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20160210協同組合塾例会講師の丸山氏トリミング.jpg

<Mより発信>
 今回の学習会では、生活クラブ連合会で国際担当、1996年の日本生協連韓国調査団・団長を歴任、現在は参加型システム研究所とJC総研で客員研究員をされている韓国生協運動研究の第一人者である丸山茂樹さんを講師にお迎えし、韓国の生協運動の歴史と概況と「協同組合基本法」の内容、ソウル市の「協同組合都市-ソウル構想」の概要とその実践について解説いただいた。冒頭の写真は、講演をされる丸山さん。
 20人の参加があり(労組員10名、非労組員10名)、講演後の質疑応答および交流会でも、丸山氏には丁寧にご対応いただいた。

【2015年度第2回例会(2016年2/10)のご報告】
1.テーマ:「韓国における生協運動と協同組合基本法」  
2.講師:丸山茂樹氏
  (参加型システム研究所・JC総研 客員研究員)

3.講演概要
 韓国では戦前に日本人官僚による官製的な協同組合が組織されたが、その他に自律的な協同組合(金融中心)が1932年には290組合ほど存在、しかし戦争激化の下に弾圧された。
 戦後の自律的な協同組合は1960年代のキリスト者による信用協同組合から始まり、当時の軍事政権側はセマウル金庫法を作ってそれに対抗した。1990年代の金大中、盧武鉉政権下の自由貿易主義政策下で格差社会化が進み、与野党間で激しい対立はありつつも、社会の貧困格差問題をなんとかカバーしなくてはならないという認識は共有化されていた。韓国経済の70%を10大財閥が支配し、年収も大財閥社員・公務員・中小企業社員の間で大きな格差が存在している。

 現在、韓国の地域生協には「ハンサルリム」「iCOOP」「ドゥレ」「幸福中心(旧女性民友会)」の4つのグループが存在する(どの連合会にも属さない生協もある)。「ハンサルリム」と「iCOOP」は全国展開、「ドゥレ」「幸福中心」は首都圏エリアで活動している。(いずれも大きな店舗をもたず有機農法や自然食品などを扱う小さな店舗が事業の中心。)
 「ハンサルリム」はもともと「一つの大きなくらし」という意味で、1980年代に農民運動を基盤にした韓国独自のエコロジー運動から生まれた。日本の生協が都市の労働者や住民の運動として始まったのとは違い、韓国の生協は農民運動家が都市住民を組織した運動として始まっているのが特徴。「幸福中心」は、同時期のフェミニズム運動を基盤にした「女性民友会」から派生した生協で、その後「幸福中心生協」と名称変更した。(1998年に生協法が施行される以前からあったのはこの2つだった。)
 「iCOOP」は1998年に設立されているが、アイデアに富み、設計・建築の専門家を組織し都市開発を進め、住宅団地、生産工場、流通センター、公園などからなる生協クラスターという都市を建設したりもして、政府や自治体からも高く評価されている。激しい情勢変化にも対応して自己変革を行い成長を続けている。商品事業は本部主導で進められている。
 「ドゥレ生協」の「ドゥレ」は「講」とか「結(ゆい)」という意味で、首都圏コープ事業連合と名乗っていた小規模な生協の集まりで、iCOOPと同年に誕生した。商品事業は各生協ごとに進められ、自己変革が進んでいない。

 韓国で生協法が成立したのは1998年で、非常に制約の多い内容であったが、それまで任意団体や社団法人として活動して生協が、生協法人として活動できることとなった。法の成立は日本より50年遅れたが、2010年には生協法が改定され、多くの制約が撤廃、ICA協同組合原則が取り入れられ、連合会が規定されるなど画期的な改定であった。その後の発展のスピードは驚くほど速く、供給は年に15~20%の成長を続けたが、2015年はウォン高や韓国経済の失速の影響を受け、成長は鈍化している。
 2012年には「協同組合基本法」が施行された。これは生協法や農協法などの上位に立つ法律ではなく、既存の協同組合法のままでもよいし、協同組合基本法によってもよい。基本法の場合、5人以上で「協同組合」の設立が可能で、金融・保険以外なんでもでき、日本でできない労働や福祉の協同組合もできる。基本法では「協同組合」と「社会的協同組合」を規定しており、公益事業が40%以上の非営利法人で「社会的協同組合」として認可されると税制等の優遇措置が受けられ、公的な調達先としても優先される。

