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<Mより発信>
『賀川豊彦全集』の第11巻に添付された『月報』9.掲載の文章のうち、中林貞男氏の分のご紹介。
【情熱を注いだ生協運動】日本生活協同組合連合会副会長 中林 貞男
「一人は万人のために、万人は一人のために」各地の生協を訪れてこの文字をみると、私は賀川先生を想い出す。先生は生協の仲間から額や色紙などの揮毫をたのまれるとよくこの言葉をかかれた。この十八文字は簡単だが協同組合の精神を非常によくあらわしている。先生の協同組合運動に対する情熱はすべてこの言葉から出ているのではないだろうかと私は思っている。また伝道者としての情熱でもあったであろう。そして先生は人格主義を説かれ、よく数字をあげて青少年の犯罪のふえるのを嘆いておられた。先生はまた科学を愛された。先生と話をしていて一番まいったことは巧みに数字をあげて煙にまかれることであった。私はいつか先生が役人の汚職を憤慨して数字をあげられるので、その数字はほんとうかと思って後で年鑑を調べたところ、ぴたりとあたっていたのに驚いた。従って先生は協同組合運動の根本は教育だということを主張され、人の養成を強調された。いま私達全国の生協の仲間が先生の記念事業として神戸に生協学校(注)をつくろうと着々準備をすすめているのも、そのご遺志にもとずいたのである。
この根本的な考え方にたって先生は平和を愛し、戦争には絶対反対の意思を常に堅持しておられた。私はよく先生と話していて、こと平和の問題になると先生の強い信念におどろかされ、激励されることがしばしばであった。数年前警職法のことが問題になり、日本生協連としてその扱いを相談に行った時、先生は再軍備を中心に再び軍国調がつよくなって来たことを憂い、
「生協運動は平和運動だ、そんな法律は絶対反対だ、いまの日本にとって一番大事なことは平和の問題だ、戦争に反対して憲兵隊や進駐軍にひっぱられるのならかまわんではないか、君! そんなときは一緒にひっぱられよう」
と語気はげしくいわれたのには驚いた。その時の先生の姿はいまも私の脳裡にのこっている。人間賀川は徹底的な平和主義者であった。この先生の崇高な精神が日本の生協運動に大きく影響していることはもちろんである。
先生は友愛と信義、協同の精神を強調し、自らも尊重することにつとめられた。そして力の強いもの、権力を持っているものがこれを理解することが民主々義にとって一番大切だと私に教えられた。当時よく日本生協連の総会で元気のよい代議員や大学協連の若い代議員から私達に鋭い批判がむけられた。のんきな私でも時にはおこりたくなることがあったが、こんな時会長はいつも私にむかって
「君達は執行権をもっているのだから黙ってみんなの意見を聞くことが大事だよ、ことに若い学生の意見にはお互に耳をかたむける必要があるよ、若い連中の意見をきかなくなったら人間はだめだよ」
と私をなだめられた。会長はこと日本生協連の問題になるといつも大同団結と運動の統一を私に注意された。おそらく先生は戦前からのながい労働運動、農民運動などの経験から、力の弱い生協は何より運動の統一をはかることが一番大切だと痛感されていたからだと、私は先生のその信念を肝にめいじている。これは今後も大事なことだと思っている。とにかく、労働者は大きく団結すべきだということを常に強調され、従って社会党の分裂等については病床にありながら強く批判しておられた。
先生のこの態度はいつも日本という立場よりむしろ人類という立場にたっての主張であった。その意味では先生はすばらしい国際主義者であった。日本人で先生ほど国際的にその人格や業績が高く評価されている人は少いのではないだろうか。私は国際協同組合同盟の会合等に出かけてみて、先生に対する評価が国内においてよりも国際的に高いのに驚いたのである。日本の主張をする場合にドクター賀川も同意見だというと皆柏手をしてくれるので、私は度々先生のお名前を拝借させていただいた次第である。先生が国際的だということにからんで私は一度先生に一喝されたことがある。それは社会党の故三輪寿壮氏が選対委員長をしていた時、
「鈴木委員長と相談して都知事候補に賀川さんを推そうというのだが君から先生の内意をうかがってくれないか、もし引受けてくれられそうなら党からも正式に頼みに行くから」
といわれ、私も名案だと思って先生に話した。ところが、
「君! 俺は泥臭い江戸川の水は呑まないよ! それよりもいま人類の破滅を憂い一生懸命原稿を書いているのだ。そんなことを考える暇はないよ」
といわれたので、更に社会党の真意を説明しようとしたら、
「君! 馬鹿なことをいうのはやめ給え、君はわしと幾年つきあっているのだ」
と大喝されたのでほうほうの体で引きあげた。先生の頭には人類の幸福、世界の平和ということ以外にはなかったのであろう。晩年ノーベル平和賞の候補にあげられ、国際的運動に発展しながらその結実を見ずに他界されたことはかえすがえすも残念でならない。
日本生協連が実力以上に国際的に評価され、現在世界各国との交流がスムーズにいっているのも先生の力に負うところが非常に大きいと思っている。われわれが現在やっている協同組合貿易についても先生は当初からの最も熱心な主張者であった。私はいま戦後17年間の日本生協連の歩みをふり返ってみるとその一つ一つが先生に負うところの大きいのに驚かざるを得ないのである。そもそも終戦直後の昭和20年11月18日に新橋蔵前会館で、日本生協連の前身日本協同組合同盟の結成大会を行って、運動を開始した時の資金は誰が出したのだろうか、現在の新しい運動の仲間は殆んど知らないだろうが、それは外ならぬ先生であったのだ。先生が某会から100万円借りてこられてポンと投げ出されたのが戦後の運動のはじめだったのだ。100万円といえば簡単だが、今日に換算すればいくらになるだろうか。そしてその後先生は一人でその全額を原稿を書いて返済してくださったのである。
私は先生の崇高な精神、そのバク大な資金的援助のあったことを想いそして現在の運動の姿を思い感慨無量である。また先生は中小企業団体法や小売商業特別措置法等の生協抑圧法が国会に上程され、反対運動をやっているといつも率先して国会に陳情に行ってくださった。最早私達は先生のその姿を見ることはできない。大正のはじめ神戸の貧民窟の伝道から大阪の共益社や神戸の神戸生協、灘生協(この4月に両生協合併)、また関東大震災後の東京に江東消費組合、つづいて中野の組合病院の設立に力をつくされた。キリスト者としての先生は生協運動を通じてその理想を実践されたのではないだろうか。
以上
(Mより注記)
「神戸に生協学校」をつくる構想はその後紆余曲折を経て実現困難になってしまった。時期をあらため、その精神を生かすものとして「賀川記念全国生協教育基金協会」(その後の略称:賀川教育基金)の創立が1981年の日本生協連創立30周年記念事業として設立され、現在に至っている。

【2010/10/15 12:44】 | アーカイブ
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