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<Mより発信>
 2017年度「日本生協連資料室 土曜講座」第2回企画(11/18)については、こちらでもご紹介させていただきました。受講報告の記事アップが遅くなりました。少し長くなりますが、概要報告をまとめて掲載します。冒頭の写真は斎藤嘉璋さんと坪井俊二さんです。
 
「日本生協連第4代会長・中林貞男氏から学ぶ
-『平和とよりよい生活のために』を体現-」

講師:斎藤嘉璋氏/元日本生協連常務理事、
    元生協総合研究所専務理事

ゲストコメンテーター:坪井俊二氏
    /元日本生協連常務理事


斎藤嘉璋さんの講演概要(講演のメモと参考資料から作成)
(1)学生時代、新聞記者、産業報国会:明治40(1907)年、富山県生まれ。大正15(1926)年早稲田の第一高等学院に入学。学生時代は雄弁会に籍を起き、幹事(→昭和3、4年に学生運動をした者の会「三四会」幹事)。1927年に早大教授の大山郁夫が合法無産政党の最左翼たる労働農民党委員長になり大学を追われ、1928年には共産党に対する弾圧があり、同年の「暴圧反対学生雄弁大会」で司会。別の弁論大会で軍事教練反対と弁論して軍人だった父親に叱られた。非合法の地下活動に入る学友たちもいた。30年には早慶戦切符問題で40日のスト(藤井丙午、平田冨太郎らと)、クラス討議で中林退学をさせないためにスト打切りになり、大衆運動について学んだ。
●新聞記者の道に:1932年報知新聞社会部記者となり、36年には2.26事件の取材。最後は近衛内閣で新設され厚生省を担当(進歩的な人が多かった)。
●産報時代:1940年に「大日本産業報国会」が設立され、会長の平生釟三郎会長秘書の藤井丙午の斡旋で1941年に秘書として入り参事・連絡部長兼組織部長。平生さんは東京火災海上の基礎をつくり川崎造船の再建もした財界人で従業員の福利厚生を重視し、甲南学園や甲南病院もつくったオールドリベラリストで、賀川豊彦の活動も支援。灘購買組合の創立者那須善治に賀川の指導を仰ぐように助言したのも平生。戦局たけなわになって軍人が会長、理事長という体制に。1945年8月敗戦。残務処理委員会で産報の財産の移管先を賀川さんを中心にまとまっている協同組合運動にと主張。

(2)日協同盟、日本生協連創立のころ:そういう関係で「日本協同組合同盟」の設立から参加した。
①日協同盟創立:1945年11月、産報の事務所と現金を除く財産を引き継いで設立。賀川さんなど戦前からのリーダーと100名の職員でスタート。雨後の筍のように新生協が設立される中で食糧獲得闘争。先に農協法ができ、生協法制定運動。農協には認められた信用事業が認められず1948年に生協法ができた翌日から改正運動。信用事業権を求めて岡山では生協を中心に兵庫では労働組合を中心に労働金庫づくりが進み、1950年に岡山勤労者信用組合設立。東大法学部出身の事務局の勝部欣一さんに労働金庫法原案を作らせ、1957年に同法制定、全国労金協会ができ、中林さんが事務局長に就任。給料はそちらからもらっていた。
②日本生協連創立:1951年、発起人の東大の学生専務だった福田繁さんが借りた東大の教室で創立総会。スローガンは福田さんが東大の学友と相談して国際学連の「平和とよりよい未来のために」をもじった「平和とよりよい生活のために」を提案し、賀川さんが支持して決まった。その後、東大生協の論議の中で他の学生運動組織と違って生協はまず生活だろうということで「よりよい生活と平和のために」が大学生協のスローガンとなったが、日本生協連では一貫して「平和」が先のスローガンだった。戦後にできた町内会単位生協や再建をめざしていた家庭購買組合や江東消費組合もインフレとその後の極端なデフレ政策の中で経営破綻してつぶれていき、日生協の経営も逼迫。築地事務所は又借り状態、中林専務、木下常務と事務局4人の6名体制。給料も遅配欠配、片道経費出張で会費を集めた。連合会も会員も「創業期が10年続く」状態。中林さんは日生協と労金の2足の草鞋状態で、これではまずかろうと石黒さんが日協貿や事業生協連のトップとなって尽力。役員給料も出せるようになった。
③1950年代:生協運動・労金運動に取り組む中で「労働者福祉運動」を盛り上げる必要を感じて労組側に働きかける。労金、労災生協、労信販生協づくり。地区労を中心に地域勤労者生協、学校、炭鉱、職場職域生協づくり。生協規制、反消費者立法の動きに反対し、1956年全国消団連発足(会長就任)。物価・新聞代値上げ反対闘争。商調法で1959年2.26に雪の中を国会前のテントで座り込み(学生だった斎藤嘉璋さんも駆けつけて夜の留守番)。家庭会・婦人部の活動の活発化。1954年のビキニ水爆実験を契機に原水禁署名運動から原水禁運動へと発展。1955年初の原水禁世界大会、日本原水協発足、日生協も加入。
●ICAなど国際活動:1952年日本生協連ICAに加入。54年パリ大会に田中会長(原水爆反対、協同組合間貿易促進等の提案)→ツェントロサユースから招待→55年訪中ソ代表団派遣(石黒団長)。57年ストックホルム大会に中林(原水爆禁止、中国合作社の加入、協同組合間貿易促進提案)。58年ツェントロサユース大会へ招待(西側諸国も参加)。60年ローザンヌ大会(原水爆禁止、反独占、社会主義国の加入を提案)(ICA中央委員)。
※Mより補足:参考資料『平和とよりよい生活のために―生協運動私史―』で1980年のモスクワオリンピックを西側諸国がボイコットした年に開かれたICAモスクワ大会は西側も参加して開催されたことと、中国の加入が認められたことによりICAが世界最大のNGOになったことに協同組合陣営が国際的に果たせる役割の大きさを考えさせられた。

