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<Mより発信>
あらためて戦前の日本で最大の生協がどこだったかと考えて、東京の家庭購買組合だったことに思いをいたすと、生協の歴史認識がまた変わってくる。
この間、こちらで何回か家庭購買組合に関連してご紹介しているが、そのひとつの記事をご覧になった方からお問合せをいただいた。組合員啓蒙の月刊誌『ホームユニオン』への九州帝大の今中次麿教授の連載についてである。
日本生協連の資料室には1937年1月号から38年12月号までの分が合本で保管されており、その中に今中教授の連載は毎号欠かさずに掲載されていた。他にバラ保管も2冊分あるがそちらにはない。
組合員向けに政治講座というシリーズとその延長で書かれており、いずれも2~3頁のものである。そのタイトルだけ見ても、戦争に向かう時局の様子がよくわかる。

まずは、「今中次麿」でネット検索してみた。
コトバンク「今中次麿」
今中次麿著『政治権力の歴史的構造』出版年:1958-03-20

賀川豊彦献身100年事業の中で、賀川が戦争に向かう動きに抵抗しきれなかったことを批判する論があることもわかり、私もそこについては「瑕」のように評価をしてきた。しかしながら、左翼勢力が治安維持法によりことごとく弾圧され、一般の国民の中にとどまって抵抗運動を組織しきれなかった日本のその時代の状況を深く知れば知るほど、ヨーロッパのレジスタンスのもっていた力との大きな差を痛感させられるようになっている。
関消連や日消連系の生協はことごとく潰されてしまい、時局の悪化の中で最後の最後まで生協としての組織や事業を残そうとすると体制側に寄り添う方向を選ぶ生協もあったことに、共感まではせずとも理解はできるようになってきた。
以下、今中教授の連載のタイトル一覧をご紹介しておきたい。
【九州帝大教授 今中次麿の『ホームユニオン』への連載】
1937年1月号:ホーム・セクション政治講座「消費組合と政治」(西安事変に言及)
1937年2月号:ホーム・セクション政治講座「最近の支那問題」
1937年3月号:ホーム・セクション政治講座「今度の政変」
1937年4月号:ホーム・セクション政治講座「三中全会以降の支那」
1937年5月号:ホーム・セクション政治講座「解散と総選挙」
1937年6月号:ホーム・セクション政治講座「超然内閣と政党」
1937年7月号:ホーム・セクション政治講座「内閣の更迭」
1937年8月号:「国境の風雲」
1937年9月号:ホーム・セクション政治講座「問題の核心」
1937年10月号:政治講座「蘇支の連携と日本」
1937年11月号:「トハチェフスキー事件」
1937年12月号:「三国防共協定の成立」
1938年1月号:「昭和13年の政治的展望」
1938年2月号:「政党はどうなる」
1938年3月号:「長期戦への歩み」
1938年4月号:「国家総動員」
1938年5月号:「独墺合邦と英国」
1938年6月号:「対支中央機関の新設」
1938年7月号:「挙国一致内閣の成立」
1938年8月号:「文と人」
1938年9月号:「張皷峯事件」
1938年10月号:「チェッコをめぐる英、仏、ソ連」
1938年11月号:「宇垣外相の辞任」
1938年12月号:皇紀2698年回顧「政治―挙国運動の発展性―」
以上
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【2010/10/27 12:30】 | 文献紹介
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『賀川豊彦全集』の第11巻に添付された『月報』9.掲載の文章のうち、中林貞男氏の分のご紹介。
【情熱を注いだ生協運動】日本生活協同組合連合会副会長 中林 貞男
