<Mより発信>
関東大震災後の復興の取り組みの中で生まれた消費組合について、続けてご紹介していきたい。1979年に江東会によって発刊された『回想の江東消費組合』の中で、大西信治氏(当時かながわ生活協同組合顧問)が「柳島消費組合と江東消費組合と」という文章が掲載されており、こちらでもご紹介する。
【柳島消費組合と江東消費組合と】
『回想の江東消費組合』第二部 回想よりP210~
「柳島消費組合と江東消費組合と」大西信治(かながわ生活協同組合顧問)
  一
 関東大震災のときに、東京帝大の穂積、末弘博士を中心とした学生有志団は、上野の山に避難してきた、浅草、下谷一帯の、数万人におよぶ羅災者救護をいってに引き受け、物資の配給、風紀、衛生、傷病者の手当など、文字通り献身的な活動を行いました。
 両博士は、賀川先生から〝この学生グループを恒常的な組織につくりあげては〟-という示唆をうけて、オックスフォード大学セツッルメント(注1)の先例にならって、大学セツッルメント運動を興すことになりました。
 この運動の第一着手として、対象をどんな社会層においたらよいか、活動の拠点をどこに置いたらよいか、と検討された結果、本郷から比較的ちかく、生活に希望をもち、向上心のある労働者街を選ぶべきであるということになり、永い間、行政機関などからほったらかされていた江東の地域を選出して、柳島元町に、34.5坪の建物をつくり、ここを拠点に、事業を始めることになりました。大正13年のことです。
 セツルでは、通りに画した角に、消費組合の店を設け、正面玄関の左側に診療所、その奥に法律相談室、二階に図書室を兼ねた小講堂をつくり、労働学校、市民学校、児童学校の教室にしていました。別棟に児童会館をかねた託児所と子供の遊び場がつくられました。
 消費組合店と託児所は昼間の事業で、診療所や法律相談やいろいろな講座は主に夜間に行われました。
 セツルの各種事業は、学内運動のなかで広まった「人民の中へ」の思想に強い共感をもった新しいタイプの学生が本郷の学生街から出向いてきて行ったので、附近の住民から非常に喜ばれ、信頼されるようになりました。
 セツル事業の一部であった消費組合部は、昭和2年8月、末弘博士の発想によって、地域居住者の自主的組織として発足させることになりましたが、これが、柳島消費組合の誕生で、当時学生であった二代目組合長の山本秋さんはどぶ臭い水溜りのある路地から路地へ、焼けトタンの長屋を一軒一軒廻って、精工舎や栗原紡績などに勤める地域の人々を根気よく啓蒙して、労働学校や市民学枚の生徒にも、加入を勧めながら、一方では汗水たらして重い荷車を引き、深川の米問屋に仕入に出むいたり、配達したりして、この組合の基礎づくりに献身したといわれています。
 その頃(昭和3年)、郷里の埼玉で農民運動をしていた私は、消費組合を勉強するために関東消費組合連盟に派遣されることになり、その傘下の柳島消費組合で働くことになりました。23のときのことです。
 午前中は、小石川の東京共働社(砲兵工廠の従業員が主体でした)で開かれていた関消連主催の消費組合講習所に通い、午後は、柳島にもどって実務をうけもちました。
  二
 当時、同じ本所の松倉町に、関東消費組合連盟加入の江東消費組合がありました。
 震災前、関西で、購買組合共益社や神戸消費組合を設立された賀川先生や木立義道さんたちの本所基督教産業青年会の人々によって、震災直後、前記の東京帝大の穂積、末弘両博士の学生グループと同じように、被災者救援運動がおこされました。
 江東消費組合はその産業青年会を母胎とし、労働総同盟に属していた東京合同労働組合などの支持を得て、昭和2年4月に創立されましたが、東大セツルメントを母胎とした柳島消費組合の創立は同年8月で、僅か4ヶ月の差をもって、同じ本所に、この二つの歴史的な組合が発足したというわけです。
 その当時の勤労者は、貸銀が低く、生活に追われて、明けても暮れても油じみた葉っぱ服やカーキ色の作業服を着て、会社や工場に通っていました。
 江東消費組合では、誰の発想であったか、コール天地の開襟服をつくり、「賀川服」と名づけて、普及宣伝につめていました。
 作業服で毎日工場に通うのは、一寸おそまつだし、といって官公庁の役人の着用する背広服は高くて買えないので当時の労働者の間に大評判となり、好評を博していました。
 関消連加盟の組合常務者はもちろん、労働組合幹部の人たちもこぞって着用しました。
 江東消費組合と柳島消費組合とは、比較的近いところにあった関係から、私は、賀川服購入のため、よく訪れたものです。
 そのころ、江東消費組合で活動されていた笹川恵太郎さんは、のちに吾嬬町に、総同盟系・日本紡績労組の人たちを中心に、南葛消費組合を設立し、また、田中勝太郎さんは深川の木場に、関東木材労働組合や浅沼稲次郎氏(注2)らの労党系(ママ:浅沼は日本労農党に参加していたので誤植と思われる)の人々を中心に、深川共働消費組合を創立されましたが、のちに、これら二つの組合は柳島消費組合と合併して、東京第一合同消費組合となりました。この面からいっても柳島と江東とは縁があったわけです。
 広瀬庫太郎さんからも、何かと指導をうけましたが広瀬さんは、あれから上海に渡って、中国で活躍されたようにきいております。
 昭和3年、東京共働社の階上で開かれた、関消連の消費組合講習所で、講師であった木立義道さんの、階級闘争のきびしい情況のなかでの協同組合の役割をぼかし、キリスト教的友愛による労資協調路線をとる協同組合論の講義を受講生たちがボイコットして、砲兵工廠前の小高い山にたてこもったことがありますが、これが契機となったのか、やがて、関消連は左右に分裂して、消費組合運動の方向について、両者がはげしい論陣を張るようになりました。あれはもう、50年の昔となりましたが、今となってはすべてはただなつかしい思い出となってのこるのみです。木立さんの講義をボイコットした事件は「若気の至り」と木立さんにお詑びしたい気持ちでおります。
以上
(注1)ネット検索で見つけたYahoo!百科事典の「セツルメント」の項はこちら
(注2) wikipediaの「浅沼稲次郎」の項はこちら

【2011/05/17 12:55】 | アーカイブ
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