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<Mより発信>
引き続き『生協運動』1960年4月号の故賀川会長追悼特集よりのご紹介。こちらのブログでは戸沢仁三郎氏は初登場となる。
(社)家の光協会のデータベースにある「協同組合人物略伝」戸沢仁三郎の項は、山本秋氏が書いている。
【党派をこえた団結のおしえ】日協連顧問 戸沢仁三郎
戦前の私ども関東消費組合連盟の関係者が、そのながい困難ななかで苦労しあったものたちが、ときどきあつまってよもやま話に花を咲かせ、ときには生協の研究などしてたのしんでいる。
さる2月はじめ、例によって旧友30数名がにぎやかにあつまった際、いつも顔をだす私が病気欠席したのをみんなが心配し、私をふくめて、ながく病気中の賀川さんと、それに旧友の勝目テルさんを見まうことの申しあわせをしたそうだ。
賀川さんを自宅に見まった山本秋君の話によれば「賀川さんはよろこんで会ってくれ、すこし詔をしてきたが、あのようすならもうしめたものです」とのことなので、私はかげながら安堵していたところ、わずか1ヵ月半後に逝去の訃報に接し、じつにおどろいたわけで、ただただ痛恨するのみである。
賀川さんは誰も知るようにその生前の活動はすこぶる広汎で、伝道に、反戦平和に、難民救済に、労農運動や協同組合、政治活動やその他なにくれと、全国はもちろんむしろ外国においてその真価を発揮されておられる。私はこの運動の一部面をなす生協関係をつうじ、私どもとの関連においていささか回想をおこなってみようと思う。
やはり第1にあげたいのは終戦直後、いまの日協連の前身である日本協同組合同盟の結成にあたり、賀川さんの偉大な抱擁力と宣伝組織のカが、まさに決定的な役割をはたしたということがいえるこの運動も戦前はご多分にもれず、分裂抗争をやって大きな損をし、おたがいにふかい反省のうえ、統一方向にむけて、長期にわたり努力をかさねあったことが、超党派的単一同盟体を一気につくりあげた要因をなしたとはいえ、大衆がみずからの最高指導者に賀川さんをえらんだことに、今日の成果がえられたわけだと思う。
私が最初に賀川さんを知ったのは労働運動の方面である。大正6年(1917年)ロシヤで労農革命がおこり、翌7年日本では米騒動が勃発し、これが契機ともなって翌8年には日本の労働運動は、労資協調主義から社会主義へと方向転換をした。すなわち同年、運動の主力である友愛会の大会で、関西同盟会の革命的提案が可決されたが、この起草者は賀川豊彦と目されている。そのためか賀川さんや青柿、須々木等神戸連合会代議員の言動はハツラツたるものであったが、この転換で深刻な衝撃をうけたのは協調主義による東京の私たち城東連合会で、そのため私たちは翌9年総同盟友愛会から連決脱退するにいたったのである。
余事だが、この大会席上で賀川さんが自作の労働歌「めざめよ日本の労働者」の歌唱指導をされたが、この歌は当時の労働者に愛唱され、私などのとてもなつかしい歌である。
この大正9年(1920年)という年は、いわゆる資本主義の一般的危機がふかまり、全国的にストライキがはげしく発生したが、その多くが惨敗した。そのうえ物価がたかかったから労働者の生活はひどくおびやかされた。こうした状勢下に労働階級を地盤とした本格的な消費組合が、片山潜等の活動いらい20年の暁闇をやぶって、時期もおなじ11月、東西に組合が設立された。
一は東京で岡本利吉の指導する私どもの共働社であり、一は大阪で賀川豊彦の指導する共益社であり、またこれと前後して川崎造船に基盤をおく神戸消費組合が誕生したが、まもなくこの三者は幾多の大ストライキをむかえて、経営をおびやかされたので、関西側は運動方向を小市民層にむけたのにたいし、東京側は労働組合の支持をえて労働層にむけて発展をはかり、ここに運動のうえでふたつの傾向を生じ、世上では賀川系をロッチデール派と称し、共働社系をモスコウ派などとよんだ。