「一人は万人のために、万人は一人のために」各地の生協を訪れてこの文字をみると、私は賀川先生を想い出す。先生は生協の仲間から額や色紙などの揮毫をたのまれるとよくこの言葉をかかれた。この十八文字は簡単だが協同組合の精神を非常によくあらわしている。先生の協同組合運動に対する情熱はすべてこの言葉から出ているのではないだろうかと私は思っている。また伝道者としての情熱でもあったであろう。そして先生は人格主義を説かれ、よく数字をあげて青少年の犯罪のふえるのを嘆いておられた。先生はまた科学を愛された。先生と話をしていて一番まいったことは巧みに数字をあげて煙にまかれることであった。私はいつか先生が役人の汚職を憤慨して数字をあげられるので、その数字はほんとうかと思って後で年鑑を調べたところ、ぴたりとあたっていたのに驚いた。従って先生は協同組合運動の根本は教育だということを主張され、人の養成を強調された。いま私達全国の生協の仲間が先生の記念事業として神戸に生協学校(注)をつくろうと着々準備をすすめているのも、そのご遺志にもとずいたのである。
この根本的な考え方にたって先生は平和を愛し、戦争には絶対反対の意思を常に堅持しておられた。私はよく先生と話していて、こと平和の問題になると先生の強い信念におどろかされ、激励されることがしばしばであった。数年前警職法のことが問題になり、日本生協連としてその扱いを相談に行った時、先生は再軍備を中心に再び軍国調がつよくなって来たことを憂い、
「生協運動は平和運動だ、そんな法律は絶対反対だ、いまの日本にとって一番大事なことは平和の問題だ、戦争に反対して憲兵隊や進駐軍にひっぱられるのならかまわんではないか、君! そんなときは一緒にひっぱられよう」
と語気はげしくいわれたのには驚いた。その時の先生の姿はいまも私の脳裡にのこっている。人間賀川は徹底的な平和主義者であった。この先生の崇高な精神が日本の生協運動に大きく影響していることはもちろんである。
先生は友愛と信義、協同の精神を強調し、自らも尊重することにつとめられた。そして力の強いもの、権力を持っているものがこれを理解することが民主々義にとって一番大切だと私に教えられた。当時よく日本生協連の総会で元気のよい代議員や大学協連の若い代議員から私達に鋭い批判がむけられた。のんきな私でも時にはおこりたくなることがあったが、こんな時会長はいつも私にむかって
「君達は執行権をもっているのだから黙ってみんなの意見を聞くことが大事だよ、ことに若い学生の意見にはお互に耳をかたむける必要があるよ、若い連中の意見をきかなくなったら人間はだめだよ」
と私をなだめられた。会長はこと日本生協連の問題になるといつも大同団結と運動の統一を私に注意された。おそらく先生は戦前からのながい労働運動、農民運動などの経験から、力の弱い生協は何より運動の統一をはかることが一番大切だと痛感されていたからだと、私は先生のその信念を肝にめいじている。これは今後も大事なことだと思っている。とにかく、労働者は大きく団結すべきだということを常に強調され、従って社会党の分裂等については病床にありながら強く批判しておられた。
先生のこの態度はいつも日本という立場よりむしろ人類という立場にたっての主張であった。その意味では先生はすばらしい国際主義者であった。日本人で先生ほど国際的にその人格や業績が高く評価されている人は少いのではないだろうか。私は国際協同組合同盟の会合等に出かけてみて、先生に対する評価が国内においてよりも国際的に高いのに驚いたのである。日本の主張をする場合にドクター賀川も同意見だというと皆柏手をしてくれるので、私は度々先生のお名前を拝借させていただいた次第である。先生が国際的だということにからんで私は一度先生に一喝されたことがある。それは社会党の故三輪寿壮氏が選対委員長をしていた時、
「鈴木委員長と相談して都知事候補に賀川さんを推そうというのだが君から先生の内意をうかがってくれないか、もし引受けてくれられそうなら党からも正式に頼みに行くから」
といわれ、私も名案だと思って先生に話した。ところが、
「君! 俺は泥臭い江戸川の水は呑まないよ! それよりもいま人類の破滅を憂い一生懸命原稿を書いているのだ。そんなことを考える暇はないよ」
