201512『久友会だより』No.82表紙60%縮小.jpg
<管理人より>
 日本生協連職員OBの大野省治さんからご寄稿をいただきましたので、ご紹介いたします。
 「生協運動久友会」(現在では役員などのOB会に改組されている)が年2回発行している『久友会だより』に寄稿され、2015年12月号=No.82に掲載された自分史に補筆されたものです。なお、冒頭の写真は掲載号の表紙です。

【寄稿】 大野省治氏「私の人生」
(おおの しょうじ  元全国消団連事務局長)

  私の家族
 私は1930年生まれ、支那事変の名で中国侵略が開始されたのは小学校1年の7月7日。大戦は1945年8月15日終わった。当時旧制中学校以上の学生・生徒は「学徒動員令」という勅令により強制的に工場で働くことになり、旧制高校専門学校以上の学生は徴兵され戦場へ行った。
 二兄は陸軍予備士官学校に合格。航空隊の通信士官となり中国南昌飛行場大隊に配置され少尉中隊長。妻の兄は同じく徴兵令、海軍経理学校に合格し主計少尉参謀となって航空特攻機発進基地に配置された。
 我が家から長兄は第六師団から山砲隊員として北支から中支へ転戦、更に仏印、暹羅へと転戦し、敗戦となって帰国。もう一人は久留米師団からビルマへ派遣され、高い山をいくつも越えて敗戦を迎え、生き長らえ辛うじて帰国。だが内地にいた一人は佐賀高校生で、学徒動員長崎造船所で勤務中に原爆被爆し死去。もう一人は大牟田市三川国民学校高等科の教員として児童の指導をしていたが、夏の強い日差しを受け戸外作業指導中熱中症となり、製氷工場が空爆で製氷不能となり看病も虚しく死去した。
  私の戦時体験
 私は中学3年生、8月7日正午頃三池染料工業所に勤務中にB−24の編隊爆撃を受けた。私は警報が鳴ると逸早く工場の退避壕へ隠れた。幸いにして爆発音聞きながら過ぎ去るのを待った。被害を受けずに助かり、私の今日がある。
 幼稚園の頃の歌は肉弾三勇士など軍歌が中心。軍国主義教育で一貫していた。旧制中学では物理の教師が海軍中尉で、宿題に軍人勅諭の丸写しを出すなど物理学と軍人勅諭がどんな関係があるのかと不満を覚えた。だが礼儀の項は覚えていたので師団から来た査閲官から唱えてみよと命じられて、私は長い文句を口述したので褒められた。教育の軍事化というのは“殴りつけてでも実施させること”が徹底していた。

  8月7日、大牟田空襲
 敗戦の色濃くなって、空襲警報が発せられると、夜でも即刻三里小学校の防衛に駆けつけた。8月7日の正午頃米軍大型爆撃機の編隊が大牟田市上空を襲った時は、工場の防空壕に逃げ込んだ。広島の翌日である。幸い私は命だけは助かったが、逃げ遅れた相当数がいて、爆弾で工場敷地一帯に工員らの死体が転がっていた。社屋・工場は崩壊、無惨。中学同級生が7名戦死した目も当てられない惨状。米軍爆撃機による爆撃の最中に大牟田の高射砲陣地から発射した砲弾が敵の爆撃機B−24に命中し撃墜させた。高射砲陣地兵士はよく戦ったと思う。
 私は中学3年生、被爆直後、工場から帰宅を許されると直ぐ近所に撃墜された機体を見に学友と二人で出かけた。夕方近いが8月の空は明るく、畑の上に横たわるB-24は壊れ、機内が露出して見えた。地面に叩きつけられ、米軍乗務員の丸く腫れ上がった遺体が折り重なっていた。機関砲や砲弾等武器・通信機も転がっていたが、手出しはせず見るだけで現場を離れた。つい先程は三池染料の骸炭工場付近で殺された女子事務員や工員、朝鮮から動員されて来ていた少年工員の腕や胴体が切断された死体を目の前で見てきたのだ。
 撃墜されて死んだ敵の飛行士数人を目の前にしても、私は気の毒とも可愛そうなどの感傷はなかった。これが戦争の実態なのだ。自分は生きている、と確かめた。同級生で肩下に焼夷弾が当たり腕を失った友があったが、成績の良かった彼は若くして死去した。2日後の9日、長崎に原子爆弾が落とされ、私は有明海の東側から西海岸の雲仙岳と多良岳の間に、入道雲のような原子雲を眺望した。
 8月15日敗戦の日が過ぎて、アメリカ兵と街なかで顔を合わせることがあっても、まだ戦時中の敵対感覚であり、振り向きもせず通り過ぎた。英語の友成先生が、中学校へ来訪したアメリカ人と話を交わして居るところを見かけてから、やっと敗戦となった現実を認識するゆとりが出てきた。