(3)成長期の生協の時代:●60年代:1958年「事業生協連」創立(石黒会長)。1962年中林さん日本生協連副会長に。65年日本生協連、事業生協連合併(石黒会長)*地域生協の新しい動き:62年灘・神戸生協合併。64年洛北、65年札幌、所沢新生協設立、大学生協の設立支援。68年日本生協連「首都圏大構想」―東京生協づくり始まる→失敗→70年福島総会結語(東京生協などに関して落下傘方式の出店反省、組合員に依拠した生協運営に。その後、依拠という言い方から組合員が主人公の生協運営にと発展) *日本生協連、コープ商品の開発本格化:66年CO-OPソフト発売(全国商品開発委員会発足) *組織拡大と組合員活動の活発化:新生協の設立、班組織の論議と全国的な交流の活発化。「全国消費者大会」(64年~)、「生協強化月間」と全国生協大会(67年~)
●70年代:*60年代後半~有害商品、水・環境問題、米価、カラーテレビの二重価格問題(生協では販売しているのに不買運動→全国消団連会長との兼務はやめ、その後は代表委員制に)、70年代~狂乱物価、灯油裁判。1971年中林さん日本生協連会長に。*原水爆禁止・平和の取り組み:77年、統一世界大会(生協、地婦連、青年団など参加)。78年、第1回国連軍縮特別総会(SSDⅠ)に代表派遣(生協27人、署名1,870万筆、うち生協112万筆)、広島大会、長崎大会に生協1500人。79年、被爆者援護法要求署名の取り組み。80年代前半、SSDⅡ、ヨーロッパ核軍縮大会など前進するが、84年の団体旗問題などから世界大会は86年再分裂。生協独自企画へ。
●80年代:*市民生協群の飛躍的発展、日本生協連事業の拡大→日本生協連のあり方見直し~地連設置。*生協規制の激化―大店法と出店規制、員外利用問題。
1985年日本生協連会長、中林から高村勣に(高村会長、生協規制対応と日生協改革など)
<まとめ>戦後の困難な時代のリーダーとして
*日協同盟~日本生協連の創成期に戦前の個性的なリーダーたち(関消連系の左派グループ、賀川らクリスチャンたち穏健派グループ、鈴木善幸ら生協以外のリーダーも)の中で、統一と団結を守り発展させた。困難期における“情熱”。常勤の木下保雄さんなどの存在。
*幅広い視野、人脈(学生→新聞記者時代から築いた)のもとでの渉外、共同の力=戦後の混乱期の諸闘争や渉外、地域勤労者生協と労金、労済づくりのころ、全国消団連づくりや反核平和運動における市民団体との共同。
*国際活動での貢献:ICA中央委員として、ソ連、中国、アジア諸国。国連から日本生協連がピースメッセンジャー授与。スウェーデン生協連から中林会長に「アルビン・ヨハンソン・ゴールドメダル」を受賞。
*「平和とよりよい生活のために」を掲げて。

