<Mより発信>
日本生協連のHPに5/9付けで「CO・OP復興支援ポータルサイト」開設の案内が出ていた。以前、こちらでご紹介した「日本生協連 震災支援活動ブログ」もその中に組み込まれている。

以下、その記事よりの引用。
日本生協連と各地の生協は、被災地の社会・経済基盤の復旧とくらしの復興にむけて、全国の生協・組合員とともに「つながろう CO・OPアクション」に取り組んでいます。日本生協連では「つながろう CO・OPアクション」第2弾として、復興にむけて取り組むコープ商品の製造委託工場や産直産地と、消費者・組合員、そして全国各地の生協の復興支援活動をつなぐウェブサイト「CO・OP復興支援ポータルサイト」を5月9日から開設します。
「CO・OP復興支援ポータルサイト」は、被災地のコープ商品製造委託工場や、産直産地、生協で復興に取り組む方々を紹介するサイトやコンテンツを集約したポータルサイトです。サイトを通じて、被災地の復興を願い、支援に携わる方々とのつながりを強め、支援の輪を広げます。
また、日本生協連の運営するサイトでは初めてとなる、ミニブログサービスTwitterを活用した「Twitter応援メッセージ募集サイト」も開設しました。全国の消費者から被災地の生産者を応援するメッセージを集め、被災地の生産者と全国の消費者の双方向コミュニケーションを図ります。

昨日、職員向けの電子掲示板にも案内と生協以外の方にもお知らせくださいという記事がアップされたので、こちらでもご紹介させていただきたい。

CO・OP復興支援ポータルサイト 【URL】http://shinsai.jccu.coop/

■コンテンツ
1)工場、産地応援 復興へ!工場産地レポート
  【URL】http://goods.jccu.coop/shien/
2)復興に取り組む生協からの声 ~生協にできること~
3)日本生協連 震災復興支援ブログ
  【URL】http://peacejccu.exblog.jp/
4)コープ共済 ご契約者 訪問活動日記
  【URL】http://coopkyosai.exblog.jp/
5)震災復興支援に関する、日本生協連からのお知らせ、プレスリリース
6)全国の生協の支援活動情報       
などがまとめて見られます。

■Twitter応援メッセージ募集サイト  
【URL】http://tweet.jccu.coop/
近日中に、復興支援ポータルサイトからもご覧いただけるようになる予定とのこと。

