1926江東消費組合・中之郷質庫・基督教青年会60%×60%縮小.jpg
<Mより発信>
関東大震災後の賀川豊彦の復興の取り組みについて、続けてご紹介していきたい。
1979年に江東会によって発刊された『回想の江東消費組合』の中で、賀川豊彦の自伝小説「石の枕を立てて」より、江東消費組合と中ノ郷質庫信用組合にかかわる部分が抜粋されて掲載されていたので、その部分をこちらでもご紹介する。冒頭の写真も同書掲載分である(左より中ノ郷質庫信用組合、江東消費組合、本所基督教産業青年会)。
なお、この小説は「賀川豊彦全集」の第19巻にも収められている。
【賀川豊彦の自伝小説「石の枕を立てて」よりの抜粋】
『回想の江東消費組合』第二部 回想よりP67~
ただ一つの道 -「石の枕を立てて」より
「石の枕を立てて」(昭和14年刊)は、賀川豊彦の「死線を越えて」につづく自伝小説で、内容は、大正12年9月1日の関東大震災に際し、東京救援のため神戸より急遽上京した賀川豊彦が、10月19日、本所松倉町に天幕を張って運動を開始してから4、5年にわたる記録である。
その中から、江東消費組合、中ノ郷質庫信用組合にかかわる部分を抜粋した。
文中の「新見」は賀川豊彦、「木村」は木立義道である。-編者-
 本所では、近所の人の生活費を軽減しようと、新たに小さい消費組合が生れた。
 バラックの一番北の端の板壁を取りはずして、そこを店舗にし、米、炭、缶詰、その他日用必需品を販売し始めた。
 組合員は主として近所のバラックに住んでいる人々のみなので出資払込みも僅か1口2円とし、労働階級にのみ奉仕せんと計画をたてた。勿論、初めから東京府庁の認可を得ることができなかったので、2、3年間は認可なしでやって見ることにした。
 大阪、神戸の経験で、消費組合が非常に困難であることを知っていた新見は、毎月若干の損害は始めから見越していた。僅かの品物を一々配達せねばならない労働者向きの消費組合では、配給費だけが損になることがよくわかっていた。
 しかし、産業組合を作らないで、単なる社会主義運動だけでは、絶対に社会改造ができないことを知っていた新見は、どんなに苦しくてもその損失を補填しようと覚悟した。
 そして、主事の木村君も必ず成功して見せると意気込んでいた。
   ×
 新見の留守の間に、本所キリスト教産業青年会のバラックの代りに、そこから約一丁ばかり離れた東駒形四丁目の地域内に建てられていた産業青年会付属の宿泊所の隣へ持っていって、産業青年会の本建築をする計画をしていたものが、もうでき上っていた。
 そして木村君は、その北側へ、質庫信用組合と消費組合の店舗を並べて建築し、キリスト教産業青年会の創立せられた目的の実現に邁進したいと、彼の理想を新見に明した。
 北側の空地に2階付の店舗が2軒並べて建てられた。バラックの北の隅っこで始められた江東消費組合の売店が、その南側の店舗に引越してき、中ノ郷質庫信用組合がその北側に腰を落ちつけることになった。
 新見の考えでは、消費組合の困難はその金融にあった。それで、できれば信用組合の金融をうけて、労働階級に日用品を廉価で供給したいと考えた。しかし、下層労働階級の信用組合は、大正12年の12月頃から始めた生業資金の貸出しでいい経験をもっていた。そのときは主婦の友の社長・石川武美氏が「生業資金に貸出してくれ」と千円の金をくれたので、五十円、百円と区切って全部貸出して見たが、その金を返却に来るものは殆どなかった。それで、組合部を受持っていた木村君は、信用組合が質屋をやっていることを知って、それを見にいってきた。
 「信用組合で質屋をやりましょう。東京の庶民階級は、一年間に2500万円以上の質草を二千軒近い質屋に持っていっていますし、質屋の利息は一年間三割四分ですから、年に一割で貸出しても労働階級は随分助かりますヨ」
 木村君の報告を聞いて新見はすぐ質庫信用組合の創立に賛成した。ところが、東京府庁の方から、ぜひ三千円位はそちらで金を作るように、と内意を伝えてきた。それで新見は、有馬頼寧伯その他の知己友人に依頼して、信用組合の創立資金三千円を出資して貰った。そして、田川大吉郎氏に依頼して組合長になって貰い、いよいよ事業を開始することにした。
 松沢の新見の家で鶏飼いをしていた佐々木君が、村から出てきて信用組合の主事に赴任した。組合加入者は僅か十銭の払込金で、組合員たる権利を獲得できるような仕組みになっていた。それで、信用組合は始めからぐんぐん伸びて、初年度から一文も損せずに済んだ。