といわれたので、更に社会党の真意を説明しようとしたら、
「君! 馬鹿なことをいうのはやめ給え、君はわしと幾年つきあっているのだ」
と大喝されたのでほうほうの体で引きあげた。先生の頭には人類の幸福、世界の平和ということ以外にはなかったのであろう。晩年ノーベル平和賞の候補にあげられ、国際的運動に発展しながらその結実を見ずに他界されたことはかえすがえすも残念でならない。
日本生協連が実力以上に国際的に評価され、現在世界各国との交流がスムーズにいっているのも先生の力に負うところが非常に大きいと思っている。われわれが現在やっている協同組合貿易についても先生は当初からの最も熱心な主張者であった。私はいま戦後17年間の日本生協連の歩みをふり返ってみるとその一つ一つが先生に負うところの大きいのに驚かざるを得ないのである。そもそも終戦直後の昭和20年11月18日に新橋蔵前会館で、日本生協連の前身日本協同組合同盟の結成大会を行って、運動を開始した時の資金は誰が出したのだろうか、現在の新しい運動の仲間は殆んど知らないだろうが、それは外ならぬ先生であったのだ。先生が某会から100万円借りてこられてポンと投げ出されたのが戦後の運動のはじめだったのだ。100万円といえば簡単だが、今日に換算すればいくらになるだろうか。そしてその後先生は一人でその全額を原稿を書いて返済してくださったのである。
私は先生の崇高な精神、そのバク大な資金的援助のあったことを想いそして現在の運動の姿を思い感慨無量である。また先生は中小企業団体法や小売商業特別措置法等の生協抑圧法が国会に上程され、反対運動をやっているといつも率先して国会に陳情に行ってくださった。最早私達は先生のその姿を見ることはできない。大正のはじめ神戸の貧民窟の伝道から大阪の共益社や神戸の神戸生協、灘生協(この4月に両生協合併)、また関東大震災後の東京に江東消費組合、つづいて中野の組合病院の設立に力をつくされた。キリスト者としての先生は生協運動を通じてその理想を実践されたのではないだろうか。
以上
(Mより注記)
「神戸に生協学校」をつくる構想はその後紆余曲折を経て実現困難になってしまった。時期をあらため、その精神を生かすものとして「賀川記念全国生協教育基金協会」(その後の略称:賀川教育基金)の創立が1981年の日本生協連創立30周年記念事業として設立され、現在に至っている。

【2010/10/15 12:44】 | アーカイブ
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『賀川豊彦全集』の第11巻に添付された『月報』9.掲載の文章のうち、まずは黒川泰一氏の分からご紹介する。
【物心両面の支え】全国共済農業協同組合連合会参事 黒川 泰一
関東大震災の直後、賀川先生が本所区松倉町にテントを張られ、罹災市民の救援に奔走されると同時に、連日連夜、市内の教会で説教をつづけられたとき、既に受洗者であった私も、毎晩、先生の後を追って説教を聴きまわった一人であった。当時商業関係にいた青年、私の煩悶時代でもあったので、間もなく松倉町に先生を訪ねて、私の悩みをきいて頂いた。先生は私の相談をきかれるや即座に、「君は協同組合運動に従事するのが一番よろしい」といわれた。私も即座に「是非やらせて下さい」と答えた。「それじゃ木立君にいっておくから、同君の指導をうけなさい」ということで、それ以来、今日までその道に入って40年を経た。
したがって、私の先生についての思い出は「賀川先生と協同組合運動」に関係したことだけでも、尽きないほどありすぎる。
先生の事業は、いづれの方面でも他人が手をつけない、先駆者的であり、開拓者的なものばかりであるが、協同組合運動もその例外ではなかった。消費組合然り、質庫信用組合然り、医療組合、保険(共済)協同組合等々みなそうである。そしてこれらは日本のみならず、国際的関係を含めての協同組合運動に大きな影響を与えているものであるが、残念なことには、既刊の賀川先生の伝記には、その記録も評価も不充分であり、軽く扱われていることである。これは申訳ないいい方だが木立さんあたりが中心になって、ぜひまとめていただきたいところである。
