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【2013年度第3回例会のご報告】概要編はこちら
ご講演要旨「山本邦雄:日本生協連職員としてスタートした生協人生を今、ふりかえる」 その1

【山本邦雄:日本生協連職員としてスタートした生協人生を今、ふりかえる】 その2
「4」パルコープ誕生は組合員のため、そして事業・経営に貢献したのか、そして新しい連帯への可能性を切り開くことが出来たのか
俗にひらがな生協と呼ばれていた5つの市民生協は、いずれ一つになるという暗黙の確認のようなものがあった。設立当時はそれぞれの活動エリアを明確に区分し、受け持ち地域での独自の発展を目指した(当初は注文書も一緒だったが次第に各生協の独自の取り組みになった)。1980年初頭にいずみ市民が新たな配送センター(班別仕分けセンター)を建設し、当初うまくいかなくて4生協に提携要請があった。そのことが5生協の事業連帯に大きな変化をもたらし、1984年に4生協の共同出資による「(株)おおさか協同物流センター」を設立、同時に4生協合同商品部を設置(共同企画開始)した。
1985年、「くらしの研究所」(京都)の有識者たちが発行した『転換期の生協運動』がきっかけで90年代への準備が開始、4生協でも合併への論議を開始した。合併への準備期間、実務の一元化、システムの統一などあったが、もっとも労力をさいたのが、大阪5生協の連帯(特にいずみ市民との関係、よどがわの途中離脱)だった。大阪府連、日本生協連との調整、近畿地区の生協への理解、合併まで足かけ4年を要した。その合併のなかで痛切に感じたことは、以下の通り。①準備期間はあったし、それなりに丁寧な対応をしたつもりだが「異文化」をもつ組織が一緒になることは簡単なことではない。②最終の役員・幹部人事の難しさ。③労理関係の本当の信頼関係構築こそ、最大のキーポイント、ということ。
3生協の合併から23年、当初の目標からどう評価するかの基本視点は以下の通り。①本当に「組合員のために」なったのか、商品への満足度、組合員運営は改善出来たのか、理事会改革は進んだか、総代会は組合員の意見が反映できるようになっているか。②事業・経営は前進したか、経営戦略は妥当であったか、客観的情勢に対して主体的な力量を見極め機敏な対応ができたか。③パルコープ設立が大阪府内、近畿地区において新しい連帯の可能性を生み出すことに繋がったか。

「5」コープきんき設立時、必ずしも緻密な政策・方針・計画があったわけではない
2000年初頭の生協をめぐる情勢の特徴は、90年代後半の3つの危機(経営・信頼・存続の危機)から脱出しつつあったが、事業・経営は減収・減益が続き出口が見えない状況だった。大阪でいずみ問題が起きた時に、大阪の地域生協が10いくつあるうち上期決算で黒字だったのはパルだけで、この際パルコープだけは絶対に守らないと、というような決意でやってきた。こういう危機は2001年頃から大体脱出していったが、減収減益は続いていた。コープきんき設立のきっかけは関西地連の事業政策委員会の研修会で当時の日生協の片桐常務からコープネットと日生協との共同開発、共同仕入れが始まって、最終的に参加単協のGPを1%近くアップさせたという取り組みを聞いた時に、京都の西村喬常務から「この際、パルコープがそういうことを呼びかけてくれないか」と言われたこと。それで「近畿地区事業連帯推進協議会」を立ち上げて1年ちょっとで、「生活協同組合連合会コープきんき」をつくるべきだという結論に達した。やってる当事者もこんなに早く決まったことに驚いた。それで2003年にコープきんきができたが、この年に阪神タイガースが16年ぶりかなんかで星野監督で優勝。「世の中何が起こるかわかりませんね」と言われたが、コープきんきも一緒だという笑い話をした。
コープきんき設立に参加して感じたことは以下の通り。①情勢認識をまず一致させること。②「事業連合」という組織はなんのためにあるのか、深く捉えること。③近畿地区における事業連帯の特徴と、自らの強み、弱みを知って取り組む。④事業連帯であっても、組合員の参加・情報公開は不可欠。⑤情勢の変化への対応、分析、予測は出来るが決定的なものはない、既定概念にとらわれない機敏な対応、ということ。

以下、「その3」に続く

【2014/06/08 21:02】 | 主催企画報告
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