1932.9『消費組合運動』創刊号にマークあり
<Mより発信>
1968年(昭和43年)10月1日付けで関西支所が発行した『CO-OP 商品知識』という70ページほどの冊子に戦前のCO-OPについての記述があり、その中の家庭購買組合のCO-OP商品についての情報を先にご紹介した。
もうひとつ、CO-OPマーク使用についての記述があり、以下のように書かれていた。
「日本の生協で、はじめてCO-OPマークが使われたのは,大正15年(1926年)です。徳永直の小説「太陽のない街」で有名な共同印刷の大ストライキのとき、博文舘共働社という消費組合がその兵站部となって労働者を支援しました。これは戦後映画にもなりましたが、そのなかに、CO-OPをつけた赤旗がでてきます。」「映画『太陽のない街』では、星の中に歯車を形どったCと鉄鎖を形どったO-Oと西洋鎌を形どったPとによってCO-OPをあしらった旗が登場しています。」「しかし、実はこのマークは昭和3年に、消費組合運動に関係をもっておられた橋浦泰雄画伯によって考案され、関東消費組合連盟のマークに採用されたものなので、博文館共働社が共同印刷争議のときに押したてた旗のマークは、実際には別のCO-OPであったと思われます。(図1)」 
図1.『CO-OP 商品知識』掲載のCO-OPマーク
1968『CO-OP 商品知識』掲載のCO-OPマーク.jpg
しかしながら、このマークはこの間見慣れたマークとは歯車の向きが逆になっているのが気になる。私は鎌の刃の形でCを、鎌の柄の部分と歯車でPをかたどったのではないかと考えて納得。それを齋藤嘉璋さんに見ていただいたところ、そうではなく、印刷時に図を左右反対にして印刷してしまったミスで編者も印刷屋も気がつかなかったのではないかというご指摘だった。両論付記ということで、皆さんのご意見・関連情報をお待ちすることにする。
徳永直の小説「太陽のない街」に登場する消費組合の旗とそのデザインについては、市立図書館に行って調べた。先にその部分も含めた記事をアップしている。
『CO-OP 商品知識』の文章では「博文舘共働社という消費組合」になっているが、「太陽のない街」に登場していた消費組合の名前は「小石川共働社」であった。小説なので組合名を実名にしなかった可能性がある。(6/18追記:博文館印刷所が合併して共同印刷になるので、「博文舘共働社という消費組合」は間違いではないようだ=こちらの記事を参照)
『現代日本生協運動小史』掲載の関消連のCO-OPマーク.jpg
上の図は、『現代日本生協運動小史』P28(『日本生協連50年史』P20)に掲載された関消連の旗に使われていたというCO-OPマーク。それについて山本秋著『日本生活協同組合運動史』P288にマークの懸賞募集の項があると齋藤嘉璋氏に教えていただいたので、以下にご紹介。

【山本秋著『日本生活協同組合運動史』より「聯盟マークの懸賞募集」の項】
昭和八年『消費組合運動』第一〇号は、組合旗、徽章、商品、マーク等に使用するもので、消費組合者農民との提携を示す図案を九月末〆切で募集した。この結果、一等当選は橋浦泰雄(西郊共働社)で、星の中に歯車(労働者)を型どったCと鎌(農民)を示すPとをO-Oで結ぶCO-OPを描いたものであった。優秀な旋盤工で関消聯の執行委員だった加藤東洋夫(日本光学、南郊共働社)は、労働者消費組合のマークは実際に回転する正確な歯車でなければ恥だと精密に計算し、製図した。このマークは、国内的にも各方面で好評だったが、国際的にも高い評価を得た。赤地に黄色のこのマークを染め抜いた関消聯旗は、これから後、関消聯の即売会、大会、示威、闘争のあらゆる場面で活躍しただけでなく、新劇や映画で『太陽のない街』などが上演・上映されるときに現物がかり出されて出動した。戦後は生協運動久友会から日本生協連に寄贈され、事ある毎に働いている。
以上
日本生協連の資料室には、消費組合連盟の機関誌『消費組合運動』も合本して保管されたものがあるので、目を通してみたが、1932(昭和7)年9月号の創刊の辞のタイトルの上に、すでにマークがある(冒頭の写真)ので、山本秋氏の書かれた昭和八年の第10号で懸賞募集したという記述と整合しない。『消費組合運動』の前には新聞型の機関紙があると聞いているので、その時代に懸賞募集されたのではないかとも推測できる。
『CO-OP 商品知識』の冊子にある「このマークは昭和3年に、消費組合運動に関係をもっておられた橋浦泰雄画伯によって考案」という情報からは、3を8に読み違えて漢数字の「八」に誤植されたということも推測できないこともない。
古い資料の発掘収集は今後も続けるので、そのあたりもはっきりするようになればいいなぁと思っている。