 市民団体「参与連帯」を設立した朴元淳氏が2011年にソウル市長に当選し、「協同組合都市-ソウル構想」を策定した。朴市長が主導した「グローバル社会的経済フォーラム(GSEF)」でソウル宣言を採択、格差社会の解消のために、1000万人のソウル市民が何らかの協同組合の組合員として民主的な経済の参加者となり、市内GDPの5%、雇用の8%を協同組合が担うことを目指した。2013年に「協同組合活性化支援条例」を制定、2014年には「社会的経済基本条例」を制定して、協同組合だけでなく、コミュニティビジネスや社会的企業をソウル市が人的経済的にバックアップすることになり、朴市長は2014年に再選された。(「参与連帯」は権力をもつ一人ひとりのデータを集積し、立候補前に政党に公認させない落薦運動、公認されてしまったら落選運動というような政治活動を展開してきた市民団体で、そこからソウル市長が生れている。)
 韓国の場合、国政レベルでは複雑な構造があるが、いずれにしても「協同組合」の育成・発展、「参加型経済」を通じて社会の諸問題の解決を目指しており、その動向や成否は注目に値する。
 
下の写真は学習会の全体の様子。
20160210協同組合塾例会全体風景トリミング.jpg

 また、今回の2/10(水)協同組合塾定例会での企画は、期せずして生協総合研究所の協同組合法制度研究会での企画と「韓国の生協運動と協同組合基本法」というテーマで当初予定の2/8(月)の同日程で内容がバッティングしていた。生協総研の企画の講師は、iCOOP 協同組合研究所所長の金亨美さん、協同組合塾の企画は丸山さんということだったが、丸山さんは、金さんとは長いおつきあいがあり、金さんの講演等にはいつも参加されているということだったので、直前で日程を調整し、2/8に総研企画、2/10に協同組合塾の企画というように調整ができた。さらに今回の総研の企画がオープン研究会だったため、塾の方でも再案内のタイミングで合わせてお知らせをしたところ7人が両方の企画に参加し、多角的な情報をいただいたことにより理解が深まったという声をいただいた。業務と自主企画の垣根を超えたコラボレーション事例として貴重だったと思われる。

 日本生協連の50周年記念事業で全国の生協運動の年史編纂事業の責任者だった斎藤嘉璋さんがその後に新書版にまとめた『現代日本生協運動小史』の韓国語版が2012年に「iCOOP」によって出版されている。それを記念して企画された研修会に講師として招かれた嘉璋さんが韓国訪問記をブログにアップされているのでご参照ください。 
嘉璋さんの韓国訪問記の記事はこちら