※戦後以降の分は以下のところを開いてお読み下さい。
  佐賀大学に入学
 戦後、私は中学4年生になって理科系へ進むことを決めた。理科系の古書を古本屋であさり細胞学・進化論遺伝学の学習に力を入れた。生物学の中島幹先生と話し込むことが楽しくなった。研究者になる夢を抱くようになる。進学は甘くなく5年卒で熊本の旧制第五高等学校理乙を受けたが合格しなかった。浪人かと思いきや新制高校というのが出来たので浪人せずに新制佐賀大学の理学専攻に合格できた。
 理学専攻の学生は1学年80名、その大半が医学部のプレメデカルコース選択。学部長が生物学の専攻でリベラリスト島地威雄先生。旧制浦和高校校長、佐賀高校校長を経て佐賀大学文理学部長となられた。

  恩師の受難に抗議
 佐賀高校の数学教授和田浩先生は教職員組合の推薦で佐賀県地方労働委員に就任していた。佐賀市内で労働争議が発生した際、当該企業の社長がアメリカ軍政部へ駆け込んで労働問題を軍の手で抑えてほしいと陳情した。米軍は一方的に企業の利益を擁護して、労働組合側に不利益な措置を執り、労働者側の推薦で委員として活動している佐賀高校教授和田氏を偽証罪で有罪の実刑と罰金刑を下した。その事が新制大学の教授任用の障害となった。和田助教授はホグベンの百万人の数学を教材として大学の数学講座で教壇に立ち、私も受講していた。その和田浩先生が受難である。旧制佐賀高校が閉校すると同時に失職するに至る。
 私はまだ19歳であったが自治会結成を成功させて学部学生自治会副委員長に選出された。私は教授会の不当な措置を全学に知らせ、和田助教授の不採用に抗議の意思表示を行った。大学当局を代表する光岡教授の判断は軍政部に寄添い、事もあろうに大学教職員組合長でありながら大学の運営委員の重役に就任した。この事実は即不当労働行為である。和田氏の基本的人権を擁護すべき大学教職員組合委員長の任務を放棄し軍政部に迎合。労働法で見れば同教授はマッチポンプ・矛盾した委員長兼重役そのもの。昭和24年6月1日制定の労働組合法第2条但し書き1号の役員に当たり、第7条の不当労働行為である。

