<Mより発信>
木下保雄専務理事(1954~69在職中に逝去)については、検索欄で名前を入れてみていただくとわかる通り、何度もご紹介している。元常務理事の岡本好広氏が『協同組合人物略伝』にも書かれている。
昨日から連続して紹介を始めた1960年4月号の賀川会長追悼特集から2ヶ月ずれて、6月号で木下専務の追悼文を掲載している。また、木下専務が遺された1950年代から60年代の機関会議等の資料(=「木下資料」と呼んでいる)の中に、賀川会長直伝の二重文字も見つけてあるので、合わせて以下でご紹介しておく。
1961木下保雄氏の賀川直伝二重文字署名.jpg
【賀川先生のこといくつか】日協連専務理事 木下 保雄
いまは亡い賀川先生の想い出をしたためるということは、私にとってやはり心いたむ業である。けれどもそのことによって、先生の教訓がいっそう心につよくやきつくおもいでもあるので、この、復習するつもりでかきつずっでみることにした。
運動者の廉潔
先生の教訓で、私の心にいちばんつよくやきついているのは、「およそ人間は、ことに協同組合運動をする人間は、れん潔であらねばならない」というお話である。この種のお話は賀川先生からばかりでなく、私は藤田先生からも、木立先生からもとうぜんきいたことのあるお話である。けれども、賀川先生のそれには一種独得の風格があった。たとえば藤田先生の場合にはまったく理づめである。「生協のような物と金とをとりあつかう事業のなかでは、れん潔をもっともとうとしとする。理事者たるものは、つねに、事前に、職員が誘惑におちいらないような事務体制を整備しておく責任がある」といわれた。木立先生の場合は、「なんと申しましょうか、李園の冠、瓜田の履で・・・・・・」というふうに、いつもほんのりとしている。
ところが賀川先生はそのものズバリといういいかたで、「昨年だけで農協関係で警察の厄介になったものが一万何千人にのぼる。はずかしいことだ。一万何千人一列になってならんでみい。ここからどこまでとどく!」というぐあいであった。私が賀川先生と藤田先生とに師事した年月からいうと、ほぼおなじであるが、青年時代は藤田先生のもとにいたから、先生の身ぢかにいた時間という点では、なんといっても藤田先生の方がながかったので、まえに書いたようなお話はなんども藤田先生からうかがったはずである。それだのに賀川先生のズバリといわれた一言の方が私にとっては印象がふかい。同じことでもいちばんピンときたというわけは、大説教者賀川先生というところにあったのであろう。
縦の協同と横の協同
賀川先生が、生命共済にはやく着手せよとさけんでおられたことは、だれもがおぼえている。日協連の総会といわず、理事会といわず、ときにはまったく無関係な、われわれからすればおもいもよらない場で、とつぜん「生命共済!」とさけばれたこともしばしばあった。われわれもなんとか先生のいわれるようにはやくすすめたいとおもいながら、なかなか生命共済にはかかれない。まず火災共済から着手しましたといったところ、火災共済もいいけれども、一年掛の共済ていどではだめだとしかられたことをおぼえている。その場合の先生の立論はふたつの点にあった。ひとつは協同の精神の問題、他は組合運営の問題であった。前者はつまり今日の生協運動は、供給事業にせよ、利用事業にせよ、日常的、現在的な面での協同活動であって、いわば横の協同であり、平面的な協同である。けれども共済事業は、今日から将来をみこして、危険を協同してまもろうとする活動であるから、縦の協同であり、立体的な協同であるともいえる。今日の協同組合運動着には協同の精神がまだよくわかっていない。わかったとしてもせいぜい横の協同、平面的な協同しかわからない。それではダメだ。将来にむかっての協同、縦の協同を理解し、縦、横の協同運動をもってはじめて自衛できると心えねばならない、と力説された。このお話を私はなんどかきいたが、松沢生協創立のための集会でのお話が私にとっては最初であったので、そのときのことが印象的である。
