<Mより発信>
『現代日本生協運動史・資料集』についての文献紹介の記事を先にアップしているが、そちらから日本の生協における「班」の事始めの情報をご紹介しておきたい。
われわれ世代からすると日本の生協で世界的に注目された「班」は鶴岡生協でつくられたのが最初というイメージをもつ職員が多いと思う。しかしながらルーツは戦前にあったのである。

【『現代日本生協運動史』より戦前の「班」の事始めの情報】
『現代日本生協運動史』上巻P49~“班会”の誕生
関東大震災のあと、江東消費組合などが準備されている1926(大15)年、共働社の指導のもと、東京の中野、杉並の知識人を中心に西郊共働社が設立された。設立発起人は、新居格(組合長)、金井満、笠原千鶴、橋浦泰雄、橋浦時雄、奥むめおなどで、翌年には与謝野晶子を会長に家庭会を発足させ、1929年(昭4)には‘‘班会”を組織した。班会は「組合員が集まって親睦を図り組合の相談をする会合で、組合活動の基礎となるもの」とされ、日本の生協で最初の試みだった。
続いて、東京の中央線沿線には武蔵野消費組合(1929年、橋浦泰雄、大宅壮一、江口換など)、落合消費組合(同年、井汲卓一夫妻など)が設立されたが、この2組合は1932年には西郊共働社(西郊消費組合)と合併し、城西消費組合となった。城西消費組合は関消連の一員として、ガス代値上げ反対闘争を組織するなど戦闘的であったが、婦人活動が活発で、子供会、ピクニック、婦人のための講演会、映画・演劇(前進座が組合員)など文化活動に力を入れていた。(Mによる注記→前進座の全員が組合員ということでここに前進座と生協との関係のルーツがあったことを新たに認識した!)
東京共働社は32年に豊多摩共働社などと合併し大東京消費組合となった。
(編注1)城西消費組合は「知識人組合」ともいわれ、主な役員・協力者に大塚金之助、風見八十二、柳瀬正夢、村山知義、三好十郎、玉城肇、丸岡秀子、神近市子、平林たい子、壷井栄、中条(宮本)百合子、勝目テルなどがいた。

『現代日本生協運動史』上巻P60~2)「班」とその活動
城西消費組合(西郊共働社)で初めて組織された「班」は、関消連が「班組織の確立によって組合員大衆を直接経営に参加せしめ、一切の闘争を班を基礎に展開しなければならぬ」と方針化し、札幌、宮城、東京、京都、兵庫など各地の日消連参加組合で組織化されつつあった。「米よこせ運動」では、班はカンパ活動や払い下げ米の即売会などで大きな役割をはたした)。
京都消費組合では「米よこせ運動」の取り組みのなかで17の班が結成され「一人一人の組合員に“自分の組合だ’という意識と連帯の意識をハッキリと目ざめさせ」、城西消費では「米よこせ運動」の後の弾圧で「10月、11名の常務者を奪われた時、各班では自給隊を組織して注文、配給、集金を完全に実行」した。
このころの「班」は数十世帯を組織する地域組織で(一部で職場班も組織された)、城西消費組合(1932・昭7年、西郊、武蔵野、落合の3組合が合併して設立)では、班をさらに5人とか10人の組にわけることを提起している。班の役割は「組合の経営、組織その他の一切のやり方」、特に商品や配給方法について意見を述べ、「現金買い制度」や「未収金の問題」などを検討し、「物価値下げ運動」や「班婦人会の設立促進」などを論議することとされた(出典:『城西消費組合創立総会運動方針書草案』の「班に関する方針」〈『生協運営資料(No.86)』1982年8月〉)。
班会は組合員以外の人の参加を求め「堅苦しくなく愉快なものとして」「料理、裁縫、産児制限、内職・・・」などもテーマにするなど、戦後の班会の持ち方にも共通するものであったが、規模の面では「5人組、10人組」が、戦後の班の単位となったといえる。
京都消費組合でも、「班とは同じ職場を持つ同志、近所同志の集りで」「基本的組織である」とされ、班の運営は月1回を原則に、会場の持ち回りや内容を「為にもなり面白くなるよう」いろいろ工夫した(出典:京都消費組合下鴨班会「私たちの『班』を語る」(1933年3月、『消費組合運動』所収)。
日消連傘下の生協では「班は組合の全活動の基礎単位」と位置づけ、諸活動だけでなく役員の選出など運営上も基礎組織とし、弾圧のなかでも大衆的な運営を確保するよう努めたが、この時期、購買組合全般への広がりはもちえなかった。
以上

【2010/06/18 18:05】 | アーカイブ
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