  スト執行で退学処分
 私は自治会役員として、このような不当な措置に抗議しようと学部自治会委員長も含め合意のもとに学生大会を開催し、多数の支持を得てストライキを議題とした。執行委員長が演壇に立ってスト突入を提案、即可決となった。私は副委員長でこの議事進行を見ていた。執行委員長は委員長席からストを提案しスト可決を議決、その直後に執行委員長が辞任を申し出た。片や旧制九州大学から来ていた学連オルグ福元君はストの扇動者で「突入せよ」と初めから食い下がっていた。ストの実施の可否は自治会最高責任者である学部執行委員長の手中に有った。執行拒否も採否は委員長の判断である。委員長が拒否権を発動するかもしれないと思っていたが、そうせず委員長辞任という想定外の異常事態となった。副委員長の私は、自ら委員長代行となって壇上に立ち、本日の大会でのストライキ提案の手続きは有効であり、前委員長の議決措置は順当で大会決議は執行しなければならない旨言明。私は執行委員長代行として最低本日を含め短時日のスト執行を確認して学生大会を終了させ、その他の案件については執行部一任として閉会する旨宣言した。副執行委員長兼執行委員長代行の大野はその時点で退学処分を覚悟。退任した前任委員長は当局と前もって打ち合わせをしていたものと推定。
 その後、私は大学当局から学長室へ招かれて処分通知を受けた。不本意ながら不知火寮からも退去を求められた。荷物を纏めて若干名の友人との別離コンパを開いて大牟田の自宅へ帰り、兄と母に報告。資金協力を願い、長兄から上京のための貴重な経費を支出して頂いた。
 父は定年退職後の慰労として四国遍路に出かけていて留守、父へのお詫びの挨拶も抜きで上京。戦後4年そこそこ、1949~50年以降の私は、医学進学課程の路を2年生の途中で閉ざされた。

  東大生協で再出発
 東大生協の食堂で皿洗いから始まる再出発となった。自業自得。アッケラカンなスト後の人生となったが、個人としては大きな損害であった。占領政策に便乗しレッドパージを強行した大学当局の実力者英語松岡教授に対する抗議の意思表明の場は作れず、ストの責任を問われて学長から退学処分を言い渡された。
 そこで東大学生新聞の林重太氏を頼って東大生協に就職したという経過である。東大生協での勤務中にこれと言えるほどの大きな仕事はできなかったが、塚崎宏・藤川一栄両氏の推薦で日生協・消団連の仕事を戴けた事が、人生における貴重な転機となった。
 塚崎・藤川両氏の指定どおり私は、1956年1月9日、神田神保町の日生協を訪ね、専務理事常務理事他責任者の面接を受けて、事務局員として従事する貴重な機会となった。

  消団連事務局から日生協貿易部門を経て消団連事務局長17年
 全国消団連にて取り組んだ仕事は、消費者問題の数々、初期の課題ばかりで貴重な体験となった。次に出てきた課題は大きすぎる課題でした。
 新聞購読料金独禁法違反を告発した・・。全国に呼びかけ新聞各社購読料の一斉値上げ分不払い運動は一挙に100万の読者の参加拡大したが、公取は一転不問処分を決定し挫折。
 大野は消団連事務局員を外され、貿易会社への左遷。北洋材輸入業務の習得。貿易会社の実務研修。茂山鉄鉱石の受け渡し、八幡製鉄(株)への納入。大豆の輸入と国内売りさばきに従事した。そして中国の「文化大革命」、中国貿易と友好商社問題に遭遇。北朝鮮への出張等めまぐるしく経過し、しかも適切に対処できた。先輩や同僚たちの声援の賜である。この間9年余を経て、私への人事異動が転がってきた。
 中林貞男名誉会長、正田彬慶応大学教授両氏からの提唱で、消団連事務局の手法が市民団体から煙たがられているので「人事を一新せよ」とのアドバイスを受け、元事務局員大野に再度やらせて改善の方策を探れとの指名人事提案であった。
 大野自身としては好むところであり、全国消団連事務局長を約17年全力投下、務め上げ結果は幸運であったと自画自賛している。
以上
(追記)
 大野さんをネット検索したところ、まずウィキまとめの記事に「昭和5(1930)年9月25日~ 昭和・平成期の消費者運動家。」とあった。
 その次には、横浜市栄区のHPに「特定非営利活動法人お互いさまねっと公田町団地」大野省治理事長ということで、日本住宅公団(現在のUR都市機構)が建設した公田町団地(住居数1,160戸、33棟)に「お互いさまねっと」 を立ち上げたことについての記事があった。
「入居当時は子育て世代が多かったこの団地も、46年経った今では子どもたちも巣立ち、高齢化を迎えています。 もともと自治会を中心に福祉活動などが盛んでしたが、団地内で発生した「孤独死」をきっかけに、“みんなが気持ちよく、永く住み続けられるまちづくり”を目指し、20年8月に「お互いさまねっと 公田町団地」を立ち上げ活動を開始しました。 」
詳細はこちら
今後のご健勝とご活躍を願わずにいられない。