 なお、初代代表幹事のKさんが日本生協連を卒業された後、共同代表幹事をつとめていただいたYさんが関西の職場に異動することになった。今回の企画提案はYさんからで全体会司会もつとめられており、講師の丸山さんと並んだところがうまく撮れているので記念にアップさせていただく。
20160210協同組合塾例会丸山・柳下氏トリミング.jpg
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【2016/02/29 12:56】 | 主催企画報告
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賀川豊彦の協同組合の7つの中心思想.jpg
<Mより発信>
東京学生消費組合の十周年に際して賀川豊彦が送った揮毫「未来は我等のものな里」については、このブログで既に記事を書いている。その記事はこちら
大学生協連がある周年記念でそのレプリカ(複製)の額を全国の生協に贈っていたのだが、それに触発されて灘神戸生協が標題の揮毫を全国の生協に贈ったというエピソードをご紹介したい。
大学生協連は、「1984年度トップ研修セミナー」で当時の灘神戸生協組合長理事だった高村勣さんに「生協の現状と80年代の展望」というテーマで講演をしていただき、講演録を『大学生協経営資料』1984年2月発行の第46号に掲載している。当時の大学生協連の専務理事だった高橋晴雄さんが依頼をして実現したのだが、その高村氏は冒頭に「大学生協というと先入観があり、みなさんの波長にあう話などできないのではと思っていましたが、先日送っていただきましたみなさんの機関誌を読んで安心いたしました。福武会長の文章には時々お目にかかっていましたが、福武先生の論旨ははなはだ明快であり、そしてしかも非常に常識的であり、同じ生協運動者として琴線にふれるものがあったわけであります。そういう意味で、これだったら安心して何とか話ができるのではないかと思って来ました」と話を切り出されており、このセミナーは高村さんから大学生協連は路線的に遠いと思われていた距離感がなくなった画期的なものだったことがわかる。
そして灘神戸生協の歴史と現状を語り、賀川豊彦の考えた「協同組合の中心思想」について、戦後に灘生協(存命中は合併前だった)に講演でいらした際に「先生、何か書いてください」とその場で立ったままサッサッサと書かれた揮毫を額にして常勤役員の会議室に掲げられてあったものをコピーで紹介しながら語られている。そして講演資料として部下にコピーをさせながら、「おい、ひとつこれをコピーして全国の生協の仲間に進呈しようやないか」ということになり、作業指示をして講演にきたのだと語っているのだった。
この講演録は、昨年2015年3月に高村さんが亡くなって、追悼展を有志による実行委員会で開催することになり、高橋晴雄さんが掲載された『大学生協経営資料』も是非とも展示をしてほしいということで、資料室にも現物がないかを問合せをしていただいたことで貴重な資料だということがわかった。
この講演録からは一部分が、1999年に発行された高村さんの随想集『新版 生協人間』にも抄録として「生協の経営と経営者」というタイトルで掲載されているが、そのあたりのエピソードは載っていない。
最近、コープネット事業連合で賀川豊彦研究会をされているKさんが資料の閲覧にいらした際に、「賀川豊彦の協同組合の中心思想」の額を絵葉書にしたものを写真立てに入れたものをプレゼントしてくださったので、そのエピソードをお知らせしたところ、「知らなかった」と喜んでいただいた。
そこで、こちらのブログでもご紹介させていただくことにした。以下はKさんが絵葉書の附属資料にされている文からコピペさせていただく。冒頭の写真は、その資料からの転載。

【賀川豊彦の揮毫「協同組合中心思想」】
   コープネット事業連合 賀川豊彦研究会
 1954年、当時灘生活協同組合(現コープこうべ)の田中俊介組合長の要請により、賀川豊彦がその場で書いた協同組合中心思想です。 ※原版は1995年阪神・淡路大震災で焼失!(→焼失したのではなく瓦礫の中に埋まっていたという証言コメントをいただきました。)
◆生協運動に対する賀川豊彦の思想が7つの言葉に集約されています。
《利益共楽》
 安心・健康・福祉など人間の生活を向上させる利益を一人一人が力を分かち合い、共に豊かに幸せになろうとする協同組合運動の姿を意味している。
《人格経済》
 カネ(金)を中心に、強い者が勝ち弱い者が没落する利益追求の資本主義社会ではなく、いかに人間の尊厳を確保し、人間中心の経済社会を確立することを意味している。
《資本協同》
 労働の蓄積である貯蓄を互いに出資し合い、協同の理念のもと、生活を豊にする生産のための資本として活かすことを意味している。
《非搾取》
  弱者の犠牲の上に成り立つ、搾取によるカネ(金)持ち支配の社会ではなく、自由・平等で利益を分かち合える、共存共栄の社会を創造することを意味している。
《権力分散》
  権力が集約されることなく、個人個人が人間としての主権が保障され、一人ひとりが自分自身で自覚し、自立し、行動することの必要性を意味している。
《超政党》
  特定政党に偏することなく、生活者、消費者の立場で主張し、要求する生活協同組合の姿勢を意味している。
《教育中心》
 人間的な生活を確立するためには、個人個人の意識向上が必要である。それには、生活者一人ひとりの教養を広め、高める教育が重要であるということを意味している。