 しかしその蔭には、奥堂定蔵氏の並々ならぬ努力のあったことを新見はいつも思い出すのであった。
 奥堂氏は築地の聖パウロ教会の信者で、王子の大きな質屋の若主人であったが、新見が本所にバラックを建てるとすぐやってきて、“ぜひ東京市の質屋制度を改造したい”という彼の祈りを新見に語った。産業組合の手で質屋が経営できるなら、彼はいつでも参加するということを誓った。
 そのことを思い出した新見は、木村君に奥堂氏を訪問して貰った。そして、奥堂氏自身に乗り出して貰って、彼の店から質草の鑑定人を送って貰い、奥堂氏自身には、中ノ郷質庫信用組合の専務理事に就任して貰った。
公益質屋が五十円以上は貸さないにも拘らず、質庫信用組合が始めから千円まで貸すこことを公表したので、電話を担保に金を借りにくる者が続々でてきた。
 それで、金額を多く借りる者には利息を多くとり、質草を持ってきて二円や三円の金を借りる者には、年四分位の利息で貸すことにして、更に利益があった場合には、一円以下の金を借りる者には無利息で貸してもよいという方針を取った。
 日掛貯金がはじまった。震災当時に近所に奉仕したお蔭で、近所の評判はとてもよく、町内残らず、日掛貯金に加盟してくれるところさえできた。
 ある老婆の如きは「おうちはキリスト教で間違いはないでしょうから安心してお金が預けられますワ」そう言って喜んで預金してくれた。
 その話をきいた時、新見は新しき責任を感じた。
 その後も、某銀行が取付けに遭うという噂が立った時、町内の多くの人が、銀行から金を引き出してきて、中ノ郷質庫信用組合に預金してくれた。その言い草が面白い。
 「おうちはキリスト教だから間違いはないですヨ、産業青年会の若い人は皆賢いですナァ、実にえらいことを考え出すもんだ、銀行であれば、儲けがあれば皆取ってしまうが、こちらの組合は、儲かったら儲っただけ、利息に近いお金を払戻してくれるからネエ、今どきの若い人にかかったら敵わんヨ」
 しかし、消費組合の方はそう好都合にはいかなかった。日用雑貨品の価格の変動が激しいのと、出資金の金額がすくないために、仕入れにこまってしまった。しかし、一旦始めた以上、新見はどこまでもやり通す決心をしていた。それで、毎月相当の金額に上った損害を原稿料で埋めていった。
 この消費組合の損害は、社会事業に出す金と違って、なんだか馬鹿馬鹿しいように思われた。けれども新見は、社会を改造する唯一の道が、この協同組合運働の外にないと思っていたから、石に噛りついても、労働街の消費組合運動を成功させたいと思った。
 幸い、大阪消費組合協会のコール天服(注・賀川服)が売れていたので、そこから現金千円を寄附して貰い、差当りの困難を切り抜けることにした。
   ×
 さる日の負傷は、彼にとっては大きな打撃であった。
 しかし、それによって彼は大きな教訓を学んだ。彼は自分の仕事を限定せねばならないことを知った。もうそんなに手を拡げることはできない。勿論、無理なことはできなくなってしまった。
 最初彼は神戸の貧民窟の事業だけで、彼の仕事としては重荷すぎると考えていたのに、震災とともに東京に手をつけ、更に大阪に彼の事業を拡張していったために、一ケ月の出費だけでも、毎月千円以上準備しなければならなかった。
 そこへ、今までうまく行っていた大阪の消費組合共益社が、従業員の費い込みと、震災後の不景気に崇られて、月末の金融にさえ困るようになった。
 その上、最近、本所区松倉町のバラックで始めた子供遊びのような消費組合が、毎月、八、九十円から百五十円程度の損害を出していた。
 社会改造とはいえ、購買組合の仕事は一種の商売であった。それで、収支相償えば少しも苦痛に感じなかったが、朝から晩まで筆を走らせて、下手くそな小説や論文を売りつけて、辛うじて原稿料を受けとり、その金を全部、社会運動に投げ出すことは、何でもないような事であるけれども、同じ百円でも肺病患者にあたえると感謝してくれるが、組合事業で損をすると誰も感謝してくれなかった。で、それは泥溝の中へ金銀を投げ込んだような気がしてならなかった。
 しかし、良心を通して神が囁く声は、こうであった。
 ―― 協同組合運動に投げ込む金は、単なる救済事業に投げ込む金より、更に大きな結果を持ち来らすから、決して躊躇せず、その効果が顕れるまで持続する必要がある――と。
以上

【2011/05/02 19:44】 | アーカイブ
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