私が賀川先生の指導下にあって、直接関係したものについて特に印象の深い先生の思い出では、まづ医療組合の設立運動である。
それは昭和6年1月から始まった。当時は農村恐慌の真最中で、農民は窮乏のどん底にあって蟻地獄のように医療地獄に落ち込んでいた。政府はそんなことには見向きもしないで、ただ経済更生運動の掛声をするばかりだった。医療地獄から農民が披け出さぬ限り経済更生も空念仏に終る。そして農民自身の協同の力による外に医療地獄から抜け出すことはできない、というのが先生のお考えだった。しかし、これを一挙に全国の農村に普及するためには、最も目立つ場所にモデルを作ることが早道と考えられた結果、その条件に合う場所として東京を選ばれた。それで始められたのが東京医療利用組合の設立運動であった。しかしこれには医師会という開業医の団体が、全国の勢力を結集して猛烈な政治的圧力をかけての大反対運動を起してきた。そのため設立認可は一時は絶望視されたが、翌7年に突発した五・一五事件の余波が幸いして一年がかりで滑り込み認可となった。そして、この間の医師会の全国的反対運動が却って刺戟となって、その後全国農村に医療組合設立運動が燎原の火の勢いで拡がった。賀川先生の狙いは不思議にも短日月で結実していった。
その後昭和9年には当時の内務省社会局から主として農村を対象とした国民健康保険組合制度要綱試案が賀川先生からの示唆を得た馬場蔵相の発意をもとに発表されたが、この時も先生は逸早くその促進運動と既存の協同組合たる産業組合を基礎に実施すべきだとの主張をつづけ、ついに政府当局と産業組合を動かし、その方向に進められた。これに対しても全国の医師会の猛反対運動が起され、あわやひねり潰されようとしたが、賀川先生を先頭に立てた全国産業組合の支持運動が強力に展開され、昭和12年国民健康保険組合法が成立し、全国市町村の三分の一は産業組合の事業として実施された。この間の先生の努力と産業組合の熱意と協力は当局の作った国民健康保険史には意識してか無意識なのかは知らぬが、ほとんど記録されていない。
日本の協同組合運動の質的変革をもたらすものとしての組合保険(共済)は、今や大きな驚異的発展を遂げつつあるが、これまた賀川先生が昭和10年以来、協同組合保険の必要性と実施をつよく主張しつづけ、その指導下に立ち上った産業組合の動きは、戦前には遂に政治的圧力のため一旦は潰されてしまったが、敗戦を機として遂にその実現を見ることができ、かつ予想以上の発展をつづけているところである。いつも思うことは、消費組合にしても、医療組合にしても、また戦後逸早く、戦時中禁圧されていた協同組合運動の再建のため、賀川先生を会長に発足した日本協同組合同盟(現在の日本生協連の前身)にしても、賀川先生からバク大な私財の援助を受け、物心両面に大きな御負担をかけながら、その償いをすることもできないまま過ぎていることである。
以上

【2010/10/14 12:59】 | アーカイブ
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キリスト新聞社(ホームページの会社案内はこちら)から1962年から64年にかけて出版された賀川豊彦全集は全部で24巻。絶版になっているが、日本生協連資料室には揃っているので、閲覧ができる。
その中でも協同組合関係の著述が集約されているのは1963年5月に配本された第11巻である。添付の『月報』9.の「編集室から」には「この11巻は賀川豊彦が日本の組合連動の先駆者として農山漁村に都市に残した大きな足跡を物語るものです」と書いてある。
【賀川豊彦全集から協同組合関係の第11巻のご紹介】
収められている内容は以下の通り。巻末に武藤富男氏による解説がある。
自由組合論
家庭と消費組合
社会構成と消費組合
医療組合論
国民健康保険と産業組合