【2011/05/19 12:26】 | 情報
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<Mより発信>
関東大震災後の復興の取り組みの中で生まれた消費組合について、続けてご紹介していきたい。1979年に江東会によって発刊された『回想の江東消費組合』の中で、大西信治氏(当時かながわ生活協同組合顧問)が「柳島消費組合と江東消費組合と」という文章が掲載されており、こちらでもご紹介する。
【柳島消費組合と江東消費組合と】
『回想の江東消費組合』第二部 回想よりP210~
「柳島消費組合と江東消費組合と」大西信治(かながわ生活協同組合顧問)
  一
 関東大震災のときに、東京帝大の穂積、末弘博士を中心とした学生有志団は、上野の山に避難してきた、浅草、下谷一帯の、数万人におよぶ羅災者救護をいってに引き受け、物資の配給、風紀、衛生、傷病者の手当など、文字通り献身的な活動を行いました。
 両博士は、賀川先生から〝この学生グループを恒常的な組織につくりあげては〟-という示唆をうけて、オックスフォード大学セツッルメント(注1)の先例にならって、大学セツッルメント運動を興すことになりました。
 この運動の第一着手として、対象をどんな社会層においたらよいか、活動の拠点をどこに置いたらよいか、と検討された結果、本郷から比較的ちかく、生活に希望をもち、向上心のある労働者街を選ぶべきであるということになり、永い間、行政機関などからほったらかされていた江東の地域を選出して、柳島元町に、34.5坪の建物をつくり、ここを拠点に、事業を始めることになりました。大正13年のことです。
 セツルでは、通りに画した角に、消費組合の店を設け、正面玄関の左側に診療所、その奥に法律相談室、二階に図書室を兼ねた小講堂をつくり、労働学校、市民学校、児童学校の教室にしていました。別棟に児童会館をかねた託児所と子供の遊び場がつくられました。
 消費組合店と託児所は昼間の事業で、診療所や法律相談やいろいろな講座は主に夜間に行われました。
 セツルの各種事業は、学内運動のなかで広まった「人民の中へ」の思想に強い共感をもった新しいタイプの学生が本郷の学生街から出向いてきて行ったので、附近の住民から非常に喜ばれ、信頼されるようになりました。
 セツル事業の一部であった消費組合部は、昭和2年8月、末弘博士の発想によって、地域居住者の自主的組織として発足させることになりましたが、これが、柳島消費組合の誕生で、当時学生であった二代目組合長の山本秋さんはどぶ臭い水溜りのある路地から路地へ、焼けトタンの長屋を一軒一軒廻って、精工舎や栗原紡績などに勤める地域の人々を根気よく啓蒙して、労働学校や市民学枚の生徒にも、加入を勧めながら、一方では汗水たらして重い荷車を引き、深川の米問屋に仕入に出むいたり、配達したりして、この組合の基礎づくりに献身したといわれています。
 その頃(昭和3年)、郷里の埼玉で農民運動をしていた私は、消費組合を勉強するために関東消費組合連盟に派遣されることになり、その傘下の柳島消費組合で働くことになりました。23のときのことです。
 午前中は、小石川の東京共働社(砲兵工廠の従業員が主体でした)で開かれていた関消連主催の消費組合講習所に通い、午後は、柳島にもどって実務をうけもちました。
  二
 当時、同じ本所の松倉町に、関東消費組合連盟加入の江東消費組合がありました。
 震災前、関西で、購買組合共益社や神戸消費組合を設立された賀川先生や木立義道さんたちの本所基督教産業青年会の人々によって、震災直後、前記の東京帝大の穂積、末弘両博士の学生グループと同じように、被災者救援運動がおこされました。
 江東消費組合はその産業青年会を母胎とし、労働総同盟に属していた東京合同労働組合などの支持を得て、昭和2年4月に創立されましたが、東大セツルメントを母胎とした柳島消費組合の創立は同年8月で、僅か4ヶ月の差をもって、同じ本所に、この二つの歴史的な組合が発足したというわけです。
 その当時の勤労者は、貸銀が低く、生活に追われて、明けても暮れても油じみた葉っぱ服やカーキ色の作業服を着て、会社や工場に通っていました。
 江東消費組合では、誰の発想であったか、コール天地の開襟服をつくり、「賀川服」と名づけて、普及宣伝につめていました。
 作業服で毎日工場に通うのは、一寸おそまつだし、といって官公庁の役人の着用する背広服は高くて買えないので当時の労働者の間に大評判となり、好評を博していました。
 関消連加盟の組合常務者はもちろん、労働組合幹部の人たちもこぞって着用しました。
 江東消費組合と柳島消費組合とは、比較的近いところにあった関係から、私は、賀川服購入のため、よく訪れたものです。
 そのころ、江東消費組合で活動されていた笹川恵太郎さんは、のちに吾嬬町に、総同盟系・日本紡績労組の人たちを中心に、南葛消費組合を設立し、また、田中勝太郎さんは深川の木場に、関東木材労働組合や浅沼稲次郎氏(注2)らの労党系(ママ:浅沼は日本労農党に参加していたので誤植と思われる)の人々を中心に、深川共働消費組合を創立されましたが、のちに、これら二つの組合は柳島消費組合と合併して、東京第一合同消費組合となりました。この面からいっても柳島と江東とは縁があったわけです。
 広瀬庫太郎さんからも、何かと指導をうけましたが広瀬さんは、あれから上海に渡って、中国で活躍されたようにきいております。
 昭和3年、東京共働社の階上で開かれた、関消連の消費組合講習所で、講師であった木立義道さんの、階級闘争のきびしい情況のなかでの協同組合の役割をぼかし、キリスト教的友愛による労資協調路線をとる協同組合論の講義を受講生たちがボイコットして、砲兵工廠前の小高い山にたてこもったことがありますが、これが契機となったのか、やがて、関消連は左右に分裂して、消費組合運動の方向について、両者がはげしい論陣を張るようになりました。あれはもう、50年の昔となりましたが、今となってはすべてはただなつかしい思い出となってのこるのみです。木立さんの講義をボイコットした事件は「若気の至り」と木立さんにお詑びしたい気持ちでおります。
以上
(注1)ネット検索で見つけたYahoo!百科事典の「セツルメント」の項はこちら
(注2) wikipediaの「浅沼稲次郎」の項はこちら

