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20180127土曜講座で講演する有田芳子さん.jpg
<Mより発信>
 2017年度の「日本生協連資料室 土曜講座」の第4回の受講報告の記事アップが遅くなりました。少し長くなりますが、まとめて掲載します。冒頭の写真は講師の有田芳子さんです。
「協同組合における参加型民主主義-組合員参加の再生をめざして-」
講師:有田芳子氏(元エフコープ理事、元コープかながわ常任理事、元ユーコープ事業連合理事、元日本生協連中央地連環境委員会委員、元日本生協連全国組合員商品委員(第1期)、現・主婦連合会会長)

講演概要(講演のメモと参考資料から作成)
(1)小さなときから社会的関心が高く・・・、カネミ油症事件や森永ヒ素ミルク事件、水俣病などに関心があり、高校のときに社会問題研究会をつくり、受験の時期でも「ベ平連」の運動にも関わっていた。消費者の権利意識は、小学校4年生の冬休みの宿題に書道が有り、正100枚と表示されている袋入りの書道半紙を10袋購入し、本当に100枚入っているのかが気になり、全ての袋の半紙を数えたところ、全て90枚しか入っていなかったという体験から。新聞を読むことが好きで、主婦連合会も早くから知っていた。社会的なことに非常に関心があったが、疑問も持たずに他を排除するような思想を押し付けられるのはすごく嫌で、どこかの組織に関わるという事はなかった。
(2)私の参加型民主主義
●加入動機:1979年に北九州市民生協に加入(現エフコープ生協)。コープ商品も欲しいけれど、北九州市民生協とナチュラルコープのどちらかに加入しようかと考えた時に、北九州市民生協がカネミ油症患者を支援していたから。堅苦しいところで押し付けられるのは嫌で、生協だったら楽しく地域の問題や社会問題解決に取り組む事に使えるというような感覚だった。1980年に班長会議の自己紹介で「生協だからと言って盲目的に信じるのは違う。チェックする必要があると考えている」と言って目を付けられ委員長をお願いされた。
●1984年 戸畑西店をつくる会の会長:新日鉄(旧八幡製鉄所)の鉄冷えと高齢者が多い戸畑にお店が欲しいと3000人ぐらいの署名を集めて理事会に届けて実現。職員から頼まれたわけではなく商店街の組合長に懇談を申し込み地域活性化で協力しようと合意形成。店の2階の300人ぐらい入るホールを4つに仕切れるようにしてサークル活動も講師依頼からして47でスタート。神奈川の店舗政策を学んでいたようで1号店、2号店は開店すると周囲の共同購入班を解散して店舗委員会への変更をさせていた。開店を前に店舗委員会委員長として相談があり、共同購入とお店は両立する、班の解散を無理にすると組合員の利用や所属意識が薄れるのではないかと提案し、受け入れられ共同購入の配送も残った。近隣の市立保育園や知的障害者通所施設との交流。今でもその店の売り上げ成績は良い。
●1986年~1988年エフコープの北九州東ブロックの理事:バレーボール、パットゴルフ、ボーリング大会などでも楽しく集い、そのつながりで大切なことを学び伝える運動=売り上げ税(のち消費税)反対の学習会、平和まつりなど。
●1988年7月 神奈川に転居:この年に神奈川生協は総代会が2回流れた。9月の班長会議で総代会の報告が何もないので質問(前の生協で理事をしていたことは言わないで活動に参加)→1989年1月共同購入の行政区委員(消費税担当、商品担当)。声がかかって本部の政策チームにも参加。各地域が活発な活動展開をおこない、地元の他の協同組合の方たちと一緒に様々なネットワーク運動を展開。
●参加型民主主義が花開いた90年代:①茅ヶ崎辻堂にある松下政経塾の塾生だった山井和則さん(現衆議院議員)を行政区の連続講座にお呼びして北欧の福祉について学ぶ→その後、全国消費者大会福祉分科会や、各地の生協で講演していただくご縁。②古着回収の運動「ファイバーリサイクルネットワーク」茅ケ崎地区の立ち上げに参加。③協同組合間提携の本部提案がなかったので茅ケ崎JA理事長と面談してJAの畑を借りて無農薬野菜の実験栽培。その後、県生協連で協同組合間提携、7つの地区で農協、漁協と商品開発。福祉や環境でも提携したが、立ち消えになっていた→今年また再開の模様。④生活クラブ生協のリーダーとも相談しPTA運営の民主化。校長の理解のもと古着の回収拠点や大気汚染測定カプセルの測定地点としても協力を得る。通学区の公園も犯罪の起きにくい明るい公園にさせた。⑤国際共同プロジェクトでいらしたカナダの生協関係者やスウェーデンの研究者を組合員が手作りでおもてなし。1989年、1990年当時、共同購入班に集会のお知らせが直接入り、商品配達時に職員に申し込めば一組合員に参加登録書が来て一組合員が行きますと言えば交通費が届くような「あご あし付き」で支払われて当然と言う感覚とその結果は心配だった。当時は財政も豊かで自己資本比率も高かったのでできたと思われるし、それも参加型民主主義の一つの表れだったのかなと思う。
●1994年6月 コープかながわの湘南地区理事:地区担当の他に家計簿と環境分野を担当し環境分野や家計簿分野に関しては地区だけでなく全県に責任を持ち、県連や中央地連にも関わっていた。
●1995年6月総代会荒れる:総代から理事長や専務に対し厳しい意見が噴出(ゴルフ会員権問題、コープの経費で語学短期留学等)し→改選年ではないが理事長、専務は権限剥奪。
●1995年9月ICAマンチェスター大会プレ企画の国際共同プロジェクトシンポジウム:分科会に参加して福祉分野の組合員活動についての報告。プロジェクトの「協同組合運動における参加型民主主義」の大会での報告は参加した理事長ではなく事業連合国際部の職員が報告。
●1996年~2000年 コープかながわ常任理事: 組織改善のために本部に来てほしいと言う常勤からの要請で熟慮の結果、常任理事を引き受けた。分野では商品や環境を担当(当時環境推進室室長だった中野邦夫氏、全国組合員商品委員会事務局の三崎から依頼の環境や商品アンケート調査などに協力。家計簿担当だった亀田さん、環境担当だった二村さんとも活動をご一緒)。遺伝子組換え食品や食の安全政策の検討、学習冊子作成にも協力。