(追記)(コメントをいただいて2/26修正)
上記にもあるように、コープこうべにあった原版は阪神・淡路大震災で失われてしまったのだが、残った部分が確認できたのは「教育」の部分だったと元こうべの職員の方にお聞きしている。やはり協同組合は「教育」が大事だと何か象徴的に感じてしまった。そして、原版は失われても全国の生協に贈られたレプリカで賀川豊彦の揮毫に接することができるのは幸いというしかない。

(2/27写真の追加)
20150705こうべにある賀川豊彦の揮毫のレプリカ50%縮小
この記事を見た日本生協連のOGから、昨年亡くなった髙村勣さん(元コープこうべ理事長、元日本生協連会長)の追悼展(昨年7/5)に行かれた時に撮影したというレプリカの額の写真を送ってくださった。会場だったコープこうべ生活文化センターの2階にあったとのこと。
このような額が全国の生協にあるはずであり、是非ともこのような情報を共有化していただきたいと思っている。

(3/4追記)
日本生協連においては、渋谷コーププラザ12階の役員打合せ室に掲げられていることが確認できた。

【2016/02/24 19:59】 | 文献紹介
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「協同組合の中心思想」その後…
hassy
倒壊したコープこうべ本部の瓦礫から掘り出されたブツの目撃者です。確かに「教育中心」の言葉以降(左側)が残っていました(焼失ではなく瓦礫に埋もれておりました)。まさに“中心思想”で、何よりも教育が大切と、賀川さんが教えてくれたのでしょうね。
これを竹本理事長(当時)が持った写真? 新聞記事?があったように思うのですが…。それにしても…掘り出されたブツは、どこに行っちゃったんでしょうねぇ??


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「平和とよりよい生活のために」石黒武重先生揮毫50%縮小
<Mより発信>
 全国の生協の役職員向けの「CO・OP手帳」の表紙裏には、「平和とよりよい生活のために」という達筆の揮毫とカッコ書きで(1951年3月日本生活協同組合連合会『創立宣言』より)と注記が入っている。1985年より前からずっと入っているが、近年になって由来がわかるようにと注記が追加されていた。ところがこの注記により、日本生協連の創立宣言自体が毛筆で書かれていてそこからの抜粋と思っているという誤解をしている方が何人もいることを知って驚き、またそもそも手帳の裏の揮毫はどなたの手になるものかを調べたことについては既にこちらで記事アップしている。
その記事はこちら

今回は、そもそも日本生協連の創立宣言そのものを読もうとしてインターネット検索をしても見つからないし、すぐに読みたい場合はどうしたらよいかというお問合せをいただいた。そこで、日本生協連創立50周年事業として編纂された『現代日本生協運動史・資料集』(CD-ROM版)』から、「日本生活協同組合連合会創立総会議案書」より「日生協創立総会で採択された綱領、創立宣言、平和宣言」の部分をご紹介させていただく。

【日生協創立総会で採択された綱領、創立宣言、平和宣言】
綱 領
一、本連合会は生活協同組合相互の友交を深め、組織の全国的統一強化を図る。
一、本連合会は搾取なき社会の建設を目指し、勤労大衆の生活の向上を図る。
一、本連合会は国際協同組合同盟を支持し、世界平和の確立を図る。