キリスト教兄弟愛と経済改造
漁業組合の理論と実際
産業組合の本質とその進路
日本協同組合保険論
新協同組合要論  

添付の『月報』9.に掲載された、黒川 泰一、中林貞男両氏の文章をこちらでご紹介する予定。

【2010/10/13 18:38】 | 文献紹介
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『生協運動』1960年4月号の故賀川会長追悼特集よりのご紹介の締め括りである。
【ある一日のこと】全国労働者共済生協連 小林基愛
賀川さんと親しみをこめてよばせていただきます。これからかかれることがらのなかには無礼なはなしにもおよぶと思います。けれど賀川さんはそんなつまらぬことにこだわるお人ではなかったのですから、わらっておゆるしねがえると思います。
日協連の事務局員として、また労働者共済の仕事をつうじて、賀川さんとお会いし、お話しをうかがうたくさんの機会をもてました。そのなかから、もっとも印象にふかい、ある日の賀川さんをえがいてみたいと思います。
  ×  ×  ×
日協連の本部が、築地の中央市場から神田の神保町にうつって、まもないころだったと記憶します。衆議院議員選挙に埼玉県からたった、平岡忠次郎氏(現社会党衆議院議員)の応援演説に、ぜひ賀川さんに、ということで、私がお供をすることになりました。そのころの私にとってみれば、賀川さんはとにかくえらい人で、伝説的人物であったようです。なにしろ、60をこえる母が少女時代に血をわかしてよんだ本の著者なのですから。

さわやかな日本晴の日でした。賀川さんの家は幼稚園の子供たちのなかにありました。でがけに奥さんから、ハンカチ、チリ紙、財布とわたされるのを、むとんちゃくにポケットにつめこまれる。財布の中味についても、奥さんが大きな声で千円札がなん枚、百円札がなん枚、小銭いれには十円玉がなん枚はいっていますから……と念をおされる。それでも賀川さんは靴がうまく足にそわないらしく、きいていないようです。
黒いセビロに、黒のそれもながいオーバーといういつものいでたちです。おはようと声をかける園児たちに手をあげてあいさつされる。駅までの道でも、たびたびあいさつされるのだが、さっき園児にたいする場合とまったくおなじなのです。賀川さんを観察することにひじょうな興味をおぼえてきました。
行き先は川越市です。新宿で国電にのりかえ、高田馬場で西武電車にのりかえます。車中のはなしは、労働運動のむかしばなしや、生協運動の問題などでした。それは一貫して人格社会主義を説かれたのです。けれどおもしろい話をおぼえております。戦争直後、賀川さんは混雑する電車にのって都心にでるとき、みかん箱に書類をいれ、ふろしきにつつんでもってあるかれたそうです。これは合理主義にもとずいておこなわれたにすぎなかったようです。
賀川さんは生協における婦人活動家の貴重さをしきりに説かれました。戦後の物資逼迫のころ、松沢生協の鑓田夫人が毎朝買だしをつずけられた努力をはなされたとき、とくに涙があふれていました。「女じゃなきゃできないことよ」とむすんで話題がかわったのをおぼえています。
西武電車は途中、米軍基地のまんなかを30分以上もはしります。爆弾のような堆積がみられます。賀川さんも私もふきげんになりました。電車は終点です。むかえにでているはずの人がみえないのであたりをさがしているあいだに、賀川さんがいなくなりました。声がするのでふりむきますと、もよりの中華そばやのなわのれんのむこうから手をふっています。ラーメンがはこばれると、ありがとうというおおきな声に、店の女の子はたまげたようです。賀川さんはぜんぶはたべられないからと、私の丼にわけはじめます。のこさないのも、いく先に世話をかけたくないというのも合理主義にもとずくもののようでした。「おつゆがおいしいね」といわれるので、私もぜんぶのんでしまいました。