(2)生協における参加型民主主義の再生を
ユーコープの資料から引用した「生活協同組合に誰もが参加できることを大切にしています」というのは重要とおもうけれど、JA資料から引用した「協同組合の基本的理念」にあった「組合員の、組合員による、組合員のための組織」ということが忘れられてはいけないと思っている。いまも組合員参加や自主的活動に力を入れ、頑張っている生協もある一方、多くの生協で、組合員理事は常識のある人であれば生協について勉強しなくても理事会さえ出てくれればいいのだということで進められていると聞いている。それでは、国際共同プロジェクトに関わったイギリスのスコットランドの生協が、スーパーマーケット的な事業だけを行ない、組合員活動を縮小していった過程で、経営が駄目になったということを日本の生協も繰り返すのではないかなと危惧している。北九州市民生協がエフコープになってから理事になり、理事研修の中で経営責任があるのだと教えられ(もちろん有限だが)、それが経営陣として当然だと思った。かながわに来たときにかながわの役員室の研修の中では、「組合員理事は経営責任はありません」ということだったので、「いや、経営責任はあります。そういう感覚がないといい加減になる」というやりとりをした覚えがある。生協法の中では経営責任というのは入っていることなどを、北海道の生協が経営危機に陥り理事の方たちが、かながわを訪問した時に私も講師を務めお話しした。「自分たちは経営責任というのをまったく考えていなかった。やはり経営責任は大事ですね」「かながわの活動を学んで地元で生かしたい」という発言があった。その自覚がしっかりとしたものの見方になると思う。今の社会的な環境変化の中で働く組合員が増え、昔と同じような活動はできないという意見があること、そういう実態については十分承知してるが、それでもロイヤルティという所属意識、生活協同組合への情熱、自分が主人公と思ってもらうために仕掛けをするのが、私は専従である職員や経験を積んだ組合員理事の役割ではないか。そういう思いで、ずっと生協に関わってきたので、そこだけは話したいと思っていた。北九州にいた時もそうだったが、日本生協連に電話をし、情報確認や国際的状況などを聞くと、すぐに動き回答をしてくれる。本当に日本生協連は無くてはならない存在で、本当に役立つところだと思っていた。全国組合員活動交流集会などに行くのも本当に楽しみだった。それは協同組合運動をやっている全国の仲間と会えるからだった。広島や長崎に行くと地元の理事の方から笑顔で「よく来てくれました。お疲れ様!」などと声をかけられ、生協の運営に関わったことで素敵な出会いを得る事ができた。日本生協連はそういう役割を続けて欲しい。