創立宣言
 日本における生活協同組合運動の歴史は実に棘の道であった。この過程において心ならずも戦列を去った同志は幾人かあった。
 しかし、いま、われわれは更に重大な民族の興亡を決する危局に直面している。平和は全人類の悲願であるにもかかわらず、第三次世界大戦の危機は迫り、国際情勢は極度に緊迫している。われわれ協同組合運動者は第二次世界大戦の惨禍を自覚し、国際協同組合デーには常に「平和の使徒」たらんことを世界の同志と共に誓い合って来た。平和と、より良き生活こそ生活協同組合の理想であり、この理想の貫徹こそ現段階においてわれわれに課せられた最大の使命である。
 われわれはその使命を強力に達成せんがため、今日、日本生活協同組合連合会の創立総会を挙行した。この全国連合会の結成はわれわれのかねてよりの願望であり、久しい間の懸案であったが、ここにその全国の力が結集され、統一連合会として巨歩を踏み出したことは、日本の生活協同組合運動史上に一大エポックを画するものと確信する。かく考えると新連合会の使命は真に重大であるが、われわれの周囲には解決しなければならない問題が山積している。即ち消費生活協同組合法は欠陥に充ち、金融の道はとざされ、全く現資本主義経済機構はわれわれの成長を拒否しているとさえいえる。しかも時局の進展は再統制の徴をさえ示し、勤労大衆の生活は再び大きな犠牲に供されようとしている。
 われわれは新しい出発に際し、日本に於ける生活協同組合運動の苦闘の歴史を正しく継承すると共により大きな団結の力をもってこの祖国の危局に対処し、われわれの前にある一切の障害を打破し、生活協同組合の活動の自由と勤労大衆の生活擁護のために闘うことを誓うものである。
 全国の同志諸君!日本生活協同組合連合会の下に団結し、われわれの主体的体制を強化し、国際協同組合同盟の旗の下に力強く前進しよう。

平和宣言
 われわれは原子爆弾の悲惨な体験を通じ戦争に対し強い憎悪の念をいだいている。然るに今や再び戦争の危機は増大し、国際情勢は極度に緊迫している。
 しかし平和の保証がなければ勤労大衆の生活権の擁護は絶対に達成されない。国際協同組合同盟が常に世界の協同組合運動者に対し、平和への決意と行動を訴え、平和経済体制を確立しようとつとめているのも右の目的を達成せんがためである。
 われわれは茲に日本生活協同組合連合会の結成に際し、この国際協同組合同盟の方針を堅持し、平和の決意を新にすると共に生活協同組合運動を通じて世界平和と勤労大衆の生活擁護のために闘うことを誓うものである。
 右宣言す。
1951 年3月20 日
195103日生協「創立宣言」原本70%縮小.jpg
上の写真は、「創立総会」資料より「創立宣言草案」のガリ版刷りの原本。「草案」に×がついたり、書き込み修正が入っている。筆文字で書かれているわけではないことがわかる。

※日本生協連の資料室では『現代日本生協運動史・資料集』(CD-ROM版)』の総目次を全3巻の冊子版掲載分との照合情報も含めてエクセルファイルで作成し、キーワード検索機能ができるようになっています。四ツ谷の主婦会館の5階なのでアクセスは便利です。気軽にご利用をおすすめします。

【2016/02/13 12:55】 | 文献紹介
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hassy
 昨年亡くなった髙村勣さん(元日本生協連会長)が、1980年に“生協運動と平和”に関して綴った文章がありました。『生協人間(追悼展特別編集版)』収録。同著には、平和をテーマにしたエッセイが多く収録されています。

平和への決意
 平和を語ることがなんとなく勇気ある発言という感じになってきている。それほどにキナ臭いということである。善隣友好条約によってソ連がアフガン侵略を始めた。強いアメリカを唱えるレーガンが大統領に選ばれたのは、日本で自民党圧勝と同根の国民感情からきていると分析されている。
 1958年、戦後初めてのICAアジア大会に故田中組合長と共に参加した賀川豊彦は、アジアの協同組合の仲間に平和を訴えた。1957年のICAストックホルム大会に出席した日生協の中林会長も平和問題を協同組合に提起し、今年のモスクワ大会では、中林会長の平和提案が各国の共感を呼び高い評価を得たのは、日本の生協運動の一貫した世界平和への熱意であった。
 政治的対立で分裂していた広島・長崎での反原爆、平和訴求への運動を統一集会にまとめてきたのも日生協を中核とした中立諸団体の貢献が大きい。11月5日の全国生協大会での中林会長のアピールは、生協運動が果たさねばならない平和への役割であった。
 今こそ政治やイデオロギーの立場を超えて、暮らしを守る平和への希求を生協運動の根源に位置づけることを決意表明しなければならない時代がやってきた。
「まど」(1980・12・ 1)