【2011/05/17 12:55】 | アーカイブ
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1926江東消費組合・中之郷質庫・基督教青年会60%×60%縮小.jpg
<Mより発信>
関東大震災後の賀川豊彦の復興の取り組みについて、続けてご紹介していきたい。
1979年に江東会によって発刊された『回想の江東消費組合』の中で、賀川豊彦の自伝小説「石の枕を立てて」より、江東消費組合と中ノ郷質庫信用組合にかかわる部分が抜粋されて掲載されていたので、その部分をこちらでもご紹介する。冒頭の写真も同書掲載分である(左より中ノ郷質庫信用組合、江東消費組合、本所基督教産業青年会)。
なお、この小説は「賀川豊彦全集」の第19巻にも収められている。
【賀川豊彦の自伝小説「石の枕を立てて」よりの抜粋】
『回想の江東消費組合』第二部 回想よりP67~
ただ一つの道 -「石の枕を立てて」より
「石の枕を立てて」(昭和14年刊)は、賀川豊彦の「死線を越えて」につづく自伝小説で、内容は、大正12年9月1日の関東大震災に際し、東京救援のため神戸より急遽上京した賀川豊彦が、10月19日、本所松倉町に天幕を張って運動を開始してから4、5年にわたる記録である。
その中から、江東消費組合、中ノ郷質庫信用組合にかかわる部分を抜粋した。
文中の「新見」は賀川豊彦、「木村」は木立義道である。-編者-
 本所では、近所の人の生活費を軽減しようと、新たに小さい消費組合が生れた。
 バラックの一番北の端の板壁を取りはずして、そこを店舗にし、米、炭、缶詰、その他日用必需品を販売し始めた。
 組合員は主として近所のバラックに住んでいる人々のみなので出資払込みも僅か1口2円とし、労働階級にのみ奉仕せんと計画をたてた。勿論、初めから東京府庁の認可を得ることができなかったので、2、3年間は認可なしでやって見ることにした。
 大阪、神戸の経験で、消費組合が非常に困難であることを知っていた新見は、毎月若干の損害は始めから見越していた。僅かの品物を一々配達せねばならない労働者向きの消費組合では、配給費だけが損になることがよくわかっていた。
 しかし、産業組合を作らないで、単なる社会主義運動だけでは、絶対に社会改造ができないことを知っていた新見は、どんなに苦しくてもその損失を補填しようと覚悟した。
 そして、主事の木村君も必ず成功して見せると意気込んでいた。
   ×
 新見の留守の間に、本所キリスト教産業青年会のバラックの代りに、そこから約一丁ばかり離れた東駒形四丁目の地域内に建てられていた産業青年会付属の宿泊所の隣へ持っていって、産業青年会の本建築をする計画をしていたものが、もうでき上っていた。
 そして木村君は、その北側へ、質庫信用組合と消費組合の店舗を並べて建築し、キリスト教産業青年会の創立せられた目的の実現に邁進したいと、彼の理想を新見に明した。
 北側の空地に2階付の店舗が2軒並べて建てられた。バラックの北の隅っこで始められた江東消費組合の売店が、その南側の店舗に引越してき、中ノ郷質庫信用組合がその北側に腰を落ちつけることになった。
 新見の考えでは、消費組合の困難はその金融にあった。それで、できれば信用組合の金融をうけて、労働階級に日用品を廉価で供給したいと考えた。しかし、下層労働階級の信用組合は、大正12年の12月頃から始めた生業資金の貸出しでいい経験をもっていた。そのときは主婦の友の社長・石川武美氏が「生業資金に貸出してくれ」と千円の金をくれたので、五十円、百円と区切って全部貸出して見たが、その金を返却に来るものは殆どなかった。それで、組合部を受持っていた木村君は、信用組合が質屋をやっていることを知って、それを見にいってきた。
 「信用組合で質屋をやりましょう。東京の庶民階級は、一年間に2500万円以上の質草を二千軒近い質屋に持っていっていますし、質屋の利息は一年間三割四分ですから、年に一割で貸出しても労働階級は随分助かりますヨ」
 木村君の報告を聞いて新見はすぐ質庫信用組合の創立に賛成した。ところが、東京府庁の方から、ぜひ三千円位はそちらで金を作るように、と内意を伝えてきた。それで新見は、有馬頼寧伯その他の知己友人に依頼して、信用組合の創立資金三千円を出資して貰った。そして、田川大吉郎氏に依頼して組合長になって貰い、いよいよ事業を開始することにした。
 松沢の新見の家で鶏飼いをしていた佐々木君が、村から出てきて信用組合の主事に赴任した。組合加入者は僅か十銭の払込金で、組合員たる権利を獲得できるような仕組みになっていた。それで、信用組合は始めからぐんぐん伸びて、初年度から一文も損せずに済んだ。