※ディスカッションの概要については、以下を開いてご参照ください。
【ディスカッションより】
①齋藤嘉璋さん:ICA東京大会でプロジェクトのベーク座長から協同組合の基本的価値の一つとして「参加型民主主義」が提起されたがその前後のことの補足も含めてまとまった発言をいただいた。当時のICA会長のマルコスさんが4つの基本的価値について各国でかなり道徳的な観念を含めて議論したのをさらに深めた形で「参加型民主主義」と言った。日本の生協は組合員の参加こそ生協の民主主義だという形で確立された歴史的経過がある。組合員参加という点では一番先進的経験を持っている、日本で東京大会をやるのであれば、ぜひ日本の自分たちの問題としてもそれを深めたいということで、全国の生協でそんな論議をやった。その後、そうではなくなっている現実があるという報告があった。ネット型運営組織の確立等々多様な要求と、活動を組織するための苦労や工夫はしてきている。組合員の数が増えて広域化して、階層も年齢も幅広くなる。そういう中での組合員ニーズの汲み上げ方や参加のあり方ということで議論されている。基本としては、やはり大規模化という問題を一面でどう捉えるか。あるいは年齢層でいうと、市民生協づくりということで一生懸命やったときは子育て最中の団塊の世代が中心でだいたい40代、50代までで、いまや60代、70代が組合員では主力です。そういうことを含めて組織状況が違うので、必ずしも理念や考え方が後退しているからだと言っても解決しないのではないか。現在では県域を超えて大規模化した生協がある。一方の典型は生活クラブで、東京の生活クラブは、もっと分割して小さくして、なんとか組合員参加の形を維持・発展させようとしている。昔はみんな小さかったが将来競合して、生協同士が喧嘩しているのはあまり良くないというので大阪は地域割りをしたが、東京は競争的な共存の道をとった。大阪いずみの問題も出たけれど、いずみはこの地域だと言えるのでパルコープやその他はそれはそれでいろいろな影響を受けたけれど、頑張ってきたということもある。東京ではコープみらいもあれば、生活クラブ、パルシステムもある。そのように単協の運営だけではなく、地域社会や行政との関係を含め戦略的な組織方針を日本生協連あたりが論議しないといけないんじゃないかと思っている。
②資料室・三崎:関西地連事務局時代に組合員活動を担当したことから「組合員参加」について継続した問題意識をもってきた中から、組合員組織政策の変遷についての概要を説明をした。
③組織推進本部長の二村さん:追加資料で配布した『生協運営資料』の特集「人口減と共働き社会における組合員の組織と参加を考える」は、このままだと組合員リーダーや組合員理事さんのなり手がいなくなる。改めて参加とネットワークを大事にしようという方向性で、組合員リーダーの方々へのアンケートを基に日生協の組合員活動部署から出された資料。それを書かれた二村さんにご発言いただいた。→1994年に出た大窪一志さんの『日本型生協の組織像』という本に影響を受けた。生協というのは組合員活動だけではなくて事業全体を含めて80年代の社会に過度に適応しているのではないかという問題意識の上に、90年代以降の社会の変化の中で、80年代につくり上げたものをどのように変えていけるのかが非常に課題になるということが書かれている。1990年代~2000年以降の社会の変化はいろいろある。格差の拡大、ライフスタイルの多様化、女性の多くが働くようになったとか。その中で、生協が大きくなっていくし、組合員も昔から入っている方もいれば、新しい方も入るという、その辺りが掛け合わさってきているので、その中でいかにやっていけるかということなのかなというのが一つ。もう一つは、どこの生協も時代が下れば下るほどいろいろな積み重ねがあるのを全部止めてゼロからつくることはできない。そこの生協の人たちが自分たちでどうしていこうかと、動きながら変えていかざるを得ないことの難しさがある。理想的にこういう形が良いと言うことは、言うのは簡単だが、それを形にしていくのはなかなか難しい。その中でどのようにしていったらみんなが元気良く前に向けてやれるのかを考えたり、提案したり、良いやり方があれば紹介したりするというのも一つの役割かなと思う。参加型民主主義ということでは有田さんのお話の最後にあった「自分が変えられる場所なのだと思ってもらえることがすごく大事だ」というのが非常に重要。
④富沢賢治さん:各種協同組合の根底にある、協同組合運動というものを運動化する必要がある。そのためにも各種協同組合のナショナルセンター的なものをつくることが必要とされている時代がきた、ということでJCA(日本協同組合連携機構)を4月に設立する動きについてもご報告いただいた。