※坪井俊二さんのゲストコメントとディスカッションの概要については、以下を開いてご参照ください。
【坪井俊二さんのゲストコメント】
1982年のSSDⅡの際、生協からの代表団の事務局長をつとめた。その当時のレーガン大統領が日本原水協の代表団にビザを発給せず参加が阻まれた。そこで中林さんに日本の反核・平和運動を代表してもらおうということになり、全体で1212名の代表団の代表として、国連のデクエアル事務総長に日本からの3000万人署名を渡し説明をした。各地の生協の組合員リーダーを含めて200名を越す日本の生協代表団でニューヨークの大集会やデモ行進に参加した。中林さんはそのことに大きな確信をもったようだった。石黒さんと中林さんは、戦争が終わった後の20世紀後半、賀川さんに次ぐ大きな指導者だった。その2人についても書いている自伝を増刷することも検討しているのでどうぞ皆さん読んでください。

【ディスカッションより】
「平和とよりよい生活のために」のスローガンに関わり、賀川さんや中林さんが「戦争に加担してしまったこと」をどう思っていたのかという話題になった。①坪井さん:「賀川さんは「軍部からの依頼で戦地に慰問に行ったことはよくなかった。今度戦争になる動きに反対して牢屋に行くことになったら一緒に行こう」と何回も言っていた。中林さんも「産報で軍国主義体制に組み込まれたこと」への反省を口にしていたことを何回も聞いている。二人とも悔いを隠そうとはしなかったとのことだった。②松沢資料館のKさん:この夏のシンポジウムで賀川豊彦の戦争加担が論点になった。賀川はガンジーと対談したことがあり、「戦争になったらどうしますか」と質問し、ガンジーは「死を選んでも反対する」と答えたという。一方、賀川は自分が国賊になってしまったら、関わった全ての事業がつぶされてしまうということで悩みながらも消極的に加担してしまったのだろう、「完全な人間はいない」ということだろうという論議になったと報告。
戦争責任と向き合って戦後を生きた人々から学ぶことは大きい。


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【坪井俊二さんのゲストコメント】
1982年のSSDⅡの際、生協からの代表団の事務局長をつとめた。その当時のレーガン大統領が日本原水協の代表団にビザを発給せず参加が阻まれた。そこで中林さんに日本の反核・平和運動を代表してもらおうということになり、全体で1212名の代表団の代表として、国連のデクエアル事務総長に日本からの3000万人署名を渡し説明をした。各地の生協の組合員リーダーを含めて200名を越す日本の生協代表団でニューヨークの大集会やデモ行進に参加した。中林さんはそのことに大きな確信をもったようだった。石黒さんと中林さんは、戦争が終わった後の20世紀後半、賀川さんに次ぐ大きな指導者だった。その2人についても書いている自伝を増刷することも検討しているのでどうぞ皆さん読んでください。

【ディスカッションより】
「平和とよりよい生活のために」のスローガンに関わり、賀川さんや中林さんが「戦争に加担してしまったこと」をどう思っていたのかという話題になった。①坪井さん:「賀川さんは「軍部からの依頼で戦地に慰問に行ったことはよくなかった。今度戦争になる動きに反対して牢屋に行くことになったら一緒に行こう」と何回も言っていた。中林さんも「産報で軍国主義体制に組み込まれたこと」への反省を口にしていたことを何回も聞いている。二人とも悔いを隠そうとはしなかったとのことだった。②松沢資料館のKさん:この夏のシンポジウムで賀川豊彦の戦争加担が論点になった。賀川はガンジーと対談したことがあり、「戦争になったらどうしますか」と質問し、ガンジーは「死を選んでも反対する」と答えたという。一方、賀川は自分が国賊になってしまったら、関わった全ての事業がつぶされてしまうということで悩みながらも消極的に加担してしまったのだろう、「完全な人間はいない」ということだろうという論議になったと報告。
戦争責任と向き合って戦後を生きた人々から学ぶことは大きい。

【2018/08/20 17:56】 | 情報
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