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  佐賀大学に入学
 戦後、私は中学4年生になって理科系へ進むことを決めた。理科系の古書を古本屋であさり細胞学・進化論遺伝学の学習に力を入れた。生物学の中島幹先生と話し込むことが楽しくなった。研究者になる夢を抱くようになる。進学は甘くなく5年卒で熊本の旧制第五高等学校理乙を受けたが合格しなかった。浪人かと思いきや新制高校というのが出来たので浪人せずに新制佐賀大学の理学専攻に合格できた。
 理学専攻の学生は1学年80名、その大半が医学部のプレメデカルコース選択。学部長が生物学の専攻でリベラリスト島地威雄先生。旧制浦和高校校長、佐賀高校校長を経て佐賀大学文理学部長となられた。

  恩師の受難に抗議
 佐賀高校の数学教授和田浩先生は教職員組合の推薦で佐賀県地方労働委員に就任していた。佐賀市内で労働争議が発生した際、当該企業の社長がアメリカ軍政部へ駆け込んで労働問題を軍の手で抑えてほしいと陳情した。米軍は一方的に企業の利益を擁護して、労働組合側に不利益な措置を執り、労働者側の推薦で委員として活動している佐賀高校教授和田氏を偽証罪で有罪の実刑と罰金刑を下した。その事が新制大学の教授任用の障害となった。和田助教授はホグベンの百万人の数学を教材として大学の数学講座で教壇に立ち、私も受講していた。その和田浩先生が受難である。旧制佐賀高校が閉校すると同時に失職するに至る。
 私はまだ19歳であったが自治会結成を成功させて学部学生自治会副委員長に選出された。私は教授会の不当な措置を全学に知らせ、和田助教授の不採用に抗議の意思表示を行った。大学当局を代表する光岡教授の判断は軍政部に寄添い、事もあろうに大学教職員組合長でありながら大学の運営委員の重役に就任した。この事実は即不当労働行為である。和田氏の基本的人権を擁護すべき大学教職員組合委員長の任務を放棄し軍政部に迎合。労働法で見れば同教授はマッチポンプ・矛盾した委員長兼重役そのもの。昭和24年6月1日制定の労働組合法第2条但し書き1号の役員に当たり、第7条の不当労働行為である。

  スト執行で退学処分
 私は自治会役員として、このような不当な措置に抗議しようと学部自治会委員長も含め合意のもとに学生大会を開催し、多数の支持を得てストライキを議題とした。執行委員長が演壇に立ってスト突入を提案、即可決となった。私は副委員長でこの議事進行を見ていた。執行委員長は委員長席からストを提案しスト可決を議決、その直後に執行委員長が辞任を申し出た。片や旧制九州大学から来ていた学連オルグ福元君はストの扇動者で「突入せよ」と初めから食い下がっていた。ストの実施の可否は自治会最高責任者である学部執行委員長の手中に有った。執行拒否も採否は委員長の判断である。委員長が拒否権を発動するかもしれないと思っていたが、そうせず委員長辞任という想定外の異常事態となった。副委員長の私は、自ら委員長代行となって壇上に立ち、本日の大会でのストライキ提案の手続きは有効であり、前委員長の議決措置は順当で大会決議は執行しなければならない旨言明。私は執行委員長代行として最低本日を含め短時日のスト執行を確認して学生大会を終了させ、その他の案件については執行部一任として閉会する旨宣言した。副執行委員長兼執行委員長代行の大野はその時点で退学処分を覚悟。退任した前任委員長は当局と前もって打ち合わせをしていたものと推定。
 その後、私は大学当局から学長室へ招かれて処分通知を受けた。不本意ながら不知火寮からも退去を求められた。荷物を纏めて若干名の友人との別離コンパを開いて大牟田の自宅へ帰り、兄と母に報告。資金協力を願い、長兄から上京のための貴重な経費を支出して頂いた。
 父は定年退職後の慰労として四国遍路に出かけていて留守、父へのお詫びの挨拶も抜きで上京。戦後4年そこそこ、1949~50年以降の私は、医学進学課程の路を2年生の途中で閉ざされた。