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201512『久友会だより』No.82表紙60%縮小.jpg
<管理人より>
 日本生協連職員OBの大野省治さんからご寄稿をいただきましたので、ご紹介いたします。
 「生協運動久友会」(現在では役員などのOB会に改組されている)が年2回発行している『久友会だより』に寄稿され、2015年12月号=No.82に掲載された自分史に補筆されたものです。なお、冒頭の写真は掲載号の表紙です。

【寄稿】 大野省治氏「私の人生」
(おおの しょうじ  元全国消団連事務局長)

  私の家族
 私は1930年生まれ、支那事変の名で中国侵略が開始されたのは小学校1年の7月7日。大戦は1945年8月15日終わった。当時旧制中学校以上の学生・生徒は「学徒動員令」という勅令により強制的に工場で働くことになり、旧制高校専門学校以上の学生は徴兵され戦場へ行った。
 二兄は陸軍予備士官学校に合格。航空隊の通信士官となり中国南昌飛行場大隊に配置され少尉中隊長。妻の兄は同じく徴兵令、海軍経理学校に合格し主計少尉参謀となって航空特攻機発進基地に配置された。
 我が家から長兄は第六師団から山砲隊員として北支から中支へ転戦、更に仏印、暹羅へと転戦し、敗戦となって帰国。もう一人は久留米師団からビルマへ派遣され、高い山をいくつも越えて敗戦を迎え、生き長らえ辛うじて帰国。だが内地にいた一人は佐賀高校生で、学徒動員長崎造船所で勤務中に原爆被爆し死去。もう一人は大牟田市三川国民学校高等科の教員として児童の指導をしていたが、夏の強い日差しを受け戸外作業指導中熱中症となり、製氷工場が空爆で製氷不能となり看病も虚しく死去した。
  私の戦時体験
 私は中学3年生、8月7日正午頃三池染料工業所に勤務中にB−24の編隊爆撃を受けた。私は警報が鳴ると逸早く工場の退避壕へ隠れた。幸いにして爆発音聞きながら過ぎ去るのを待った。被害を受けずに助かり、私の今日がある。
 幼稚園の頃の歌は肉弾三勇士など軍歌が中心。軍国主義教育で一貫していた。旧制中学では物理の教師が海軍中尉で、宿題に軍人勅諭の丸写しを出すなど物理学と軍人勅諭がどんな関係があるのかと不満を覚えた。だが礼儀の項は覚えていたので師団から来た査閲官から唱えてみよと命じられて、私は長い文句を口述したので褒められた。教育の軍事化というのは“殴りつけてでも実施させること”が徹底していた。

  8月7日、大牟田空襲
 敗戦の色濃くなって、空襲警報が発せられると、夜でも即刻三里小学校の防衛に駆けつけた。8月7日の正午頃米軍大型爆撃機の編隊が大牟田市上空を襲った時は、工場の防空壕に逃げ込んだ。広島の翌日である。幸い私は命だけは助かったが、逃げ遅れた相当数がいて、爆弾で工場敷地一帯に工員らの死体が転がっていた。社屋・工場は崩壊、無惨。中学同級生が7名戦死した目も当てられない惨状。米軍爆撃機による爆撃の最中に大牟田の高射砲陣地から発射した砲弾が敵の爆撃機B−24に命中し撃墜させた。高射砲陣地兵士はよく戦ったと思う。
 私は中学3年生、被爆直後、工場から帰宅を許されると直ぐ近所に撃墜された機体を見に学友と二人で出かけた。夕方近いが8月の空は明るく、畑の上に横たわるB-24は壊れ、機内が露出して見えた。地面に叩きつけられ、米軍乗務員の丸く腫れ上がった遺体が折り重なっていた。機関砲や砲弾等武器・通信機も転がっていたが、手出しはせず見るだけで現場を離れた。つい先程は三池染料の骸炭工場付近で殺された女子事務員や工員、朝鮮から動員されて来ていた少年工員の腕や胴体が切断された死体を目の前で見てきたのだ。
 撃墜されて死んだ敵の飛行士数人を目の前にしても、私は気の毒とも可愛そうなどの感傷はなかった。これが戦争の実態なのだ。自分は生きている、と確かめた。同級生で肩下に焼夷弾が当たり腕を失った友があったが、成績の良かった彼は若くして死去した。2日後の9日、長崎に原子爆弾が落とされ、私は有明海の東側から西海岸の雲仙岳と多良岳の間に、入道雲のような原子雲を眺望した。
 8月15日敗戦の日が過ぎて、アメリカ兵と街なかで顔を合わせることがあっても、まだ戦時中の敵対感覚であり、振り向きもせず通り過ぎた。英語の友成先生が、中学校へ来訪したアメリカ人と話を交わして居るところを見かけてから、やっと敗戦となった現実を認識するゆとりが出てきた。