 しかしその蔭には、奥堂定蔵氏の並々ならぬ努力のあったことを新見はいつも思い出すのであった。
 奥堂氏は築地の聖パウロ教会の信者で、王子の大きな質屋の若主人であったが、新見が本所にバラックを建てるとすぐやってきて、“ぜひ東京市の質屋制度を改造したい”という彼の祈りを新見に語った。産業組合の手で質屋が経営できるなら、彼はいつでも参加するということを誓った。
 そのことを思い出した新見は、木村君に奥堂氏を訪問して貰った。そして、奥堂氏自身に乗り出して貰って、彼の店から質草の鑑定人を送って貰い、奥堂氏自身には、中ノ郷質庫信用組合の専務理事に就任して貰った。
公益質屋が五十円以上は貸さないにも拘らず、質庫信用組合が始めから千円まで貸すこことを公表したので、電話を担保に金を借りにくる者が続々でてきた。
 それで、金額を多く借りる者には利息を多くとり、質草を持ってきて二円や三円の金を借りる者には、年四分位の利息で貸すことにして、更に利益があった場合には、一円以下の金を借りる者には無利息で貸してもよいという方針を取った。
 日掛貯金がはじまった。震災当時に近所に奉仕したお蔭で、近所の評判はとてもよく、町内残らず、日掛貯金に加盟してくれるところさえできた。
 ある老婆の如きは「おうちはキリスト教で間違いはないでしょうから安心してお金が預けられますワ」そう言って喜んで預金してくれた。
 その話をきいた時、新見は新しき責任を感じた。
 その後も、某銀行が取付けに遭うという噂が立った時、町内の多くの人が、銀行から金を引き出してきて、中ノ郷質庫信用組合に預金してくれた。その言い草が面白い。
 「おうちはキリスト教だから間違いはないですヨ、産業青年会の若い人は皆賢いですナァ、実にえらいことを考え出すもんだ、銀行であれば、儲けがあれば皆取ってしまうが、こちらの組合は、儲かったら儲っただけ、利息に近いお金を払戻してくれるからネエ、今どきの若い人にかかったら敵わんヨ」
 しかし、消費組合の方はそう好都合にはいかなかった。日用雑貨品の価格の変動が激しいのと、出資金の金額がすくないために、仕入れにこまってしまった。しかし、一旦始めた以上、新見はどこまでもやり通す決心をしていた。それで、毎月相当の金額に上った損害を原稿料で埋めていった。
 この消費組合の損害は、社会事業に出す金と違って、なんだか馬鹿馬鹿しいように思われた。けれども新見は、社会を改造する唯一の道が、この協同組合運働の外にないと思っていたから、石に噛りついても、労働街の消費組合運動を成功させたいと思った。
 幸い、大阪消費組合協会のコール天服(注・賀川服)が売れていたので、そこから現金千円を寄附して貰い、差当りの困難を切り抜けることにした。
   ×
 さる日の負傷は、彼にとっては大きな打撃であった。
 しかし、それによって彼は大きな教訓を学んだ。彼は自分の仕事を限定せねばならないことを知った。もうそんなに手を拡げることはできない。勿論、無理なことはできなくなってしまった。
 最初彼は神戸の貧民窟の事業だけで、彼の仕事としては重荷すぎると考えていたのに、震災とともに東京に手をつけ、更に大阪に彼の事業を拡張していったために、一ケ月の出費だけでも、毎月千円以上準備しなければならなかった。
 そこへ、今までうまく行っていた大阪の消費組合共益社が、従業員の費い込みと、震災後の不景気に崇られて、月末の金融にさえ困るようになった。
 その上、最近、本所区松倉町のバラックで始めた子供遊びのような消費組合が、毎月、八、九十円から百五十円程度の損害を出していた。
 社会改造とはいえ、購買組合の仕事は一種の商売であった。それで、収支相償えば少しも苦痛に感じなかったが、朝から晩まで筆を走らせて、下手くそな小説や論文を売りつけて、辛うじて原稿料を受けとり、その金を全部、社会運動に投げ出すことは、何でもないような事であるけれども、同じ百円でも肺病患者にあたえると感謝してくれるが、組合事業で損をすると誰も感謝してくれなかった。で、それは泥溝の中へ金銀を投げ込んだような気がしてならなかった。
 しかし、良心を通して神が囁く声は、こうであった。
 ―― 協同組合運動に投げ込む金は、単なる救済事業に投げ込む金より、更に大きな結果を持ち来らすから、決して躊躇せず、その効果が顕れるまで持続する必要がある――と。
以上

【2011/05/02 19:44】 | アーカイブ
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