<Mより発信>
【連載第6回】:江東消費組合のこと
賀川豊彦は関東大震災の報を神戸で聞いて、新川イエス団の協力者木立義道、馬場們医師とともに上京し、本所区松倉町横川小学校前(現在東駒形四丁目)にテントを張って救援事業を始めました。医療、宿泊、給食、託児、人事相談等応急的な仕事が中心でしたが、賀川はこれを本所キリスト教産業青年会と称する。セツルメントをつくって継続させ、その経営を木立義道に託しました。木立は社会事業が財政的に行き詰まることが多かったことと、勤労者の啓発と近隣地域の改善向上を図る運動を指向して生活協同組合組織によりこの活動を継続し確立することとしました。これが江東消費組合設立の動機の一つでした。(大正15年8月)

「協同組合運動は意識的経済活動である。すなわち組合員の一人一人が搾取と専制を離れた協同扶助の互助愛を意識しなければ持続することが出来ない、互助運動は即ち精神運動である」というのが賀川の協同組合についての信念でした。そこで江東消費は創立期からかなり厳密にロッチテール原則を追求し、「現金売り」「市価主義」を励行するとともに「利用高の配当」に努力しました。そのため創業期の急機を突破してからは比較的順詞に発展し、最盛期の昭和18年末には組合員数9,495名、出資金285,030円、供給高1,810,745円、職員数も200名に及び、本格的な経営の基礎も出来上がり、山の手の家庭購買会とともに、東京の市民生協を代表するところまで到達したところで戦争により根底からくつがえされてしまいました。

この組合の事業の一つに「栄養食配給事業」(給食)がありました。これは中小工場に働く労働者の体力向上や、学童の弁当の栄養問題を改善すること、また生活様式を簡素化、能率化する意味で厚生省も積極的に評価し、最盛期には4ヶ所の配給所から一日約2万食を供給する盛況を呈しました。

前述の本所キリスト教産業青年会のセツルメント活動のなかで、「金融問題」に関する相談が最も多く、労働者の金融についての知識の欠如が、如何に高利貸の乗ずるところになっているかを見るに及び、これが救済策としても信用組合の必要性が痛感されるようになりました。しかし実際には物的担保力の弱い勤労者に対する金融は非常に難しく、いろいろ検討した結果、質貸付をとりいれた信用組合を作ることになりました。
これが中ノ郷質庫信用組合(現在の中の郷信用組合)で、その支店の一つが葛飾区立石にあります。現在の各地の労働金庫はこの思想を発展させたものといえましょう。

こうした下町のユニークな市民組合江東消費組合でしたが、戦時統制経済、戦災、戦後の経済混乱をついに乗り切れず、昭和26年に解散することとなりました。施設は前述の4ヶ所の栄養食配給所のほか、4ヶ所の店舗を持ち、小岩店(第三店舗)以外はすべて昭和20年3月10日の東京大空襲により焼失しました。

→以下、第7回に続く。


【2010/04/21 00:52】 | アーカイブ
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