鶴見太郎著『橋浦泰雄伝』表紙

<Mより発信>
戦前の「班」の事始めの情報に引き続き、「生活協同組合」という名称の事始めの情報をご紹介。
「生活協同組合」の名付け親は、こちらで先に関消連のマークのデザインについての記事に登場した橋浦泰雄氏だったという言及が、鶴見太郎著『橋浦泰雄伝 柳田学の大いなる伴走者』にある。さらに、山本秋著『日本生活協同組合運動史』、『現代日本生協運動史』からの情報を掲載する。

【橋浦泰雄=「生活協同組合」の名付け親という情報】
鶴見太郎著『橋浦泰雄伝 柳田学の大いなる伴走者』(晶文社、2000
P195~第三部 戦後の活動 2.実践的民俗学の試み 生協運動
戦後の運動家として橋浦が最も精力的に取り組んだのが、生活協同組合である。1945年11月には早くも、久我山生活協同組合を設立し、自宅周辺の消費者の組織化に乗り出している。単位組合名として「生活協同組合」を名乗った最初の事例である(山本秋『日本生活協同組合運動史』日本評論社/1982年)。そしてこれが端緒となって、橋浦は「生活協同組合」の名付け親となった。

【山本秋『日本生活協同組合運動史』よりの情報】
山本秋著『日本生活協同組合運動史』日本評論社(1982年)P649
とくに、久我山生協は、この時すでに「生活協同組合」を名乗った。おそらく単位組合名に生活協同組合を使った最初の組合だろう。

【『現代日本生協運動史』よりの情報】
『現代日本生協運動史』上巻P87~ 7)最初の「生活協同組合」
「生活協同組合」という名称を使うようになったのは戦後のことで、一般的には1948年に生協法が施行されてからであった。
しかし、東京ではすでに1945年に「生活協同組合」を名乗る生協が誕生していた。城西消費組合の関係者が点在していた中央線沿線では、武蔵野、井の頭、中野の大宮前、江古田などで生協づくりがはじまり、まもなく西部地域の連合会をつくろうということになった。その際、名称について話し合われ、「組合は戦前のように『消費組合』では大資本に対抗する組織として弱い、消費だけでなく生活全般の協同ということで『生活協同組合』がいいのではないか」ということになった(出典:東協連『東京の生協運動史』83年1月)。
そして、45年12月16日、東京西部生活協同組合連合会(西協連)が発足した。この連合会には16組合が参加したが、すでに武蔵野や荻窪、久我山の組合が同様の趣旨で「生活協同組合」を呼称していた。
以上
関連して鳥取県郷土人物文献データベースの「橋浦泰雄」の項をご紹介しておく。
そちらの没年情報が手持ちの資料と違っていたので、問い合わせを入れたところ、上記の『橋浦泰雄伝』等で確認して修正したというお返事をいただいた経過がある。
「はてなキーワード」の「橋浦泰雄」の項もリンクしておく。

【2010/06/19 01:02】 | アーカイブ
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