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【2018/08/25 14:19】 | 情報
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20171118嘉璋さんと坪井さんを撮影145%拡大.jpg
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 2017年度「日本生協連資料室 土曜講座」第2回企画(11/18)については、こちらでもご紹介させていただきました。受講報告の記事アップが遅くなりました。少し長くなりますが、概要報告をまとめて掲載します。冒頭の写真は斎藤嘉璋さんと坪井俊二さんです。
 
「日本生協連第4代会長・中林貞男氏から学ぶ
-『平和とよりよい生活のために』を体現-」

講師:斎藤嘉璋氏/元日本生協連常務理事、
    元生協総合研究所専務理事

ゲストコメンテーター:坪井俊二氏
    /元日本生協連常務理事


斎藤嘉璋さんの講演概要(講演のメモと参考資料から作成)
(1)学生時代、新聞記者、産業報国会:明治40(1907)年、富山県生まれ。大正15(1926)年早稲田の第一高等学院に入学。学生時代は雄弁会に籍を起き、幹事(→昭和3、4年に学生運動をした者の会「三四会」幹事)。1927年に早大教授の大山郁夫が合法無産政党の最左翼たる労働農民党委員長になり大学を追われ、1928年には共産党に対する弾圧があり、同年の「暴圧反対学生雄弁大会」で司会。別の弁論大会で軍事教練反対と弁論して軍人だった父親に叱られた。非合法の地下活動に入る学友たちもいた。30年には早慶戦切符問題で40日のスト(藤井丙午、平田冨太郎らと)、クラス討議で中林退学をさせないためにスト打切りになり、大衆運動について学んだ。
●新聞記者の道に:1932年報知新聞社会部記者となり、36年には2.26事件の取材。最後は近衛内閣で新設され厚生省を担当(進歩的な人が多かった)。
●産報時代:1940年に「大日本産業報国会」が設立され、会長の平生釟三郎会長秘書の藤井丙午の斡旋で1941年に秘書として入り参事・連絡部長兼組織部長。平生さんは東京火災海上の基礎をつくり川崎造船の再建もした財界人で従業員の福利厚生を重視し、甲南学園や甲南病院もつくったオールドリベラリストで、賀川豊彦の活動も支援。灘購買組合の創立者那須善治に賀川の指導を仰ぐように助言したのも平生。戦局たけなわになって軍人が会長、理事長という体制に。1945年8月敗戦。残務処理委員会で産報の財産の移管先を賀川さんを中心にまとまっている協同組合運動にと主張。