以下、関連で橋浦泰雄氏の描かれた絵とデザインされた旗のことを書いている。
また、日本生協連に寄贈された旗は、1971年に旧・生協会館で開催された「日本生協運動50年・日本生協連創立20周年・日協貿創立15周年記念史料展」で展示されていたことが、『日本生協連50年史』P217に掲載された写真でもわかる。しかしながら、生協会館の渋谷への移転もあり、保管場所がわからなくなっている。旗をデザインした橋浦泰雄氏が日本生協連に寄贈された日本画の額(旧・生協会館7階の講堂に展示されていた『那智の滝にかかる虹』)がコープとっとりの松軒理事長のお問い合わせで捜索発見されたのを機会に、捜索していただいているところということである。


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また、日本生協連に寄贈された旗は、1971年に旧・生協会館で開催された「日本生協運動50年・日本生協連創立20周年・日協貿創立15周年記念史料展」で展示されていたことが、『日本生協連50年史』P217に掲載された写真でもわかる。しかしながら、生協会館の渋谷への移転もあり、保管場所がわからなくなっている。旗をデザインした橋浦泰雄氏が日本生協連に寄贈された日本画の額(旧・生協会館7階の講堂に展示されていた『那智の滝にかかる虹』)がコープとっとりの松軒理事長のお問い合わせで捜索発見されたのを機会に、捜索していただいているところということである。

【2010/06/17 18:15】 | アーカイブ
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関消連のマーク考案年について
ウチダ アキラ
興味深い記事の数々を拝読し色々と勉強させていただいております。
関消連のシンボルマークですが、関東消費連盟の争議支援活動を小説化した徳永直『輜重隊よ前へ』(昭和六年)の表紙に掲げられております。したがいまして、おそらく昭和三年考案説が正しいのではないかと愚考いたします。
http://d.hatena.ne.jp/uakira/20101118

★ウチダ アキラ様
Mより
関消連のシンボルマーク決定の年について、貴重な情報を有難うございますm(_ _)m
徳永直の「輜重隊(しちょうたい)よ前へ」は、当時の関消連を中心とした消費組合運動を知る上で貴重な資料ということで、山本秋、戸沢仁三郎両氏のお骨折りをいただき、徳永氏のご遺族の了解を得て、日本生協連の機関誌『生協運動』誌の1961年2月号から分割掲載されているのを見ていたので存じていました。
貴記事の中で共働印刷生産組合が昭和六年に刷った本の写真を載せていらっしゃいましたが、その表紙がその2月号に白黒で載っているのを、今現物を持ってきて確認しました。そのイラストにあるのはまさに歯車の向きが逆になっているマークです。いささか興奮しております。
これはマークも当初から同じなのではなく、手直しがされたということが推測できます。齋藤嘉璋氏にもこの表紙のデザインを見ていただいて、歴史認識を深めたいと存じます。
本当に有難うございましたm(_ _)m

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関消連のマーク考案年について
興味深い記事の数々を拝読し色々と勉強させていただいております。
関消連のシンボルマークですが、関東消費連盟の争議支援活動を小説化した徳永直『輜重隊よ前へ』(昭和六年)の表紙に掲げられております。したがいまして、おそらく昭和三年考案説が正しいのではないかと愚考いたします。
http://d.hatena.ne.jp/uakira/20101118
2010/11/18(Thu) 23:54 | URL  | ウチダ アキラ #-[ 編集]
★ウチダ アキラ様
関消連のシンボルマーク決定の年について、貴重な情報を有難うございますm(_ _)m
徳永直の「輜重隊(しちょうたい)よ前へ」は、当時の関消連を中心とした消費組合運動を知る上で貴重な資料ということで、山本秋、戸沢仁三郎両氏のお骨折りをいただき、徳永氏のご遺族の了解を得て、日本生協連の機関誌『生協運動』誌の1961年2月号から分割掲載されているのを見ていたので存じていました。
貴記事の中で共働印刷生産組合が昭和六年に刷った本の写真を載せていらっしゃいましたが、その表紙がその2月号に白黒で載っているのを、今現物を持ってきて確認しました。そのイラストにあるのはまさに歯車の向きが逆になっているマークです。いささか興奮しております。
これはマークも当初から同じなのではなく、手直しがされたということが推測できます。齋藤嘉璋氏にもこの表紙のデザインを見ていただいて、歴史認識を深めたいと存じます。
本当に有難うございましたm(_ _)m
2010/11/19(Fri) 19:43 | URL  | Mより #9I5CiGdQ[ 編集]
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