  東大生協で再出発
 東大生協の食堂で皿洗いから始まる再出発となった。自業自得。アッケラカンなスト後の人生となったが、個人としては大きな損害であった。占領政策に便乗しレッドパージを強行した大学当局の実力者英語松岡教授に対する抗議の意思表明の場は作れず、ストの責任を問われて学長から退学処分を言い渡された。
 そこで東大学生新聞の林重太氏を頼って東大生協に就職したという経過である。東大生協での勤務中にこれと言えるほどの大きな仕事はできなかったが、塚崎宏・藤川一栄両氏の推薦で日生協・消団連の仕事を戴けた事が、人生における貴重な転機となった。
 塚崎・藤川両氏の指定どおり私は、1956年1月9日、神田神保町の日生協を訪ね、専務理事常務理事他責任者の面接を受けて、事務局員として従事する貴重な機会となった。

  消団連事務局から日生協貿易部門を経て消団連事務局長17年
 全国消団連にて取り組んだ仕事は、消費者問題の数々、初期の課題ばかりで貴重な体験となった。次に出てきた課題は大きすぎる課題でした。
 新聞購読料金独禁法違反を告発した・・。全国に呼びかけ新聞各社購読料の一斉値上げ分不払い運動は一挙に100万の読者の参加拡大したが、公取は一転不問処分を決定し挫折。
 大野は消団連事務局員を外され、貿易会社への左遷。北洋材輸入業務の習得。貿易会社の実務研修。茂山鉄鉱石の受け渡し、八幡製鉄(株)への納入。大豆の輸入と国内売りさばきに従事した。そして中国の「文化大革命」、中国貿易と友好商社問題に遭遇。北朝鮮への出張等めまぐるしく経過し、しかも適切に対処できた。先輩や同僚たちの声援の賜である。この間9年余を経て、私への人事異動が転がってきた。
 中林貞男名誉会長、正田彬慶応大学教授両氏からの提唱で、消団連事務局の手法が市民団体から煙たがられているので「人事を一新せよ」とのアドバイスを受け、元事務局員大野に再度やらせて改善の方策を探れとの指名人事提案であった。
 大野自身としては好むところであり、全国消団連事務局長を約17年全力投下、務め上げ結果は幸運であったと自画自賛している。
以上
(追記)
 大野さんをネット検索したところ、まずウィキまとめの記事に「昭和5(1930)年9月25日~ 昭和・平成期の消費者運動家。」とあった。
 その次には、横浜市栄区のHPに「特定非営利活動法人お互いさまねっと公田町団地」大野省治理事長ということで、日本住宅公団(現在のUR都市機構)が建設した公田町団地(住居数1,160戸、33棟)に「お互いさまねっと」 を立ち上げたことについての記事があった。
「入居当時は子育て世代が多かったこの団地も、46年経った今では子どもたちも巣立ち、高齢化を迎えています。 もともと自治会を中心に福祉活動などが盛んでしたが、団地内で発生した「孤独死」をきっかけに、“みんなが気持ちよく、永く住み続けられるまちづくり”を目指し、20年8月に「お互いさまねっと 公田町団地」を立ち上げ活動を開始しました。 」
詳細はこちら
今後のご健勝とご活躍を願わずにいられない。

【2016/02/03 18:30】 | 文献紹介
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