(2)日協同盟、日本生協連創立のころ:そういう関係で「日本協同組合同盟」の設立から参加した。
①日協同盟創立:1945年11月、産報の事務所と現金を除く財産を引き継いで設立。賀川さんなど戦前からのリーダーと100名の職員でスタート。雨後の筍のように新生協が設立される中で食糧獲得闘争。先に農協法ができ、生協法制定運動。農協には認められた信用事業が認められず1948年に生協法ができた翌日から改正運動。信用事業権を求めて岡山では生協を中心に兵庫では労働組合を中心に労働金庫づくりが進み、1950年に岡山勤労者信用組合設立。東大法学部出身の事務局の勝部欣一さんに労働金庫法原案を作らせ、1957年に同法制定、全国労金協会ができ、中林さんが事務局長に就任。給料はそちらからもらっていた。
②日本生協連創立:1951年、発起人の東大の学生専務だった福田繁さんが借りた東大の教室で創立総会。スローガンは福田さんが東大の学友と相談して国際学連の「平和とよりよい未来のために」をもじった「平和とよりよい生活のために」を提案し、賀川さんが支持して決まった。その後、東大生協の論議の中で他の学生運動組織と違って生協はまず生活だろうということで「よりよい生活と平和のために」が大学生協のスローガンとなったが、日本生協連では一貫して「平和」が先のスローガンだった。戦後にできた町内会単位生協や再建をめざしていた家庭購買組合や江東消費組合もインフレとその後の極端なデフレ政策の中で経営破綻してつぶれていき、日生協の経営も逼迫。築地事務所は又借り状態、中林専務、木下常務と事務局4人の6名体制。給料も遅配欠配、片道経費出張で会費を集めた。連合会も会員も「創業期が10年続く」状態。中林さんは日生協と労金の2足の草鞋状態で、これではまずかろうと石黒さんが日協貿や事業生協連のトップとなって尽力。役員給料も出せるようになった。
③1950年代:生協運動・労金運動に取り組む中で「労働者福祉運動」を盛り上げる必要を感じて労組側に働きかける。労金、労災生協、労信販生協づくり。地区労を中心に地域勤労者生協、学校、炭鉱、職場職域生協づくり。生協規制、反消費者立法の動きに反対し、1956年全国消団連発足(会長就任)。物価・新聞代値上げ反対闘争。商調法で1959年2.26に雪の中を国会前のテントで座り込み(学生だった斎藤嘉璋さんも駆けつけて夜の留守番)。家庭会・婦人部の活動の活発化。1954年のビキニ水爆実験を契機に原水禁署名運動から原水禁運動へと発展。1955年初の原水禁世界大会、日本原水協発足、日生協も加入。
●ICAなど国際活動:1952年日本生協連ICAに加入。54年パリ大会に田中会長(原水爆反対、協同組合間貿易促進等の提案)→ツェントロサユースから招待→55年訪中ソ代表団派遣(石黒団長)。57年ストックホルム大会に中林(原水爆禁止、中国合作社の加入、協同組合間貿易促進提案)。58年ツェントロサユース大会へ招待(西側諸国も参加)。60年ローザンヌ大会(原水爆禁止、反独占、社会主義国の加入を提案)(ICA中央委員)。
※Mより補足:参考資料『平和とよりよい生活のために―生協運動私史―』で1980年のモスクワオリンピックを西側諸国がボイコットした年に開かれたICAモスクワ大会は西側も参加して開催されたことと、中国の加入が認められたことによりICAが世界最大のNGOになったことに協同組合陣営が国際的に果たせる役割の大きさを考えさせられた。