私はその後、産業組合の問題で賀川さんのたすけをえたこともあるが、それよりもっとも感激をおぼえたのは、日華戦争もいよいよすすみ、私どもにたいする政府の弾圧はろこつとなり、組合解散は必至となってきたので、せめて光輝ある共働社だけでもまもろうと、それには圧迫のない隣接組合との合併がかんがえられた。そのころ関係も好転していた賀川さんを組合長とする江東消費組合に合同を申入れたところ、ひどい合併条件をつけられたので、さすがに共働社の理事たちがおこり、「かくまでなめられたのでは、たとえ玉砕するとも江東とはいっしょにならない」と決議した。
その後、賀川さんから私に単独会見の申しいれがあり、「いま消組運動は君を必要としており、私は君を信用している。たとえ江東の理事や警察がどうでようと、私は君を擁護するし、すすんで弁解にもあたろう。君には合同組合の理事として適当な任務を保証する。だから私といっしょにやろう」と情熱こめて説かれたうえ、「あさって私はアメリカへたって来春3月ごろかえるから、それまでトクとかんがえておいてもらいたい」といわれた。これは賀川さんが、ときの権力に屈せず、また一にも二にも労働者にふかい愛情と、その利益擁護に真剣であることの証拠にほかならない。そのため対立的立場にたつ私たちをも信頼することができたのだが、それにもかかわらず合同の問題は、共働社理事の決意と、江東消費の性格を熟慮したうえで、私たちは話をご破算とした。
あたえられた紙数をすでに越えているが、いままできれいごとばかりならべたてたので、ほうかぶりのうえ、私の数ある失敗のひとつをくわえてみよう。
戦前帝大(今の東大)の東京学生消費組合は、賀川さんや有馬頼寧さん等のカで設立されたものだが、昭和5、6年ころになると組織も大きくなり、同時にスッカリ左傾しだして私どもとの関係が密接となり、もはや賀川さんたちにすなおでなくなってきた。
そのころ総会がもたれ、産組中央会の中心指導者千石興太郎さんと賀川さんが講演することとなった。学消の幹部某君(のち賀川さんの信任をあつめた人)が私のところへとんできて、「千石と賀川が毒ガスをまきにくるから、関消の挨拶にことよせて、二人の主張を粉砕してもらいたい」とたのまれたので、平素ことに千石さんの横暴専断にくるしめられた私は、学消幹部の要請を即座にいれて総会に出席し、両氏の講演のあとをうけて登壇し、鼻ぱしらのつよい二人をならべておいて、ぞんぶんにこれをたたくため、力をこめて反ばくしだしたものだから、学生諸君は大よろこびで拍手、声援をおくるしまつ。おどろいたのは臨席の警官で、わけもわからず私の発言に中止命令をくだしたので、まごまごしてると危険だから、いちはやくうら口からにげかえったものである。しかしこのことはいつまでも後味がわるく、賀川さんにはすまない気もしたが、そのころ賀川さんとても人に知られた反ソ反共の斗士で、ときには人前をはばからず、とんだマトはずれのデマをとばすのだから、これくらいおたがいさまだとも思った。
最後に、私の希望をいえば、賀川さんが日協連の性格としてのこされたとうとい贈りもの、すなわち超党派性こそは、協同組合の精神たる互助協同の基調であり、組合運動の原則として、永久につたえまもられていくことこそ、この道の発展が約束され、これこそ賀川さんの遺志をただしくいかす道であろうと思うことです。
(1960.4.30)

(Mより追記)
せっかくなので、(社)家の光協会のデータベースにある「協同組合人物略伝」のコーナーをリンク一覧に加えておくことにしたい。どうぞ、皆様もご活用ください。

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【2010/10/04 12:58】 | アーカイブ
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