<Mより発信>
引き続き『生協運動』1960年4月号の故賀川会長追悼特集よりのご紹介。
【愛の使徒を憶う】福島県連会長 関誠一
“彼、死ぬれども信仰によりていまなお語る”
大正13年といえば、37年の昔になりますが、そのころ「死線を越えて」「一粒の麦」「太陽を射る者」などが世にでて青年の心に希望と躍動をあたえておりました。神の国運動の大講演会に出席し、その痛快なる熱弁に心うごかされ、ついに基督者となりました。対座すれば慈父のごとく「世界中の人々がみんな2枚以上のきる物をもつまで神と人との前に奉仕者となりなさい」。資本主義の矛盾のなかに生活する労働者の労苦をさとりながら、記念にとかいてもらったのが「一枚の衣の使徒たれ」の9字でありました。おもえばこの一書こそ、私の一生涯を汝定ずけたものといえましよう。私は今日まで賀川服とツメえりの服しか着たこともなく、もってもいない。ソ連や中国そのほかヨーロッパ各地を旅行したときも、この服でとおしてきたが、これは奢侈とゼイタクにおぼれないように私みずからのよわい心を叱陀する記念であります。
大正14年に、商業学校を卒業すると、そのままなんのためらいもなく社会運動の道にすすんでいきました。戦前のこの道は、苦斗の道でありました。うまれてはじめて留置場(ぶたばこ)になげいれられたとき、日常尊敬していた先輩の指導者もいっしょでした。拷問をうけながら、拘留29日ずつのタライまわしが何ヵ月もつずくのですが、その苦労にたえかねるまえにこの指導者は煙草がほしくなり悲鳴をあげるようになったのです。
けいべつしていた看守に、手をあわせてすわせてもらっているかなしい姿をながめ、わるい習癖の恐怖をさとり、一生悪習の奴隷になるまいと決心しました。今日まで洒、煙草、麻雀等は一度もやったことがない。これはほこりうる何事でもありませんが、先生は人ほど誘惑にもろい者はない、社会運動者として生きるならば、つねに清廉潔白な生活をして、欲望をすてなければ、その志はなかばにして挫折するであろう、とおしえられていました。その実態のなんたるものであるか、このときそこで理解がついたからであります。
農民組合、労働組合、生協運動、労金、共済事業と37年の道をあゆみつずけてきた。そしてのこる生涯もまたこの道をすすまねばならないが、くすしくも、私の人生はこのようにして展開されていったのです。妻の場合も、私とおなじような経験をたどってきました。それは、昭和3年12月のはじめの土曜日の午前中「死線を越えて」の著者が「百万人救霊運動」のためにこられたのを女学校にむかえての講演会でありました。夜の公会堂の大伝道会、教会の早天祈祷会とつずいたが、それいらい教会生活にはいり、翌年の復活節には洗礼をうけ「神と人との奉仕者になる」と決心がつきました。昭和12年幼稚園を設立、現在園児300名、先生12人の幼稚園にそだっているが、3年まえ、先生をおむかえしたときほほえみをたたえながら「幼椎園は園と書きますよ。花咲き、樹木しげり、小鳥うたうという雰囲気になるように」と私どものおもいではつきない。生協の応接間には「献身犠牲」、幼稚園には「神は愛なり」と先生の書がかかげてあります。
病まねばならぬ日に
愛に私の身を委せる
死なねばならぬ日に
愛に私の魂を供托する
愛は私の最後の征服者であり
愛は私の奴隷である
愛のあるところ神があり
愛は私のいっさいである……
と神の愛を宣言した日本の聖者は「神、汝とともに活くべし」と御前にめされました。「キリスト、汝のために死にたまえり、これによりて愛ということを知りたり“汝もまた同胞のために生命をすつべきなり”」
「我と我家はエホバにつかえん」追憶のうちにいっさいの栄光を神に帰すものであります。
以上
(Mより追記)
関誠一氏についても、これまで何度かご紹介している。検索欄に名前を入れると該当記事のリストが出てくるが、昭和初期の福島消費組合の状況の中でふれた記事をこちらにリンクしておく。
昭和初期の福島消費と各地の状況

【2010/09/22 18:51】 | アーカイブ
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