<Mより発信>
『生協運動』1960年4月号の故賀川会長追悼特集よりのご紹介の締め括りである。
【ある一日のこと】全国労働者共済生協連 小林基愛
賀川さんと親しみをこめてよばせていただきます。これからかかれることがらのなかには無礼なはなしにもおよぶと思います。けれど賀川さんはそんなつまらぬことにこだわるお人ではなかったのですから、わらっておゆるしねがえると思います。
日協連の事務局員として、また労働者共済の仕事をつうじて、賀川さんとお会いし、お話しをうかがうたくさんの機会をもてました。そのなかから、もっとも印象にふかい、ある日の賀川さんをえがいてみたいと思います。
  ×  ×  ×
日協連の本部が、築地の中央市場から神田の神保町にうつって、まもないころだったと記憶します。衆議院議員選挙に埼玉県からたった、平岡忠次郎氏(現社会党衆議院議員)の応援演説に、ぜひ賀川さんに、ということで、私がお供をすることになりました。そのころの私にとってみれば、賀川さんはとにかくえらい人で、伝説的人物であったようです。なにしろ、60をこえる母が少女時代に血をわかしてよんだ本の著者なのですから。

さわやかな日本晴の日でした。賀川さんの家は幼稚園の子供たちのなかにありました。でがけに奥さんから、ハンカチ、チリ紙、財布とわたされるのを、むとんちゃくにポケットにつめこまれる。財布の中味についても、奥さんが大きな声で千円札がなん枚、百円札がなん枚、小銭いれには十円玉がなん枚はいっていますから……と念をおされる。それでも賀川さんは靴がうまく足にそわないらしく、きいていないようです。
黒いセビロに、黒のそれもながいオーバーといういつものいでたちです。おはようと声をかける園児たちに手をあげてあいさつされる。駅までの道でも、たびたびあいさつされるのだが、さっき園児にたいする場合とまったくおなじなのです。賀川さんを観察することにひじょうな興味をおぼえてきました。
行き先は川越市です。新宿で国電にのりかえ、高田馬場で西武電車にのりかえます。車中のはなしは、労働運動のむかしばなしや、生協運動の問題などでした。それは一貫して人格社会主義を説かれたのです。けれどおもしろい話をおぼえております。戦争直後、賀川さんは混雑する電車にのって都心にでるとき、みかん箱に書類をいれ、ふろしきにつつんでもってあるかれたそうです。これは合理主義にもとずいておこなわれたにすぎなかったようです。
賀川さんは生協における婦人活動家の貴重さをしきりに説かれました。戦後の物資逼迫のころ、松沢生協の鑓田夫人が毎朝買だしをつずけられた努力をはなされたとき、とくに涙があふれていました。「女じゃなきゃできないことよ」とむすんで話題がかわったのをおぼえています。
西武電車は途中、米軍基地のまんなかを30分以上もはしります。爆弾のような堆積がみられます。賀川さんも私もふきげんになりました。電車は終点です。むかえにでているはずの人がみえないのであたりをさがしているあいだに、賀川さんがいなくなりました。声がするのでふりむきますと、もよりの中華そばやのなわのれんのむこうから手をふっています。ラーメンがはこばれると、ありがとうというおおきな声に、店の女の子はたまげたようです。賀川さんはぜんぶはたべられないからと、私の丼にわけはじめます。のこさないのも、いく先に世話をかけたくないというのも合理主義にもとずくもののようでした。「おつゆがおいしいね」といわれるので、私もぜんぶのんでしまいました。
まもなく平岡さんが車とともにやってこられて、恐縮していましたが、賀川さんには、なんで恐縮しているのかつうじないようです。さっそく、平岡さんのルノーにのりこみました。40分ばかりかかる飯能の方もまわっていただきたいとのことで、強行軍だからとも考えましたが、賀川さんがなんでもひきうけてしまいますのでお供はだまってしまいます。なにしろ選挙運動なのですから……。ルノーはまったく小さい車です。「小林君、電車の方がひろいからすきだ。」といわれたときは、体のおおきい平岡さんは、前の座席で体をちぢめて恐縮しておりました。
選挙の話にはぜんぜんふれません。車窓をよぎる畑の話をつぎつぎとされます。話は施肥のことにまでおよびます。とにかくなんでも知っています。目的地がちかくなったところで、平岡さんからその地区がもっともよわいところであることの話がでました。うなずきながらきいていた賀川さんは、「よくはなせばわかってもらえる」といわれただけでした。しかしこの言葉以上に平岡さんを勇気ずけた言葉があったでしょうか。
街かどで、賀川さんは十いくたびか、よびかけました。とおりすがりの人々も、いつとはなく足をとめてききいっています。飯能には生協はまったくないのですが、消費者の話から、生協のことがとびだしてきます。生協は最大のプロパガンデストをうしなったわけです。
辻演説は夕方までつずけられました。私も少々賀川さんの体が気になってきました。平岡さんもそのようです。平岡さんの応援者である、ある銘茶やさんで休憩し、「職場からかえる人を」という賀川さんをなだめて、平岡さんにおくられて電車にのりました。「平岡さんはいい人だからまた当選する」といわれたあと、おつかれになったのかずっと眼を閉じておられました。私はいたいたしい気持と、ほっとした気持とがいりまじったまま、ひじょうな親しみをおぼえました。
たそがれの池袋は、雑踏をきわめております。賀川さんはどんどん広場を横ぎっていきます。どこにいらっしゃるのか、とおたずねすると、お腹がへったろうから食堂へいこうといわれて、もっとも典型的な大衆食堂のショウケースの前にたたれました。これどうかというので指さきをみると、お子さまランチです。ふきだしたくなりましたが賀川さんからみれば孫をつれているみたいなもので、そのていどの錯覚もありうるわけです。けれどさすがにお子さまランチをいただくほど修養が充分でなかったので、そのトナリのチキンライスにしました。卓につくと、おヒルの中華そばやとおなじです。半分以上を私の皿にもりあげるようにしてうつされるわけです。一見パッとしない老人が、母親が幼児に食事をさせるように世話している姿をながめる周囲の目を気にしながら、お子さまランチでなくてよかったと思いました。

私はこんなにほのぼのとした一日をもったことをしあわせに思っております。
以上

(Mによる追記)
ちょうど『生協運動』のバックナンバーの調べものをしていたら、小林基愛(もとよし)氏の経歴が掲載された号にいきあたった。1984年7月号から「生協運動と共済」という連載が始まり、第一回の掲載分にあったものである。以下、引用(『日本生協連50年史』の歴代役員略歴と照合して加筆するも少々不整合あり?!)。
「同志社大を経て、昭和28年(1953年)2月に日本生協連入職。昭和32年9月より全労済に出向、設立にたずさわる。昭和41年8月、日本生協連に復帰。総務部長、組織部長を経て1969年(昭和44年)5月に常務理事(~83年)。1982年東京医療生協を再建するために役員として出向。昭和58年6月、日本生協連の嘱託となり、かたわらCO-OP共済<たすけあい>の制度づくりに協力。現在54歳(1984年当時)。」
今現在、日本生協連とは縁遠いイメージの全労済だが、労働金庫と同様に設立の際は日本生協連が人事応援までして一体となってすすめていたことがよくわかる。そういう歴史的経過を踏まえると、協同組合陣営がもっと手を携えていく必然がみえてくるように思われる。

【2010/10/08 12:25】 | アーカイブ
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