後者の経営問題に関するお話も、やはり協同の精神につらなるものであるが、つまり一年掛すてぐらいのことでは、長期資金にならない。生命共済で長期資金を蓄積し、生協の生産事業をおこせ、というのが先生の説で、長期間の協同活動ができるようにならなければ、ダメだという点を説かれたのであった。生命共済の問題については、日協連は賀川先生からまったく大きな借金をしている(本物の借金もあるがそれとはべつに)いう気持でいたが、昨今ようやく労済連で生命共済に着手してもらえるようになって、わずかに申しわけがたつような気持である。先生は戦前具体的に一、二の保険会社を産業組合で買収して、産組で生命保険をやろうとくわだてられたことがある。そのときは、新聞紙上でも大問題となって、結局、生保の圧力でつぶされた。その記憶があるだけに、せめてもの申しわけという印象は私にとってふかいのである。大先覚者賀川先生についてゆくということはなかなかむずかしいことであった。
大先覚者といえば、こんな話がある。これも戦前、先生が江東消費組合の組合長であられた時分、外国から帰朝された先生を消費組合の人たちが横浜にでむかえにいったときのこと、おかえりなさいといったとたんに、先生の第一声は、「君!江東消費も船をもたねばなりませんね」であったそうだ。皆はポカンとしたが、先生の船といわれた事はランチ(注記1)のことで、江東の水域をランチで配給しようという意味であったそうだ。ランチときいてからでもそのときは返事の言葉がでてこなかったそうだが、その話を私が聞いたのはズッと後になってからのことで、江東消費出身の酒井尚一君からである。
ちょうど昭和16年、同君と二人で東京府市街地購買組合連合会の主事をつとめており、おりから戦争突入直前で民需の運搬関係がにっちもさっちもいかなくなり、江東には船でもっていこうかという話をしているときのことであった。船が必要な世のなかがあとからやってきたのである。
尻ぬぐいの精神
賀川先生ほど、他人の尻ぬぐいをおおくなさった方もすくないであろう。日協同盟をはじめとし、生協のなかにもずいぶんぬぐっていただいたむきもあるので、まったく恐縮のかぎりである。しかしそのことはひとまずべつとして、先生はわれわれに、尻ぬぐいの精神を身をもっておしえてくださったとおもう。ぬぐってもらうことはどこまでもよくないことであるが、協同の精神の窮極は、他人の尻ぬぐいもよろこんでするというハラがまえにあることをしめされたものといえよう。世のなかには『正直者が損をする』という考えかたもあるが、およそこれとはかけはなれた考えかたであることを銘記したい。
日協連自身が、金銭的に先生のお世話になったこともわすれてはならない事柄である。それは日協同盟設立のときであるが、それあってはじめて今日の日協連が誕生したのである。あの当時の百万円を先生はつくってくださった。当時同盟はこれを返済できなかったので、先生が元利を返済していてくださったのである。原稿をかいてはかえしているのだよ、と先生はよくいわれた。当時はまさにぬぐわせた張本人であった。日協連になってからもしばしばお世話になった。一部はおかえしもしたが、まだ長期借入金になっている。先生の御存命中におかえしできなかったことを申しわけなくおもっている。
そこはかのこと
先生が講演のときに、墨こんあざやかに字や画をかかれたことは誰もが知っている。私がいつか皿に墨汁を小わけして用意をしたら墨汁をいれるのは灰皿がいちばんいいよ、といわれた。なかがふかくくぼんで、筆やすめもついているとのことだ。あの煙草ぎらいの先生が、灰皿は別途有用とされたので、そのときのことがわすれられない。講演のときに先生の書かれる地図がまた一種独得の地図であるが、概念をつかむのにはまことによかった。いつだったか本位田先生から、賀川先生のライファイゼンのお話はすこし記録とちがっているから申しあげなさい、という御注意をいただいた。私は考えたが、先生の地図をおもいだして、結局なにも申しあげなかった。