(3)成長期の生協の時代:●60年代:1958年「事業生協連」創立(石黒会長)。1962年中林さん日本生協連副会長に。65年日本生協連、事業生協連合併(石黒会長)*地域生協の新しい動き:62年灘・神戸生協合併。64年洛北、65年札幌、所沢新生協設立、大学生協の設立支援。68年日本生協連「首都圏大構想」―東京生協づくり始まる→失敗→70年福島総会結語(東京生協などに関して落下傘方式の出店反省、組合員に依拠した生協運営に。その後、依拠という言い方から組合員が主人公の生協運営にと発展) *日本生協連、コープ商品の開発本格化:66年CO-OPソフト発売(全国商品開発委員会発足) *組織拡大と組合員活動の活発化:新生協の設立、班組織の論議と全国的な交流の活発化。「全国消費者大会」(64年~)、「生協強化月間」と全国生協大会(67年~)
●70年代:*60年代後半~有害商品、水・環境問題、米価、カラーテレビの二重価格問題(生協では販売しているのに不買運動→全国消団連会長との兼務はやめ、その後は代表委員制に)、70年代~狂乱物価、灯油裁判。1971年中林さん日本生協連会長に。*原水爆禁止・平和の取り組み:77年、統一世界大会(生協、地婦連、青年団など参加)。78年、第1回国連軍縮特別総会(SSDⅠ)に代表派遣(生協27人、署名1,870万筆、うち生協112万筆)、広島大会、長崎大会に生協1500人。79年、被爆者援護法要求署名の取り組み。80年代前半、SSDⅡ、ヨーロッパ核軍縮大会など前進するが、84年の団体旗問題などから世界大会は86年再分裂。生協独自企画へ。
●80年代:*市民生協群の飛躍的発展、日本生協連事業の拡大→日本生協連のあり方見直し~地連設置。*生協規制の激化―大店法と出店規制、員外利用問題。
1985年日本生協連会長、中林から高村勣に(高村会長、生協規制対応と日生協改革など)
<まとめ>戦後の困難な時代のリーダーとして
*日協同盟~日本生協連の創成期に戦前の個性的なリーダーたち(関消連系の左派グループ、賀川らクリスチャンたち穏健派グループ、鈴木善幸ら生協以外のリーダーも)の中で、統一と団結を守り発展させた。困難期における“情熱”。常勤の木下保雄さんなどの存在。
*幅広い視野、人脈(学生→新聞記者時代から築いた)のもとでの渉外、共同の力=戦後の混乱期の諸闘争や渉外、地域勤労者生協と労金、労済づくりのころ、全国消団連づくりや反核平和運動における市民団体との共同。
*国際活動での貢献:ICA中央委員として、ソ連、中国、アジア諸国。国連から日本生協連がピースメッセンジャー授与。スウェーデン生協連から中林会長に「アルビン・ヨハンソン・ゴールドメダル」を受賞。
*「平和とよりよい生活のために」を掲げて。

※坪井俊二さんのゲストコメントとディスカッションの概要については、以下を開いてご参照ください。
【坪井俊二さんのゲストコメント】
1982年のSSDⅡの際、生協からの代表団の事務局長をつとめた。その当時のレーガン大統領が日本原水協の代表団にビザを発給せず参加が阻まれた。そこで中林さんに日本の反核・平和運動を代表してもらおうということになり、全体で1212名の代表団の代表として、国連のデクエアル事務総長に日本からの3000万人署名を渡し説明をした。各地の生協の組合員リーダーを含めて200名を越す日本の生協代表団でニューヨークの大集会やデモ行進に参加した。中林さんはそのことに大きな確信をもったようだった。石黒さんと中林さんは、戦争が終わった後の20世紀後半、賀川さんに次ぐ大きな指導者だった。その2人についても書いている自伝を増刷することも検討しているのでどうぞ皆さん読んでください。

【ディスカッションより】
「平和とよりよい生活のために」のスローガンに関わり、賀川さんや中林さんが「戦争に加担してしまったこと」をどう思っていたのかという話題になった。①坪井さん:「賀川さんは「軍部からの依頼で戦地に慰問に行ったことはよくなかった。今度戦争になる動きに反対して牢屋に行くことになったら一緒に行こう」と何回も言っていた。中林さんも「産報で軍国主義体制に組み込まれたこと」への反省を口にしていたことを何回も聞いている。二人とも悔いを隠そうとはしなかったとのことだった。②松沢資料館のKさん:この夏のシンポジウムで賀川豊彦の戦争加担が論点になった。賀川はガンジーと対談したことがあり、「戦争になったらどうしますか」と質問し、ガンジーは「死を選んでも反対する」と答えたという。一方、賀川は自分が国賊になってしまったら、関わった全ての事業がつぶされてしまうということで悩みながらも消極的に加担してしまったのだろう、「完全な人間はいない」ということだろうという論議になったと報告。
戦争責任と向き合って戦後を生きた人々から学ぶことは大きい。


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【2018/08/20 17:56】 | 情報
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