<Mより発信>
引き続き『生協運動』1960年4月号の故賀川会長追悼特集よりのご紹介。
【賀川さんと日本の社会事業】日協連顧問 本位田祥男

賀川さんをはじめて知ったのは賀川さんが神戸消費組合を設立されたころである。だから40年まえである。わたしは書物のなかで知った消費組合運動が、関西で協同の旗をかかげて出発したのをみて、ようやく日本の協同組合運動もほんものになったことを知り、それを処女作である「消費組合運動」のなかにも紹介した。こんど「日本の協同組合運動」をまとめる際には、あらゆる協同組合運動のなかに賀川さんの足跡の大きいことをみて、いまさらながら大衆運動のなかでも、一人の人間の貢献にまつところの大きいことを実感した。
賀川さんが直接手がけられた灘生協、神戸生協、東大生協、東京医療生協等が日本の生協運動の先途にたっているのはもちろん、信用組合運動のなかでは、中の郷質庫信用組合が特異な存在となっている。農協運動では産業組合時代から農林省の指導がつよかったために、賀川さんが直接指導されたことはすくなかったようであるが、今日共済事業があれほど発展しているのは賀川さんの創意によるところが大きかった。組合保険は大正時代からの賀川さんの主張であった。戦後もあたらしい協同組合法に保険事業をみとめることを主張されたが、やっと共済事業がみとめられ、その一として実質的な火災保険や生命保険がまず農協のなかに発展し、やがて生協や中小企業協同組合のなかでもおこなわれるようになったのである。
賀川さんは、労働組合運動や農民組合遊動にも貢献された。日本で最初の大争議とされている川崎造船所のストライキに際しては、示威運動の先途にたっていた。社会党の結成についても賀川さんは貢献された。みずから政治にたずさわることを欲しられなかったので、単に顧問にとどまったが、舞台裏における役割は大きかったのではないかと思われる。病床につかれてから社会党はあのような分裂となったが、さぞ心を痛められたことと想像される。
あれほどひろい思想体系をもち、社会のあらゆるうごきに目をそそいでいられた人が、宗教運動とともに、これほど社会的にもひろく動かれたことはとうぜんである。しかし多くの社会運動のなかで責任ある地位につかれたのは協同組合だけであったことは興味のふかい事実である。今日でも日本生協連合会の会長をはじめ、東京医療生協、松沢生協、中の郷質庫信用組合の組合長であり、戦前にもいろいろな組合長となっていられた。これは宗教運動、友愛運動を基調とされた賀川さんの思想に、協同組合運動がいちばんぴったりとしているからではなかろうか。

賀川さんについて憶いでが多く新聞にでたが、ほとんどいちように賀川さんは日本よりも外国で評価のたかかったことをのべている。わたしもアメリカにいった時とくにそれをつよく感じた。伝道における賀川さんの活動はわたしには評価できないし、あるいはその方面におけるアメリカの活動がめざましかったのかと思っていたら、社会運動家としてもたかく評価されているのである。19世紀においてはアメリカでは協同組合は微々たるものであった。ことに消費組合運動には砂漠であるとさえいわれていた。そこへ賀川さんがでかけて協同組合運動の宣伝をされ、多くの人々の共感をえて協同組合が処々に設立され、今日では巨大な組合ができあがっている。アメリカの協同組合運動史にはかならず賀川さんの貢献がのべられるだろう。
もちろん、その時聞からみても賀川さんの気持のうえでも日本における運動は米国における以上であった。その成果のあがっていることもたしかであるが、日本における評価が外国ほどでなかったのはなぜであろうか。ひとつは賀川さんの宗教家としての映像があまりに大きいために、社会運動としてそれについていけなかったためであろう。アメリカのように思想的にも日常の規律においてもクリスト教の普及しているところでは賀川さんにぴったりとついていけたが、日本ではきわめて熱心な信徒をえるいっぽうで多くの人々を躊躇させたこともあったろう。
しかし賀川さんは、けっして宗教を他人に強いたのではない。社会運動では、その背後の根拠は宗教であるとなしとをとわず、いわんやいかなる宗教であるかをとわず、友愛を指導原理としてこそ人人に訴えたのである。ところで日本ではこの友愛の理想をかかげてすすむことをよろこばぬ傾向が社会運動の中にある。それが階級斗争の障害になるというのである。労働者階級が権力をにぎるまではあらゆる運動を斗争に合目的でなければならぬとする。そうした考えかたにたいしては賀川さんは反対であった。その思想と運動方針の対立が賀川さんにたいする日本の社会運動の評価をひくくしたのではないかと思われる。
考えかたはどんなにちがっても賀川さんのたかい人格にたいしては尊敬をはらわざるをえなかった。それが賀川さんを日本の生協運動の指導者とし、ここまで発展してきたのであろうが、その昇天が日本の協同組合運動の横道にそれる契機にならないよう切望する。むしろ一粒の麦の死によって百倍の実がなるように、賀川さんの貢献を省察することによって、その理想主義が日本の協同組合運動のなかで、ますますもえあがることを切望する。
以上
(Mより追記)
検索欄に本位田祥男氏の名前を入れて探しても、これまではあまり登場していただいていない。これからおいおいご紹介していくことになると思われる。
今回は、国民生活センター編『戦後消費者運動史』から戦後の生協の動向と生協法制定関係の情報の記事で、GHQとのやりとりの中で東大教授だった本位田祥男が斡旋してくれたという言及がある。その記事をこちらにリンクしておく。
戦後の生協の動向と生協法制定関係の情報(その2)

【2010/09/27 18:38】 | アーカイブ
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