※戦後以降の分は以下のところを開いてお読み下さい。
  佐賀大学に入学
 戦後、私は中学4年生になって理科系へ進むことを決めた。理科系の古書を古本屋であさり細胞学・進化論遺伝学の学習に力を入れた。生物学の中島幹先生と話し込むことが楽しくなった。研究者になる夢を抱くようになる。進学は甘くなく5年卒で熊本の旧制第五高等学校理乙を受けたが合格しなかった。浪人かと思いきや新制高校というのが出来たので浪人せずに新制佐賀大学の理学専攻に合格できた。
 理学専攻の学生は1学年80名、その大半が医学部のプレメデカルコース選択。学部長が生物学の専攻でリベラリスト島地威雄先生。旧制浦和高校校長、佐賀高校校長を経て佐賀大学文理学部長となられた。

  恩師の受難に抗議
 佐賀高校の数学教授和田浩先生は教職員組合の推薦で佐賀県地方労働委員に就任していた。佐賀市内で労働争議が発生した際、当該企業の社長がアメリカ軍政部へ駆け込んで労働問題を軍の手で抑えてほしいと陳情した。米軍は一方的に企業の利益を擁護して、労働組合側に不利益な措置を執り、労働者側の推薦で委員として活動している佐賀高校教授和田氏を偽証罪で有罪の実刑と罰金刑を下した。その事が新制大学の教授任用の障害となった。和田助教授はホグベンの百万人の数学を教材として大学の数学講座で教壇に立ち、私も受講していた。その和田浩先生が受難である。旧制佐賀高校が閉校すると同時に失職するに至る。
 私はまだ19歳であったが自治会結成を成功させて学部学生自治会副委員長に選出された。私は教授会の不当な措置を全学に知らせ、和田助教授の不採用に抗議の意思表示を行った。大学当局を代表する光岡教授の判断は軍政部に寄添い、事もあろうに大学教職員組合長でありながら大学の運営委員の重役に就任した。この事実は即不当労働行為である。和田氏の基本的人権を擁護すべき大学教職員組合委員長の任務を放棄し軍政部に迎合。労働法で見れば同教授はマッチポンプ・矛盾した委員長兼重役そのもの。昭和24年6月1日制定の労働組合法第2条但し書き1号の役員に当たり、第7条の不当労働行為である。

  スト執行で退学処分
 私は自治会役員として、このような不当な措置に抗議しようと学部自治会委員長も含め合意のもとに学生大会を開催し、多数の支持を得てストライキを議題とした。執行委員長が演壇に立ってスト突入を提案、即可決となった。私は副委員長でこの議事進行を見ていた。執行委員長は委員長席からストを提案しスト可決を議決、その直後に執行委員長が辞任を申し出た。片や旧制九州大学から来ていた学連オルグ福元君はストの扇動者で「突入せよ」と初めから食い下がっていた。ストの実施の可否は自治会最高責任者である学部執行委員長の手中に有った。執行拒否も採否は委員長の判断である。委員長が拒否権を発動するかもしれないと思っていたが、そうせず委員長辞任という想定外の異常事態となった。副委員長の私は、自ら委員長代行となって壇上に立ち、本日の大会でのストライキ提案の手続きは有効であり、前委員長の議決措置は順当で大会決議は執行しなければならない旨言明。私は執行委員長代行として最低本日を含め短時日のスト執行を確認して学生大会を終了させ、その他の案件については執行部一任として閉会する旨宣言した。副執行委員長兼執行委員長代行の大野はその時点で退学処分を覚悟。退任した前任委員長は当局と前もって打ち合わせをしていたものと推定。
 その後、私は大学当局から学長室へ招かれて処分通知を受けた。不本意ながら不知火寮からも退去を求められた。荷物を纏めて若干名の友人との別離コンパを開いて大牟田の自宅へ帰り、兄と母に報告。資金協力を願い、長兄から上京のための貴重な経費を支出して頂いた。
 父は定年退職後の慰労として四国遍路に出かけていて留守、父へのお詫びの挨拶も抜きで上京。戦後4年そこそこ、1949~50年以降の私は、医学進学課程の路を2年生の途中で閉ざされた。

  東大生協で再出発
 東大生協の食堂で皿洗いから始まる再出発となった。自業自得。アッケラカンなスト後の人生となったが、個人としては大きな損害であった。占領政策に便乗しレッドパージを強行した大学当局の実力者英語松岡教授に対する抗議の意思表明の場は作れず、ストの責任を問われて学長から退学処分を言い渡された。
 そこで東大学生新聞の林重太氏を頼って東大生協に就職したという経過である。東大生協での勤務中にこれと言えるほどの大きな仕事はできなかったが、塚崎宏・藤川一栄両氏の推薦で日生協・消団連の仕事を戴けた事が、人生における貴重な転機となった。
 塚崎・藤川両氏の指定どおり私は、1956年1月9日、神田神保町の日生協を訪ね、専務理事常務理事他責任者の面接を受けて、事務局員として従事する貴重な機会となった。

  消団連事務局から日生協貿易部門を経て消団連事務局長17年
 全国消団連にて取り組んだ仕事は、消費者問題の数々、初期の課題ばかりで貴重な体験となった。次に出てきた課題は大きすぎる課題でした。
 新聞購読料金独禁法違反を告発した・・。全国に呼びかけ新聞各社購読料の一斉値上げ分不払い運動は一挙に100万の読者の参加拡大したが、公取は一転不問処分を決定し挫折。
 大野は消団連事務局員を外され、貿易会社への左遷。北洋材輸入業務の習得。貿易会社の実務研修。茂山鉄鉱石の受け渡し、八幡製鉄(株)への納入。大豆の輸入と国内売りさばきに従事した。そして中国の「文化大革命」、中国貿易と友好商社問題に遭遇。北朝鮮への出張等めまぐるしく経過し、しかも適切に対処できた。先輩や同僚たちの声援の賜である。この間9年余を経て、私への人事異動が転がってきた。
 中林貞男名誉会長、正田彬慶応大学教授両氏からの提唱で、消団連事務局の手法が市民団体から煙たがられているので「人事を一新せよ」とのアドバイスを受け、元事務局員大野に再度やらせて改善の方策を探れとの指名人事提案であった。
 大野自身としては好むところであり、全国消団連事務局長を約17年全力投下、務め上げ結果は幸運であったと自画自賛している。
以上
(追記)
 大野さんをネット検索したところ、まずウィキまとめの記事に「昭和5(1930)年9月25日~ 昭和・平成期の消費者運動家。」とあった。
 その次には、横浜市栄区のHPに「特定非営利活動法人お互いさまねっと公田町団地」大野省治理事長ということで、日本住宅公団(現在のUR都市機構)が建設した公田町団地(住居数1,160戸、33棟)に「お互いさまねっと」 を立ち上げたことについての記事があった。
「入居当時は子育て世代が多かったこの団地も、46年経った今では子どもたちも巣立ち、高齢化を迎えています。 もともと自治会を中心に福祉活動などが盛んでしたが、団地内で発生した「孤独死」をきっかけに、“みんなが気持ちよく、永く住み続けられるまちづくり”を目指し、20年8月に「お互いさまねっと 公田町団地」を立ち上げ活動を開始しました。 」
詳細はこちら
今後のご健勝とご活躍を願わずにいられない。


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【2016/02/03 18:30】 | 文献紹介
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