まもなく平岡さんが車とともにやってこられて、恐縮していましたが、賀川さんには、なんで恐縮しているのかつうじないようです。さっそく、平岡さんのルノーにのりこみました。40分ばかりかかる飯能の方もまわっていただきたいとのことで、強行軍だからとも考えましたが、賀川さんがなんでもひきうけてしまいますのでお供はだまってしまいます。なにしろ選挙運動なのですから……。ルノーはまったく小さい車です。「小林君、電車の方がひろいからすきだ。」といわれたときは、体のおおきい平岡さんは、前の座席で体をちぢめて恐縮しておりました。
選挙の話にはぜんぜんふれません。車窓をよぎる畑の話をつぎつぎとされます。話は施肥のことにまでおよびます。とにかくなんでも知っています。目的地がちかくなったところで、平岡さんからその地区がもっともよわいところであることの話がでました。うなずきながらきいていた賀川さんは、「よくはなせばわかってもらえる」といわれただけでした。しかしこの言葉以上に平岡さんを勇気ずけた言葉があったでしょうか。
街かどで、賀川さんは十いくたびか、よびかけました。とおりすがりの人々も、いつとはなく足をとめてききいっています。飯能には生協はまったくないのですが、消費者の話から、生協のことがとびだしてきます。生協は最大のプロパガンデストをうしなったわけです。
辻演説は夕方までつずけられました。私も少々賀川さんの体が気になってきました。平岡さんもそのようです。平岡さんの応援者である、ある銘茶やさんで休憩し、「職場からかえる人を」という賀川さんをなだめて、平岡さんにおくられて電車にのりました。「平岡さんはいい人だからまた当選する」といわれたあと、おつかれになったのかずっと眼を閉じておられました。私はいたいたしい気持と、ほっとした気持とがいりまじったまま、ひじょうな親しみをおぼえました。
たそがれの池袋は、雑踏をきわめております。賀川さんはどんどん広場を横ぎっていきます。どこにいらっしゃるのか、とおたずねすると、お腹がへったろうから食堂へいこうといわれて、もっとも典型的な大衆食堂のショウケースの前にたたれました。これどうかというので指さきをみると、お子さまランチです。ふきだしたくなりましたが賀川さんからみれば孫をつれているみたいなもので、そのていどの錯覚もありうるわけです。けれどさすがにお子さまランチをいただくほど修養が充分でなかったので、そのトナリのチキンライスにしました。卓につくと、おヒルの中華そばやとおなじです。半分以上を私の皿にもりあげるようにしてうつされるわけです。一見パッとしない老人が、母親が幼児に食事をさせるように世話している姿をながめる周囲の目を気にしながら、お子さまランチでなくてよかったと思いました。

私はこんなにほのぼのとした一日をもったことをしあわせに思っております。
以上

(Mによる追記)
ちょうど『生協運動』のバックナンバーの調べものをしていたら、小林基愛(もとよし)氏の経歴が掲載された号にいきあたった。1984年7月号から「生協運動と共済」という連載が始まり、第一回の掲載分にあったものである。以下、引用(『日本生協連50年史』の歴代役員略歴と照合して加筆するも少々不整合あり?!)。
「同志社大を経て、昭和28年(1953年)2月に日本生協連入職。昭和32年9月より全労済に出向、設立にたずさわる。昭和41年8月、日本生協連に復帰。総務部長、組織部長を経て1969年(昭和44年)5月に常務理事(~83年)。1982年東京医療生協を再建するために役員として出向。昭和58年6月、日本生協連の嘱託となり、かたわらCO-OP共済<たすけあい>の制度づくりに協力。現在54歳(1984年当時)。」
今現在、日本生協連とは縁遠いイメージの全労済だが、労働金庫と同様に設立の際は日本生協連が人事応援までして一体となってすすめていたことがよくわかる。そういう歴史的経過を踏まえると、協同組合陣営がもっと手を携えていく必然がみえてくるように思われる。

【2010/10/08 12:25】 | アーカイブ
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