<Mより発信>
引き続き、『現代日本生協運動史』から大正期の「市民型生協」の展開についてご紹介する。
われわれ世代からすると「市民生協」というと1964年以降、大学生協連の支援により再建・設立された生協群をイメージする。嶋根善太郎さんと電話でお話をさせていただいている中で家庭購買組合などを「市民生協」と呼ばれていたのが気になっていたが、やはり戦前の「市民型生協」という概念も把握しておかないといけない。
【『現代日本生協運動史』より大正期の「市民型生協」の展開の情報】
『現代日本生協運動史』上巻P37~
2節“新興消費組合”運動の展開 1.市民型生協の展開

大正期に入ってすぐの1914(大3)年、第1次世界大戦が勃発し、日本もこれに参戦した。ヨーロッパを主戦場とするこの戦争で、日本は極東での権益を拡大させつつ経済発展をはかり、急速な工業化を進めた。労働者が増え、事務労働や専門職につく中間層や、いわゆるインテリゲンチアとよばれる人々も増え、労働運動や民主主義、社会主義をかかげる運動も発生し、生協運動が本格的に発展する社会的条件が準備された。
大戦の最中、1917年にロシア革命がおきソビエト政権が樹立されると翌年8月、日本はシベリア出兵を宣言した。その月に富山県の漁村で「越中女房一揆」といわれる米騒動がおき、瞬く間に全国に広がりをみせた(38市153町177村)。各地で軍隊の出動をも余儀なくさせたこの騒動は、すでに頻発していた労働争議や吉野作造の「民本主義」に代表される「大正デモクラシー」の流れとあいまって、社会運動の本格化を促進した。生協運動も“新興消費組合運動の勃興”期ともいうべき時期を迎え、自主的で社会運動的性格をもつ生協が、地域の市民型生協あるいは労働者生協としてあいついで設立されていった。
(中略)
地域生協でみると、この時期、東京の月島購買組合(1919年)はじめ、大阪の共益社、東京の共働社など労働者生協が設立されているが、数の上では市民型組合が多いので、先にその概要をみることにする。
1)吉野作造と家庭購買組合など
東京では、吉野作造を指導者に戴いて1919(大8)年に設立された家庭購買組合がこの時期の市民型組合の代表格である。東京帝大基督教青年会の有志や日本女子大桜楓会(校友会)その他の団体や吉野をはじめとする著名人を発起人とし、翌1920年には組合員1,000人、出資金17,000円の規模となり、昭和期には東京だけでなく全国の代表的組合として発展することとなる。
代表が吉野作造であったこともあり、その設立は朝日新聞で大々的にとりあげられ、関西方面での生協設立にも影響をあたえたという。クリスチャンであり、吉野のもとで実務責任者(専務のち理事長)であった藤田逸男(協同組合人物略伝はこちら)は「物価騰貴の際だ。何でも安いものを買って、夫を組合員同志で頒ちあえばよい」とはじめたが、経営はきびしく、自身配給のための車をひき、一方で「消費組合とは何ぞやという研究」をするなど試行錯誤を続けた(注1:家庭購買組合については木村正枝『消費組合小史』80年7月・現代企画出版局と藤田逸男『生活協同組合経営論』48年・日本協同組合同盟などを参考にした。「 」内は『生活協同組合経営論』から。家庭購買組合では当時東大教授だった吉野作造のほか、星島二郎(戦後、商工相、衆議院議長)が創立から、膳桂之助(戦後、国務相、物価庁長官)や千石興太郎(産業組合中央会会頭、終戦前後に農商相)などが役員だった。)
家庭購買組合は当時の商慣行にそって、ロッチデール原則のひとつである現金主義はとらず、掛け売り制をとった。そのため仕入れも掛け買いになったが、バッタ品などには手を出さず取引先や組合員の信頼をえていった。1922年には「組合員倍加運動」を展開、現在の文京区から渋谷、新宿、豊島区で5つの支部づくりを進めた。しかし、組合員が1,600人、供給高31万円強(うち米13万円)の規模になった1923年、関東大震災に遭遇し、浅草など下町に散在する組合員への事業ができなくなった。
東京では、明治期に設立された共同会が味噌と醤油の製造工場をもち、1921年の物価高騰期に「市価の半値・・・・・・醤油1升65銭、味噌1貫目60銭で売って、いずれも5割前後の利益があった」など意気軒昂であり、共栄社も独自の発展をみせていた(注2:共同会・徳田留蔵「都会地に於ける購買組合の繁栄策」(1923年2月、『産業組合』208号所収)。また、東京府が米騒動を教訓に、生活の安定や物価調節を目的に資金の支援などをしたため設立が進み、購買組合各宗社(1920年当時、共同会につぐ規模、組合員3,371人、年購買高76万円)など、1920年には24組合を数えた。しかし、小規模組合が多く経営難などで解散する組合が続き、関東大震災後には家庭購買組合、共同会、共栄社など数組合を残し、ほとんどが姿を消すことになる。

2)賀川豊彦と神戸消費組合、灘購買組合
1919(大8)年、大戦後の物価騰貴と小売商の暴利を貪るやり方に怒りをおぼえた神戸の川崎造船所の職工たちは「奸商征伐期成同盟会」を組織し、悪徳商人のボイコット運動を展開した。労働組合の友愛会神戸連合会の機関紙がそれをとりあげ、大きな反響を呼んだが、友愛会各支部や総同盟のなかから生協設立の気運が高まった。川崎造船所の職工青柿善一郎は同志とともに川崎購買組合設立計画を起案し、賀川豊彦に相談した。
以下省略

上記の文章に関わる編注1・2を以下の折りたたみ部分でご紹介。
(編注1)この時期の生協運動を山崎勉治『運動史』、山本秋『運動史』などが「新興消費組合運動」と呼称、位置づけているが、本節でも自主的で社会運動的性格をもつ市民型生協と労組から独立した組織・活動をする労働者生協の誕生・発展として、それを踏襲した。
協同組合人物略伝の「山崎勉治」の項はこちら

(編注2)「市民型生協」の呼称について‥当時の産業組合中央会の資料などでは〈表0-2-2〉のように「A一般市民組合・B俸給生活者組合・C労働者組合・D会社内組合・E官庁又は学校内組合・F特殊営業者組合・Gその他」に分類をしているが、昭和期の調査統計では「一般市民組合」と「俸給生活者組合」をあわせ「一般市民組合」としている。本章では「一般市民組合」を「市民型生協」と呼称する。また、B・Cには地域・職域混合型もあるかと思われるが、A・B・Cを地域生協、D・E・F・Gを職域生協とした。


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(編注1)この時期の生協運動を山崎勉治『運動史』、山本秋『運動史』などが「新興消費組合運動」と呼称、位置づけているが、本節でも自主的で社会運動的性格をもつ市民型生協と労組から独立した組織・活動をする労働者生協の誕生・発展として、それを踏襲した。
協同組合人物略伝の「山崎勉治」の項はこちら

(編注2)「市民型生協」の呼称について‥当時の産業組合中央会の資料などでは〈表0-2-2〉のように「A一般市民組合・B俸給生活者組合・C労働者組合・D会社内組合・E官庁又は学校内組合・F特殊営業者組合・Gその他」に分類をしているが、昭和期の調査統計では「一般市民組合」と「俸給生活者組合」をあわせ「一般市民組合」としている。本章では「一般市民組合」を「市民型生協」と呼称する。また、B・Cには地域・職域混合型もあるかと思われるが、A・B・Cを地域生協、D・E・F・Gを職域生協とした。

【2010/06/21 18:42】 | アーカイブ
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