(二)こちら
(三)
賀川氏第三の死線を越えた思いで
賀川社会事業研究所がとりあげたふたつの大いなる運動は、国民健康保険の協同組合(産業組合)代行の問題と、一般保険の協同組合化の問題であり、協同組合保険が戦後において実現されたのには賀川氏の功績が大きいことは人の知るところである。
それについては私は、昨年6月いらい「共済保険研究」誌上に『協同組合保険と先駆者賀川豊彦』と題して、史伝を連載しているが、氏について、かたりたいもうひとつの思いでは、氏が平和運動者であるがために、第二、第三の死線を越えねばならなかったことである。第一の死線は賀川氏自身によって「死線を越えて」のなかにかたられており、第二の死線は、1935年末から1936年(昭和11年)の半ばへかけて、アメリカキリスト教連盟の招請をうけて米国各地にキリスト教主義にもとずく国際平和と協同組合に関する講演をおこない、総計百万の聴衆にむかって、平和と協同組合運動をよびかけたとき、その演説のなかにもちいた『日本の労働者、農民、インテリゲンチャは平和主義であり、また日米間に戦争をしなければならない経済的要因はないが、ただ少数の日本の軍国主義者が夏の夜の蚊のごとくブンブンいって、国民の安眠をさまたげているだけである』という言葉が、日本の軍の激怒するところとなり、一時は陸軍参謀本部から、大阪の憲兵隊へ、賀川が帰国したらころせ、という指令がくだった事実さえある。
第三の死線は、昭和16年8月日本の軍が対米英戦を決意した時にきた。軍が氏をころそうとした理由は、平和主義者であるということ、クリスチャン・コンミュニズムが不都合であること、米国と仲がよすぎるということである。
葬儀に列席して、私はそれが天寿であったにしても、よくいままで長生きされたものであるということをしみじみおもうのである。
(1960.4.29夜)
紙数の関係上一部割愛させていただきましたことを、おわびとともにおことわりします。(編集部)
以上
(Mより追記)
山崎勉治氏についても、これまで何度かご紹介している。検索欄に名前を入れると該当記事のリストが出てくるが、1935~6年の賀川豊彦の全米公演についてのアメリカの報道が日本陸軍の参謀本部を怒らせて“暗殺指令”が出て、それを阻止したエピソードにふれた記事をこちらにリンクしておく。
【生協史の断面(4)賀川さんのアメリカ遊説】その2

【2010/10/07 12:22】 | アーカイブ
トラックバック(0) |
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿
URL:

Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 


トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック