が母体で「消費組合の大目的は……現存の営利心を基礎とした資本主義の経済組織を改革しようというに存し、実に人類の解放、文化改造の理想を実現せんとするに在る」と意気高く発足した。出資金1口5円(第1回払い込み50銭)で、1921年度、組合員219人、購買高17,429円であったが、同年、石川島造船所、月島機械製作所の争議とその敗北のため経営困難におちいり、関東大震災による打撃もあり消滅した。
1924年5月、千葉県で野田購買利用組合が発足した。この組合は関東醸造労組野田支部連合会により設立されたもので、昭和初期の有名な野田争議の際、労組の兵站部の役割を担うが労組の敗北により不振におちいり、解散した。
月島購買組合の設立の翌年、企業立憲協会の岡本利吉が指導し、純労働者組合(平沢計七ら)を母体に共働社(東京・大島)がロッチデール組合に倣って43人の少人数で設立された。共働社は非常勤の役員の奉仕で、米、砂糖、薪炭、作業服などをならべる売店を火曜、木曜、土曜の夜間だけ営業したが、ロッチデール組合の発足時を彷彿させる状況で、労働者組合員はよくそこに集まった。一口出資金は20円(第1回5円で、あとは購買高割り戻しを充てる)で、現金主義を原則としたが「出資限度内の掛け売り」を認めた。
共働社は設立の翌年に月島支部を設置したが、間もなく独立し月島共働社となり、1922年、東京共働社(東京砲兵工廠)が設立されると岡本の指導のもと3組合で消費組合連盟が結成された。連盟ができると、その宣伝と支援のもと城南(池貝鉄工)、南郊(日本光学)、麻布、博文館、高輪など10の共働社が1922年から26年にかけて設立され、大崎、新宿の両消費組合と市民型生協の西郊共働社も連盟の影響下で設立された。1926年、連盟の加盟組合は16組合となった。なお、東京以外では神奈川に川崎共働社が設立された。
連盟の中核の共働社は日本鋳鋼所、大島製鋼所の争議(1922年)、汽車会社争議(1923年)で労組、争議団を支援したが敗北し、その再建時に大震災にあい、その混乱のなかで創立者の平沢計七が軍人に虐殺される(亀戸事件)といった困難が続いた。
他の共働社も、城南共働社=池貝鉄工所争議、博文館共働社=共同印刷争議、南郊共働社=日本光学争議と、あいつぐ労働争議を支援することになった。それぞれ労組、争議団に物資提供などをし「兵站部」として大きな役割をはたしたが、特に59日間にわたるストとなった共同印刷争議では、博文館共働社は16,000円と当時としては多額の物資提供を行ない、争議の惨敗は経営にも大きな影響を与えた(注6:共同印刷争議と共働社の取り組みについては共働社役員であった徳永直の小説「太陽のない街」に詳しい)。
しかし、日本労働組合評議会(注7:1925年5月、総同盟の右派と対立して排除された32組合、12,500人によって組織され、日本共産党の影響を強く受けた労働組合の全国組織。1924年の共同印刷争議や日本楽器争議など多数の争議を指導した。3・15事件の一環として、1928年4月解散させられた)は、これらの活動を「階級的無産者消費組合の闘い」として高く評価し、連盟は1926年、関東消費組合連盟(関消連)と改称し、昭和期には“米よこせ闘争”などを展開することになる。
2)共益社などと関西消費組合協会
神戸で「奸商征伐期成同盟会」の運動が進められているころ、大阪では賀川豊彦、今井嘉幸、西尾末広など、友愛会大阪連合会などの労働組合関係者とキリスト教関係者が生協づくりの準備をすすめ、1920(大9)年11月、共益社購買組合が発足した。この組合は賀川が関わった最初の生協で、その設立は先に述べた神戸消費組合の設立に影響をあたえた(注8:賀川豊彦『死緑を越えて』(『賀川豊彦全集(第14巻)』64年2月・キリスト教新聞社)。
今井を組合長とし、神戸消費組合の項でみた綱領(表現は若干ちがい、4項に「実費診療を開始し病魔の不安と社会的不幸の軽減に努む」などとうたっていた)をもつこの組合は、労働者を基盤に設立されたが、徐々に市民型生協となっていき、最近まで大阪で最も古い生協として生き残ることになった(注9:共益社は大阪で唯一、戦時統制経済のなかを生き抜いた生協だが、事業の回復は思うにまかせず、昭利30年代に店舗を閉鎖し休眠した。88年、文化事業を専門とするユニークな生協として再建されるが、事業は軌道に乗らず99年6月解散することとなった)。
共益社設立の翌年には、東京の共働社の岡本の働きかけで大阪機械労組を基盤に大阪共働社が設立され、ほかに南恩加島購買組合などが設立されたが、いずれも短命に終わった。
1922年、東京に消費組合連盟が結成された年、関西では灘購買組合の那須善治の主唱のもと、兵庫、京都の市民型生協それぞれ2組合と大阪の共益社、大阪共働社など13組合で関西消費組合協会を設立した。この協会は行政に対し低利融資の要求を出したり、若干の共同仕入活動を試みたが、見るべき成果をえられず短期間で消滅した。この協会とは別に1925年、賀川によって消費組合協会が設立されたが、連合組織ではなく、賀川の考案した国民服(賀川服)を普及販売し、共益社などの経営に貢献した。
また、賀川は同協会内に杉山元治郎を会長に農村消費組合協会を設立し、全国農民組合とともに農村での消費組合の普及をはかった。賀川服は全国各地で取り扱われ、最盛期には年間5万着を売り、共益社だけでなく、この農村消費組合協会や後述の東京学生消費組合など賀川の関わった運動の財政を支えた。
大正期に新たな勃興をみせた労働者生協も労働争議の多発や労働運動の分裂のなかで、短命なところが多く、大正末(1926)年には自主的な労働者生協は20組合にすぎなかった。
以上

【2010/06/22 23:38】 | アーカイブ
トラックバック(0) |
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿
URL:

Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 


トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。