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賀川氏のマルクシズムヘの態度とその変化
賀川豊彦氏は、その天才的な頭脳と人道主義的、詩人的情熱により、日本の近代社会運動の黎明期にあたり、労働組合運動においても、農民組合運動においても、協同組合運動においても、また無産政党の運動においても先駆者としての大いなる活動をおこなったのであるが、神の普遍的愛を説くキリスト教の牧師である賀川氏としては、やがて階級斗争の立場にたって運動をすすめるうえに、思想的にも、職業的にも、ひとつの限界に逢着せざるをえなかった。一面においてまた小説「死線を越えて」によっていちやくキリスト教会のみならず、文壇、社会運動界の寵児となり、わかくしてあまりにも多忙なる名士となってしまったために、1917年(大正6年)のロシア革命いらい、ことに1919年3月のコミンテルン(共産主義インターナショナル、または国際共産党)の創立により、国際社会運動のうえに、大きな指導的勢力をもってきたマルクシズムの原理について、根本的な研究をするじゅうぶんな時間的余祐をもちえなくなった。頭脳きわめて明晰であり、研学の精神また旺盛である賀川氏にとっても、多忙なる活動の間に、その原理をきわめていくには、マルクス、エンゲルスの著作は、あまりにもぼう大であり、体系的であったであろう。
賀川氏にとっての、宗教的、社会的、生活的事情と、読書にわりあてうる時間の限界とは、社会運動における氏の立場を、正統派マルキストたらしめず、むしろギルド社会主義思想にちかずけたようにみえる。
1906年ころから、英国において、ペンテイ、ホブソン、オレエジ等によってとなえられ、第一次世界大戦当時コールによって普及され、戦後ひとつの社会運動として登場したギルド社会主義の構想は中世のギルドにならって、同一産業の労働者の組合をつくり、この産業別労働組合たるギルドの全国会議によって、生産者みずから産業自治をおこない、賃金制度を廃止する一面、各種ギルドや市民的、消費者的、機関の間の調整と統一をおこなう、簡素にして民主的な国家を保存し、産業統制と市民生活の調整を生産者と消費者の組織にゆだねようとするものであるが、このギルド・ソシアリズムの構想のなかには、氏が後にとなえる組合国家の思想と一脈相つうずるものが発見される。
協同組合運動のうえで、氏からもっとも信頼された木立義道氏はその著「恩寵感謝の記」のなかに『私が直接賀川先生の御事業に参加したのは、先生の主唱による神戸消費組合の創立事務にたずさわらせていただいてからで、当時先生は、ギルド社会主義の立場から、労働組合の堅実な発達とともに、消費組合を設立すべきことを力説し、大阪において共益社を、神戸において神戸消費組合を創立』したと書いている。
ところで、協同組合運動のなかにおけるふたつの大きな思想の流れであるいわゆるオーエン主義に源を発する協同組合主義と、マルクス、エンゲルスの「共産党宣言」(1848年)にはじまり、レーニンによって確立された革命的協同組合論とのあいだにおける論争の中心は、協同組合をそれじたい社会改造の目的たりうるとするか、革命運動の一環としてのみ、協同組合は、そのほんらいの目的である共産社会の実現に到達しうるとするかの論争である。一面からいえば、それは社会発展の経済学的考察のなかへ、道徳的希望をいれようとするオーエンの使徒と、社会発展の法則を、純粋に経済学的に考察し、経済学的考察のなかに道徳的要求や希望をいれることを、観念的、非科学的なりとして排斥するマルクス、エンゲルスの使徒との論争であり、経済学的には、資本主義社会内における協同組合によって排除しうる利潤が、利潤全般におよびうるとする考えと、商業利潤の一部の排除以上におよびえず、利潤全般を排除するためには、プロレタリア革命によって、政治的に資本主義機構を揚棄しなければならないとする者との論争である。
マルクス、エンゲルスの科学的社会主義の見地からみれば、剰余価値は資本主義発展の歴史的過程におけるひとつの必然的現象であり、剰余価値自体としては、着でも悪でもない。それが労働者の手に還元されず、資本家の手に領有されるとき、ここにふたつの相ことなる倫理的判断を生ずる。資本家の倫理観からみれば、労働賃金は労働者と資本家の自由なる契約によって支はらわれているものであるかぎり、当然の経済行為である。それは資本家にとってはただ一個の事実であるにすぎない。
このおなじ行為が、労働者の側からみれば、賃金は、労働者の自由な意志によって契約されるものではなく、それを受諾しなければ失業--餓死におびやかされるから、その脅迫観念のもとに低賃金が受諾されるものである。剰余価値を資本家が領有することは、労働者の搾取なのである。
このふたつのことなる階級的倫理観は合一されることができない。生産手段と配給手段が私的に領有きれている間は、資本と労働は必然的に対立関係にある。だが資本の集積がすすむにしたがって必然的に労働者の数と、その団結とが拡大強化きれていき、ついに労働者の団結の力が資本主義制度を揚棄して、社会主義-共産主義制度を樹立するという状態にいたって、はじめて労働者の側の倫理が全社会的倫理となる。
以上のごときマルクシズムにおける、社会発展の原理に関する見解は、賀川氏のごとく神の普遍的愛にもとずく倫理観を基礎として、社会関係を考察し、社会発展の理想をもとめていこうとしていた者とは、相いれないものがあり、マルクス、エンゲルス等によってオーエンにくわえられたとおなじ性質の批判が、日本のマルキストによって氏にくわえられるようになった。
私は賀川社会事業研究所時代、マルクシズムとの関連において倫理思想の研究をしていた。それは資本主義社会における支配階級が支配の便宜のために民衆に強要する道徳は、真の道徳ではなく、道徳仮象ともよぶべきもので、真の道徳は民衆が社会生活のなかからうみだすものであり、それには一般的発展の法則があり、それはマルクシズムにおいて説かれている社会発展の経済的法則と緊密に照応結合するものである。
その私の協同組合に関する論文のほとんどは、氏によって信頼をもってうけいれられた。氏の家のなかにおりながら、私がキリスト教にたいしてまったく不勉強であったにもかかわらず、このように氏が私の協同組合に関する研究を信頼したのは、たぶん私の倫理に関する思索が、倫理の問題に敏感でありつよい使命感をもっていた賀川氏との人間的接触において、触媒の作用をしていたような気がする。
したがって私は、今日常識的な意味で氏にくわえられている賀川浅薄論(荒正人筆朝日新聞4月25日号「賀川服の思出」)には同調しえないのであり、いわゆる浅薄性は、賀川氏の本質ではなく、超人的多忙さが生んだ不可避な現象であり、生活環境の変化によってことなる現象ともなりうるものであると申しあげたい。
だが、賀川社会事業研究所時代(昭和10年-13年のはじめころ)のマルクシズムとの関連における研究にたいする、賀川氏の知識的慾求は、まさしくどんよくであった。ついに賀川氏自身が、クリスチャン・コンミュニズムをかかげるにおよび、それが後に第二次世界大戦(対米英戦)開戦にあたり、日本の軍がふたたび賀川氏を殺そうとするようになった三つの理由(平和主義者、クリスチャン・コンミュニズム、親米)のひとつとなるのである。これが戦時中は賀川社会事業研究所が最左翼であったと評される内面の事情である。
(三)へ続く

【2010/10/06 14:03】 | アーカイブ
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