<Mより発信>
『生協運動』1960年4月号=故賀川会長追悼特集号の概要の紹介をしたが、そちらから、まずは中林専務の追悼文の紹介から始める。
【平和への理想のほのおもやし賀川会長をおくる】日協連専務理事 中林 貞男
われわれの偉大な会長賀川豊彦氏は、4月23日午後9時13分、ついに永眠した。71年の会長の生涯は、神と人間への奉仕の生涯であった。明治42年、神戸市新川町のスラム街にとびこんで、20代の青年期をキリスト教の伝道と社会奉仕にささげ、小説「死線を越えて」をものにしたことは、あまりにも有名な話であるが、この時期に人間賀川の基礎がつくられたともいえる。その説かれるところは、つねに愛の精神にもとずく助けあいの思想であり、協同の精神であった。したがってその立場から、先生は日本の労働組合運動や農民運動などの創成期には大きな影響力をもっておられたばかりではなく、大正年代につくられた生括協同組合には、神戸、灘、共益社をはじめ直接、間接にその影響をうけたものがひじょうにおおかったのである。ことに偉大だったことは、先生の講演や説教をきいて、生涯をおなじ道にささげる青年が続出したことであった。そして先生はいつも人の養成を説かれ、とくに人格ということを強調されたのであった。一粒の麦おちなば・・・・・・と。
今次終戦後、全国の同志によびかけ、本連合会の前身日本協同組合同盟を設立されたのも、荒廃した祖国を大衆みずからの助けあいの運動によってすくおうと考えられたからであった。そして同盟の創立費としてみずから百万円を投じられたのであった。また、国会や政府関係へ協同組合の重要性を説いたり、生協法立法にあたっては、すすんでその陳情の先頭にたたれたのである。最近の反生協立法の際もまたしかりであった。したがって日本の生協運動が今日ここまでくるにあたっては、物心両面にて、じつに先生に負うところが大きいのである。いな、分裂抗争のはげしいなかにあって、ただ生協運動だけが、日協連を中心に統一をまもり発展をつずけてきたことは、まったく先生の教訓と人格によるものといわなければならない。会長はよく大勢の人の意見を聞け、とくに若い人の意見には耳をかたむけなければならないといっておられた。総会の時など私の横で「執行部は寛容でなければならない、われわれにとっては団結がなにより大切なのだ」といっておられた。こんどの社会党の分裂についても、病床でひじょうになげいておられたのであった。会長が晩年、生命共済のことを強調されたのも、労働者や農民の団結の基礎としてであった。とにかく先生は日協連の統一と団結の支柱であり、運動のシンボルであった。会長はつねに「開拓者はおもい荷物をせおわなければならないものだよ」と、われわれ後輩をさとしておられた。
しかし会長についてわすれてならないことは、先生は平和を愛し、戦争をにくんでいられたことであった。第一次大戦中に反戦論者として憲兵隊に抑留されたこと、ルーズベルトとの間で、和平工作をされたことは皆の熟知のことであるが、このころでもいつも先生は平和のためならどんな困難があってもたたかおうと決意をかたっておられた。先生が平和憲法をまもり、原水爆の実験につよく反対しておられたのもそのためであり、みずからアメリカの原水爆実験について国際司法裁判所へ訴えをおこしておられたくらいであった。日協連の平和への主張はこの先生の理想にもとずくものであり、国際情勢の重大な今日の段階において先生をうしなうことは、われわれにとってばかりではなく、全人類の損失といわなければならない。先生は協同組合運動こそ世界平和の基底であると主張され、これは現在国際協同組合運動に大きな影響をあたえているのである。先生の協同組合運動における影響力は、日本ばかりではなく全世界的で、アメリカの協同組合は先生によってつくられたともいわれている。
先生は年中、どこへいかれる時も、いつもおなじ真黒の背広と黒の中折をかぶっておられた。いつか私がそれをたずねたら、俺もみんながうまいものを食べ、たくさん着物をもてるようになったらそうするよ、としずかにいわれたのであった。それまでは自分は粗衣粗食に甘んずるというのが先生の信念であった。誰にたいしても、にっこりわらった慈愛ぶかい握手をさしのべられる賀川さん・・・・・・。われわれの胸には永久に会長の思想と教訓がのこるであろう。会長の霊よ、やすらかにねむれ!われわれは世界平和への先生の理想を体し、日協連の旗をまもりつずける。
以上

【2010/09/03 12:59】 | アーカイブ
トラックバック(0) |
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿
URL:

Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 


トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック