<Mより発信>
先に『日協連』1956年9/10号で日協連会長賀川豊彦の「生協従業員に与える」という文章をご紹介したので、関連ということで、以下の文章をご紹介します。この間、何回かご紹介している『想いで集』に日本生協労組全国協議会(現在の全国生協労連)を結成した頃の思い出を谷川宏氏が寄稿されたものです。

【『想いで集』谷川宏「日本生協労組全国協議会結成の頃」】
労組不要論のある中で
日本生活協同組合労組協議会準備会を発足させたのは、1958年8月18日である。当時、十数人の日協連(今の日生協)常勤の中のある先輩からそそのかされて(失礼、示唆されて)、始めは職人的に、仕事で知り合った各地の会員生協労組や個人にわたりをつけて人脈を作り始めた。夜と、たまたまめぐってくる仕事のない日曜日、そして出張先での夜のことである。ロとペンと電話が武器、それと怖いもの知らずの無鉄砲さと幼さを自覚しない厚顔さがもう一つの武器。
1年余りで準備会発足。代表が灘神戸生協従組の二宮歳一委員長で事務局長が私。問題といえば「生協に労使間題はなく、労組は必要ない」論であった。
2年後の1960年9月11日、日本生協労組全国協議会(後の全国生協労協)の創立総会。会場は日協連の全国生協学校会場であった。初代議長は竹本成さん(現=当時日生協会長)である。
36生協労組、2,360人。会費も安く、専従などとてもおけないが、各地で中執委貞や中央委員を引き受けてくれた方々の手弁当的支えで、年何回かの会議も夢中で深夜まで議論し合ったものだった。終わると直ぐ、全国会員労組への「紙の弾丸」書き飛ばしのための徹夜である。
結成2年目の第一回総会議案書には、会員の声として「単組がそれぞれ苦しんでいる中、はじめて全国規模で自主的交流と論議の場が持てた。言い尽くせない感動・・・・・・などの記述がある。
もう時効だから書いておくが、日生協の出張先で、その単協の専務さんの了解をとり(本当です)、夜、職員のみなさんと話し合いを持たせてもらったこともあった。そのため(?)7つばかりの県から〝谷川はわが県へ出張させるな″という立ち入り禁止令が寄せられてしまった記憶もある。
同時に何人ものトップの方は生協の労組論・労理関係論について、幼稚な私に、疑問や提案を寄せてくださり、勉強させていただいたことも覚えている。鶴岡生協の故佐藤日出夫専務(当時)もそのお一人であった。
なにしろ、労組、賃金、団交等の言葉すらはばかられる生協が少なからずあった時代である。働いている人自身に問題意識を持っていただく-これが入口であった。労協の初期は学校のようなものでもあった。
「生協の賃金問題」、「生協労組とは」などの教宣資料づくりを大わらわで進め、中執委などでの論議も半分はそれらの内容作りに費やされた。これらの執筆では、斎藤嘉璋さん(当時日協連労組)、栗原大明さん(早大生協労組)らが大きな役割を果たされた。
また、半分は各単組活動の中味を深める討議と支援対策である。こうした面では志子田幹人さん(宮城学校生協労組、当時。以下同じ)、鈴木健夫さん(福島県連労組)、本間文夫さん(酒田生協労組)、工藤博司さん(鶴岡生協労組)、笠原真一さん(群馬労生協労組)、長谷川促さん(大学生協労協)、上田克巳さん(静岡生協労組)、友貞安太郎さん・増田大成さん・宇草吉政さん(いずれも灘神戸生協労組)などのみなさんがカを発揮された。

労組としての再建支援、生協労連
創立以来、春闘や合理化問題、労組作りとともに一番力を注がざるを得なかったのが、生協倒産→再建運動支援だったのである。鳥取・福島・山口県宇部そして山形県酒田。その後も飯田・岡山等々である。必然的に生協そのものを生協労働者としてどうとらえ、生協のあり方をどう方向づけるのかという問題抜きには何も進められないのであった。
中でも1963年の宇部問題では、「経済的再建は組織的再建から、組織的再建は思想的再建から」というその後の多くの運動の支えとなるスローガンを中執討議の申から生み出し、直後の酒田生協再建運動(1965~69年)の中で実践的裏づけをもって生かされる事となった。この場合の「思想」とは生協のとらえ方という意味である。
生協労協はその3年前(1957年)に創立されていた全国大学生協労協と、1968年9月8日に合同し、全国生協労連として生まれ変わる(82単組、6,094人)。
合同まで事務局長だった私は、一期だけ生協労連副議長に就任するが、合同の翌年、第1回の全国生協研究会で、生協における3つの民主制の確保を提起した。「組合員との、理事会と労組との、そして日常業務遂行上の」3つである。3つ目の業務遂行上の民主制とは、無秩序職場の意味ではもちろんなく、職場労働者自身が主体的に物事を考え管理者と意思統一しながら、仕事を通じて組合員の暮らしに寄与し生協を前進させる、そういう職場作り・仕事作りができる生協にしていくという趣旨で、当時のペガサス指導や「大規模化」に機械的表面的に反発する流れへの一石でもあった(当時発行の『生協における労働組合』にくわしい)。当然、大いに論議を呼んだものである。
(追記)
本業をさぼっていたのではないかとの誤解を避けるため、言い添えておきますと、労協創立前後の私の残業時間は月150時間はくだらなかったと思います。
また、当時、日協連労組が、残業拒否闘争という前代未聞の取り組みをしたことがあります。その時の労組委員長は石川誠一さん(現=当時さいたまコープ名誉会長)でしたが、石川さんもその後、何県かの会員生協から出張立ち入り禁止の憂き目(?)にあったようです。
以上

(Mによる追記)
現在の全国生協労連のHPもご紹介しておく。

【2010/05/18 13:00】 | アーカイブ
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