<Mより発信>
引き続き『生協運動』1960年4月号の故賀川会長追悼特集よりのご紹介。田中俊介氏の追悼文は、先にご紹介した「弔辞」とは別に掲載されている。
【賀川先生の思いで】日協連副会長・灘生協組合長 田中俊介
賀川先生にはじめて、お目にかかったのは、いまから40年まえ大正9年の暮れでした。那須さんのお供をして神戸日暮通の事務所におたずねすると、羊かん色の木綿紋つきの羽織を着た先生がでてこられ、「那須さん、これからは協同組合ですよ。慈善事業の時代じゃありません。世のなかを根本的に改善してゆくのは、協同組合にかぎりますよ。」
この一言が、那須さんを灘購買組合創立にふみきらせ、私を一生生協に釘ずけにしてしまったのです。
「貧民窟をお目にかけましょう」
と、汚臭のただよう、どぶ板をこえて、棟割長屋にはいると、あっちからも、こっちからも子供がでてきます。鼻たれ小僧のひとりひとりの頭をなでて、声をかけ、かけられた子供はうれしそうにまつわります。えらい人だなとおもいました。
そんななかにも勉強をおこたられませんでした。事務所の壁一面が本棚で、洋書がぎっしりつまっていました。
その時分、先生は神戸に、大阪に協同組合の思想普及のために、東奔西走されていました。
しかし、生協(当時は消費組合といいました)をやりだしでみると困難は続出、なかなかうまくゆきません。
先生が一番最初つくられた大阪の共益社は、はじめは西尾末広氏等の労働者、宮川経輝氏などのキリスト者が中心でしたが、商売の本場の大阪船場では、経営はしだいに左前になり、専務はつぎつぎ人がかわりました。池田愛三氏が専務時代、侮日のくるしさがつもりつもって、剛毅の池田氏も寝こんでしまい、にっちもさっちもゆかなくなりました。そのとき、池田氏をねんごろにみまい、「温泉で療養したまえ」と費用をあたえて元気ずけられました。
つぎの専務、間所兼次氏の時代は、統制経済にはいって、苦労がかさなり、胸の病気となり、ついにたおれてしまいました。
その葬式のとき、先生が式辞をいわれることになっていましたが、声がつまってしまい、ききとれませんでした。会衆はみんないっしょになきました。
私も統制経済時代に失敗して、非難ごうごう、四面楚歌の声です。失望落胆して、とうとうねこんでしまった。そのとき先生はひょっこりたずねてきて、紙と硯をださせて「たおさるるに似て、みよ生くるもの、憂ふるに似てつねによろこび・・・・・・」とはげましの句を書かれました。いまもそれを額にしてかかげ、朝夕、先生をしのんでいます。
先生は世界的の人物です。シュバイツァーか、ガンヂーか、日本の賀川かと、称せられています。活動の範囲は基督教の伝道をはじめ、社会運動のあらゆる面において第一線の先頭をきり、多忙をきわめられましたが、繁忙の一面、たたかいにやぶれたもの「きずついたものを、愛の胸にだきしめることをわすれませんでした。先生の多彩な社会運動もその根本はことごとく愛の心から発したものであることをみるとき、いまさら先生にたいする尊敬と敬慕の念にくれるものです。
日本の生協運動は、過去において幾多の波乱をかさね、思想的にも左右あらゆる階層をふくみ、議論百出、すさまじいものがありましたが、今日まで日協連としてまとまりつずけ、他の社会運動のごとく分裂することなく、結束することができたのは、先生のあたたかい人格、ひろい抱擁力によるところが、いかに大きいかをおぼえます。
先生の志望された愛による協同社会を、実現することが、こんご私どもにせおわされた責任であるとおもいます。
以上
(Mより追記)
田中俊介氏については、いろいろな記事でご紹介している。検索欄に名前を入れると該当記事のリストが出てくるが、灘購買組合設立のエピソードにふれた記事をこちらにリンクしておく。
1988年の嶋根善太郎氏の連載「賀川豊彦生誕100年によせて」紹介(3)

【2010/09/06 23:04】 | アーカイブ
トラックバック(0) |
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿
URL:

Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 


トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック