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<Mより発信>
【2013年度第3回例会のご報告】概要編はこちら
ご講演要旨「山本邦雄:日本生協連職員としてスタートした生協人生を今、ふりかえる」 その1
ご講演要旨「山本邦雄:日本生協連職員としてスタートした生協人生を今、ふりかえる」 その2

【山本邦雄:日本生協連職員としてスタートした生協人生を今、ふりかえる】 その3
「最後に」 これまでの生協人生を振り返って感じていること・日本生協連に期待すること
「生協人生」に限らず、これまでの人生を振り返って思うことは学生時代に感銘を受けた本(古在由重著『思想とは何か』)の内容をどれだけ実践できたかということ。要するに、思想というのは一片の論理とか一片の理論じゃなく、現実との対応の中で自分の中で屈折しながらも生きていく、必要なことはいろいろな定義や分類を数え上げる、いわゆる学者的にいろいろな定義を出してやっていくっていうことじゃなくて、一生そう決めたことについて貫き通すか、理路整然といくらいいことを言ってもそれと全く違った行動をとっていたら何の価値もないということだと思う。ずっと学生時代から40何年以上、この本だけは持って歩いていた。節目節目でずっと、常にそのことだけは大きな判断する時は考えた。そこに書いているような立派な生き方をしたかどうかはいささか疑問だが、常にそう思っている。人間、やらなければ何の価値もないということ。
2番目に、高村元会長が『いま生協に求められるリーダーシップとは』という本で書いている以下のようなこと。「誰にでも同じリーダーの行動基準があるわけではない。それぞれに個性があり、個性発揮こそが大切であり、教えられたり、真似をしてリーダーたり得ることはない。自ら考え、自らが判断し、体当たりしていくしかない。」
僕は全くその通りだと思う。真似したりなんかしてうまくいくはずがない。1番目の思想とは何かということでも言ったが、自分で考えて自分で体当たりする以外は解決する方法がない。そここそが思想であり、哲学であるということだと思う。
日生協に期待することとして、日生協は生協の基礎知識だとか専門性を習得できる、そしてその気になれば全国の情報とかを広く知る立場にいる、それを自覚して欲しい。単協ではなかなかできないことだが、日生協にいると意識的に動けばいくらでもできる、そういう立場にいるんだよということを皆さんに自覚していただくということ。それから皆さんは優秀な人が多いと思うが、どんな素晴らしいアイディア・理想も実践して実現して生協の場で成果を上げること。そういう時だけそれが生きるということ、運動家・プロとしての覚悟を持って欲しい。日生協はそういう立場におかれているのだから。そういう気持ちを持って臨んで欲しい。そういう立場と必ず成功させてやるんだというんだという気迫、そのために何を考えるのか。上から目線でものを言っても各会員生協が聞くはずがないし、そのために今の日生協は何をするんだというようなこと。

最後にみなさんに送りたい二つの言葉
1つめは、2013年度の新書大賞の1位になった小熊英二さんの 『社会を変えるには』 (講談社現代新書)から。これを読んだきっかけは、僕はいま脱原発で官邸前集会にずっと行っているが、参加してみて僕たちが学生時代に感じたそういう運動とこれは違うな、だいぶ違うなと新しい息吹を感じた。最後に書いてあることで、「社会をつくることは楽しいことです。素敵な社会や素敵な家族や素敵な政治は待っていても取りかえてもあらわれません。自分でつくるしかないのです。面倒だ、理想論だ、信じられない、こわいという人もいるでしょう。そう思う人は今のままやっていける、このままで耐えられると思っている人たちでしょうから、これからもずっとそうして過ごしてください。いつまで続けられるかわかりません。あとはあなたが決めることです。『社会を変えるためにはあなたが変わること、あなたが変わるにはあなたが動くこと』、言い古された言葉のようですが、今ではそのことの意味が新しく生かし直される時代になってきています」という言葉。
もう1つは、「フーテンの寅さん」の映画から。僕は全部観ているが、妹のさくらの子どもの満男くんが思春期の時に、柴又の駅に寅さんを送っていく時に、別れ際に「おじさん、人間っていうのは何のために生きてるの」って聞く。寅さんがしばし考えて「俺にはめんどくさいことはわからないけど、人間は生きてるうちに何回か生きててよかったなって思うことがあるんだ。俺は人間はその時のために生きてるんだと思うよ」って言って、あばよと帰っていく。その「生きててよかったな」と思うことはやっぱり人が喜んでくれる、人のためになった、というようなことのために人間がその時に味わう喜び、そのために生きてるんじゃないのかっていうことを寅さんがあそこで言ったんじゃないのかと、僕は思っている。いつも生協で組合員に話す時は「皆さんはどう感じますか。僕はこう感じてるんです。僕は一貫してるんだけど、さっきの古在さんの話も含めて、あんまり生きるとかおおげさに思って論理を組み立てていくということよりも、今こういうことにものすごく生きがいを感じる、それはいったい何なんだろうかというようなことを考える方がいいんじゃないのか」と。私の生協人生を通しても、生協というのはその都度の人間のふれあいだし、そういうことがまとまっていくと大きな力になっていくんだというのは、実感としてそう思う。それはあきらめないことであり、やり続けるしかない。途中でやめたらそれまでのことが全部パァになるわけだから、しぶとくやるしかない。
小熊英二さんの言葉が心にざっくりきた。「やりたくなければやらなくていいよ」「しかしやろうと思ったら動かなきゃいかんよ」ということ。それを僕は官邸前の集会にずっと行っていて感じる。彼らはあんなことしたって当然経済的な利益はないし、彼らはあまり発言しないでみんなに発言させて、「いつでもそういう人たちが集まれる場所を自分たちが用意しているんです」といっている。かつてのアジテーターが引っ張りまわすような運動とは違う。そういう点は生協運動も学ぶべきところがあるんじゃないかと思う。
以上
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【2014/06/10 21:11】 | 未分類
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【2013年度第3回例会のご報告】概要編はこちら
ご講演要旨「山本邦雄:日本生協連職員としてスタートした生協人生を今、ふりかえる」 その1

【山本邦雄:日本生協連職員としてスタートした生協人生を今、ふりかえる】 その2
「4」パルコープ誕生は組合員のため、そして事業・経営に貢献したのか、そして新しい連帯への可能性を切り開くことが出来たのか
俗にひらがな生協と呼ばれていた5つの市民生協は、いずれ一つになるという暗黙の確認のようなものがあった。設立当時はそれぞれの活動エリアを明確に区分し、受け持ち地域での独自の発展を目指した(当初は注文書も一緒だったが次第に各生協の独自の取り組みになった)。1980年初頭にいずみ市民が新たな配送センター(班別仕分けセンター)を建設し、当初うまくいかなくて4生協に提携要請があった。そのことが5生協の事業連帯に大きな変化をもたらし、1984年に4生協の共同出資による「(株)おおさか協同物流センター」を設立、同時に4生協合同商品部を設置(共同企画開始)した。
1985年、「くらしの研究所」(京都)の有識者たちが発行した『転換期の生協運動』がきっかけで90年代への準備が開始、4生協でも合併への論議を開始した。合併への準備期間、実務の一元化、システムの統一などあったが、もっとも労力をさいたのが、大阪5生協の連帯(特にいずみ市民との関係、よどがわの途中離脱)だった。大阪府連、日本生協連との調整、近畿地区の生協への理解、合併まで足かけ4年を要した。その合併のなかで痛切に感じたことは、以下の通り。①準備期間はあったし、それなりに丁寧な対応をしたつもりだが「異文化」をもつ組織が一緒になることは簡単なことではない。②最終の役員・幹部人事の難しさ。③労理関係の本当の信頼関係構築こそ、最大のキーポイント、ということ。
3生協の合併から23年、当初の目標からどう評価するかの基本視点は以下の通り。①本当に「組合員のために」なったのか、商品への満足度、組合員運営は改善出来たのか、理事会改革は進んだか、総代会は組合員の意見が反映できるようになっているか。②事業・経営は前進したか、経営戦略は妥当であったか、客観的情勢に対して主体的な力量を見極め機敏な対応ができたか。③パルコープ設立が大阪府内、近畿地区において新しい連帯の可能性を生み出すことに繋がったか。

「5」コープきんき設立時、必ずしも緻密な政策・方針・計画があったわけではない
2000年初頭の生協をめぐる情勢の特徴は、90年代後半の3つの危機(経営・信頼・存続の危機)から脱出しつつあったが、事業・経営は減収・減益が続き出口が見えない状況だった。大阪でいずみ問題が起きた時に、大阪の地域生協が10いくつあるうち上期決算で黒字だったのはパルだけで、この際パルコープだけは絶対に守らないと、というような決意でやってきた。こういう危機は2001年頃から大体脱出していったが、減収減益は続いていた。コープきんき設立のきっかけは関西地連の事業政策委員会の研修会で当時の日生協の片桐常務からコープネットと日生協との共同開発、共同仕入れが始まって、最終的に参加単協のGPを1%近くアップさせたという取り組みを聞いた時に、京都の西村喬常務から「この際、パルコープがそういうことを呼びかけてくれないか」と言われたこと。それで「近畿地区事業連帯推進協議会」を立ち上げて1年ちょっとで、「生活協同組合連合会コープきんき」をつくるべきだという結論に達した。やってる当事者もこんなに早く決まったことに驚いた。それで2003年にコープきんきができたが、この年に阪神タイガースが16年ぶりかなんかで星野監督で優勝。「世の中何が起こるかわかりませんね」と言われたが、コープきんきも一緒だという笑い話をした。
コープきんき設立に参加して感じたことは以下の通り。①情勢認識をまず一致させること。②「事業連合」という組織はなんのためにあるのか、深く捉えること。③近畿地区における事業連帯の特徴と、自らの強み、弱みを知って取り組む。④事業連帯であっても、組合員の参加・情報公開は不可欠。⑤情勢の変化への対応、分析、予測は出来るが決定的なものはない、既定概念にとらわれない機敏な対応、ということ。

以下、「その3」に続く

【2014/06/08 21:02】 | 主催企画報告
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【2013年度第3回例会のご報告】概要編はこちら
第3回例会の山本邦雄さんの講演要旨を連載します。写真は幹事のNさんがご提供くださいました。

【山本邦雄:日本生協連職員としてスタートした生協人生を今、ふりかえる】 その1
「1」生協との出会いと簡単な履歴
生協との出会ったのは大学生協で、60年安保の後だが学生運動がまだまだ強い時代だった。慶応大学に入った頃、学生運動とか生協運動とかには興味がなくて準体育会系のクラブに入っていたが、2年の時の授業料値上げ反対運動で学生が一生懸命質問しているのに学校の態度が横柄で「なんだ。学校の態度はゆるせない」と言ったことがきっかけになって自治会活動にのめり込むことになった。当時の花形は自治会で、結構派手にやっていたが、4年生になって生協の総代になった。その時の大学生協専務が大嶋茂男さんで「日生協を受けてみたらどうか」と言われて、受けてそのまま1967年、日本生協連に就職してしまった。中野邦夫さんや竹内文彦さんが同期だった。研修後、炭労会館にあった本部に出勤してまもなく関西支所配属を言い渡され、江戸っ子感覚で生きてきた僕は外国に行くような気持ちで赴任した。

「2」関西支所の仕事を通して感じたこと・学んだこと
灘神戸生協の芦屋の職員寮の4人部屋に入り、朝から牛乳配達に行くような現場の職員と身近に接しながら大阪松屋町にあった事務所に通った。当時の関西支所は愛知から山口までの2府18県が守備範囲だったが、供給の7割ぐらいは灘神戸生協だった。受発注・伝票管理・在庫管理・郵便物管理など支所の基本業務を半年位やり、その後灘神戸生協の供給促進担当に専任する灘神戸生協の担当になった。日生協といっても灘神戸にとっては問屋のひとつ、それもそんな大きな問屋じゃないということで、一切配慮はされなかった。トップが参加している開発委員会で決まったものでも商品担当判断が優先された。本部との関係では現場の力が強かった。指示命令では簡単に動かない。灘神戸には支部が約60、店舗が約50あり、地域的にいうと、西の方は明石のちょっと手前の舞子、東の方は大阪の豊中まで直線距離にすると40㎞ぐらいの間に約110の事業所があって、現場を知らない限り商売にはならない。そこで2か月ぐらい休日をつぶして道路を走って110箇所を1日で一人で回りきれるようになった。2年ぐらいかけて現場のマネージャーに「連合会もいろいろやってるらしい」と言ってもらえるようになった。LAS系衣料用洗剤「コープソフト」を高級アルコール系の「コープセフター」に切り替えるために、関西支所、メーカーのアデカ(旭電化)、灘神戸生協家庭用品部が一丸となって第一線の支部職員のやる気を引き出す大作戦に取り組んだ。その時、灘神戸生協が物を売るときのすごさを痛感した。その後、嶋根善太郎支所長の号令で灘神戸食品部への特別シフトが敷かれ、佐久間成浩さんと二人で張り付いた。僕は灘神戸の立場になって日生協本部とやりあった。灘神戸との関係も最後は人間関係だった。本音の話し合い、信頼関係が勝負を決める。どんな交渉も根底に人と人との信頼関係がなければ決して良い結果は出ないのではないか。

「3」なぜ、日本生協連を退職して大阪の市民生協づくりに参加したのか
関西では1965年の洛北(現・京都生協)から大学生協の支援で市民生協の設立がすすんでいた。大阪での本格的な市民生協づくりとして、1974年いずみ市民、75年かわち市民、その後、みなみ市民、しろきた市民、よどがわ市民が1年おきに設立された。いずみ市民生協の設立は関西支所が支援体制をとり、かわち市民生協の設立に向けての調査・準備活動に携わった。準備期間中、かなり大胆な提案、計画立案も行った関係で設立まで責任を負う立場になり、途中にあった東京・本部への転勤の内示を待ってもらえなかったため日生協を退職。大阪の市民生協づくりと連帯のために働くことになった。当時、日生協の幹部職員も含めて「連合会でやるより地域に出よう、新しい生協をつくろう」ということを望む人がたくさんいた。関西支所長だった嶋根さん、石川誠一さんも単協に行った。背景にはそういう流れが現実にあった。
新しい市民生協づくりに参加して強く感じたことは、以下の通り。①はじめて配送行った時に受けたカルチャーショック、組合員活動の新鮮さ。②お母さんたちの子供への思いと女性としての自己実現への強い意志・パワー。③「劇的な出来事」はたまたまではない。日々淡々とどこにもあること。④出資・利用・運営参加の三原則は奥深いことを実感。⑤トップの責任の重さ、事業と経営は違うということの理解がきわめて重要、ということ。

以下、「その2」に続く

【2014/06/07 21:49】 | 主催企画報告
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<Mより発信>
 JCCU協同組合塾の2013年度第3回例会の報告が遅くなりました。第3回例会は、おおさかパルコープ、コープきんき事業連合のトップでいらした山本邦雄さんにご講演をお願いしました。山本さんが日本生協連の職員だったことを知っている人は、現役の職員にはほとんどいないのではないでしょうか?
年度の切り替わり時期ということで、業務の都合、歓送迎会の時期となってしまったため、参加者は多くなかったのですが、その分、細かなニュアンスまでもお互いがわかりやすい貴重な機会となりました。上の写真は、司会をする代表幹事のYさんが冒頭に挨拶と資料確認をしているところです(幹事のNさん撮影)。

【2013年度第3回例会のご報告】概要編
1.開催日時:2014年3月13日(木)18時~21時30分
2.会場:日本生協連コーププラザ4F 第3会議室
3.テーマ:「日本生協連職員としてスタートした生協人生を今、ふりかえる」
4.講師:山本 邦雄 さん(おおさかパルコープ前理事長、現顧問)
5.例会第1部の概要
 ご講演の要旨を続けてアップいたします。
ご講演要旨「山本邦雄:日本生協連職員としてスタートした生協人生を今、ふりかえる」 その1
ご講演要旨「山本邦雄:日本生協連職員としてスタートした生協人生を今、ふりかえる」 その2
ご講演要旨「山本邦雄:日本生協連職員としてスタートした生協人生を今、ふりかえる」 その3

6.第2部の懇親交流会
 講演後、講師を囲み懇親交流会を開催しました。日生協職員のOBとして後輩の私たちにいただいたエールをうけとめながら、ざっくばらんに話しこめる場になりました。始まる時は嵐のような天気模様でしたが、散会時には風雨もやみ、これからの私たちの行く手もこうあってほしいと思えてしまいました。
以上

【2014/06/06 21:40】 | 主催企画報告
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