先生が議事運営のしかたについてやかましくいわれたことも記憶にあらたなところである。先生は議長はたいへんお上手であった。第一読会、第二読会(注記2)を心えぬからこまるといって、大声で叱咤されたこともあるし、また賛成、反対をじゅうぶんに発言させようとしてきわめてしんぼうずよく議事をはこばれたこともある。この点もおしえられるところが多かった。
先生が一筆で二重文字を上手に書かれたことを知っている人はあまり多くないとおもう。先生は原稿を書かれたときに、その題字はいつもペンで二重文字をスルスルと書かれた。なぜそうなきるのですかときいたところ、ほそいペンで大きな字を書くときにはこれにかぎる、これは見やすいよといわれた。
以後私もこれをまねてよくいたずら書をするようになったが、もとは先生からおそわったものである。
私個人として先生にいちばん感謝しているのは、私が病気のとき先生におみまいをうけたことである。戦争が苛烈になってくる直前のことであった。私は全国消費組合協会の役員の一人だったが、当時しばらくの間閉西地方に出張していて、神戸市の配給機構調整の場で、購買組合の立場を主張していたことがある。そのときデング熱という一種のカゼが流行して、私もとうとうそれにかかって当時神戸生協の専務であった中山日吉さんのお宅で寝こんでいた。そのとき、とつぜん賀川先生が私をみまってくださって、いつものやわらかい手で私の手をにぎり、元気ずけてくださった。先生のとてもいそがしい日程のなかでのことだった。私はあのときのことをふかく感謝していつもわすれることができない。先生のふかい愛情は、私自身いつもうけておりながら、あのときのことをいちばんつよく感じているというわけは、凡人の凡人たるゆえんであろうか。戦後になって私が関西本部の仕事で関西地方に滞在しているあいだに、先生はたびたびおいでになった。けれどもそのころはすでに先生はかなりよわくなっておられたので、私は階段の昇降などのおり、すすんで先生のお手をとった。そのたびに先生は不必要といわれたけれども、先生の腕をとりながら私はいつもデング熱のときの先生の手をおもいだしていた。けれどもそのたびごとに、「かるきに泣きて三歩あゆまず」といった気持でいっぱいであったこともわすれられない。そのころのことだ。先生は一時よりもよほどおよわりになっている。先生は国内的にも国際的にもかけがえのない人だ。永いきしていただかねばならない。先生をあまり酷使しないようにしようじゃないか、と私は皆にうったえた。
実際にそのころでも、先生は伝道のために、たのまれるとひとりでトコトコおいでになることがあった。いつだったか、大阪の郊外のミッションスクールにおいでになる予定で、先方の方が協同組合の集会のあった場所にやってきて、先生に道筋をお教えしていた。どこどこでのりかえて下さい、というふうに。そこで私は、口をいれるのもどうかとおもいながら、「あなたおむかえにきてくださいよ」とごういんにたのんだ。ところが先生が「いいよいいよ」とおっしゃる。私はそれ以上どうにもしようのなかったことをおぼえている。先生を酷使しないことでは、だれもが賛成してくれたが、たったひとり反対の人がある。それが先生御自身なのである。必要以上にかまってくれるなとおっしゃる。結局この先生の言葉にあまえて先生を酷使してしまった結果になったことがくやまれてならない。申しわけないことであったとおもっている。けれども「かまってくれるな」とおっしゃるところが賀川先生の賀川先生たるところであったとおもわれる。
以上
(Mより追記)
①(注記1)ランチは「launch」で、港湾内での連絡や人・荷物の輸送などに使われる、快速で機動性のある舟艇のこと。江東消費組合の配給事業に船を活用しようということのようだ。
②(注記2)読会制についてはこちらを参照のこと
③下の写真は、賀川会長直伝の木下氏の二重文字の2例目。1961年10月24日の日付が下にあった。
1961木下保雄氏の賀川直伝二重文字例(61.10.24付).jpg

【2010/09/02 18:47】 | アーカイブ
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