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<Kより報告>

テーマ「賀川豊彦と世界連邦運動&
21世紀における市民による社会変革の方向性」
                            
 JCCU協同組合塾では、9月9日(木)18時からコーププラザ4F会議室にて第3回例会を開催しました。国際NGO世界連邦運動協会常務理事の木戸寛孝氏を講師にお迎えし、「賀川豊彦と世界連邦運動&21世紀における市民による社会変革の方向性」というテーマでお話いただきました。参加者は、日本生協連職員以外の賀川豊彦ゆかりの団体関係者も含め16名の方が参加されました。講演後の交流会では、講師を囲み感想交流を行い、学んだ内容を深め合いました。
 講演では、賀川豊彦が様々な社会変革の活動を経ての最後の活動であった世界連邦運動について、設立から現在に至るまでの経過が報告されました。また、木戸寛孝氏自らが事務局長をされている「医療志民の会」や「子宮頸がん予防ワクチン接種の公費助成推進実行委員会」の活動を通して、市民による社会変革について報告されました。
 木戸寛孝氏は、「明治維新では、主権が藩から国家に移ったように、21世紀は、国家から世界連邦に移って行く時代であり、市民(NGOやNPOなど)が国境を超えて連帯し、代議制による間接的なコミットではなく変革に市民が直接的に関わっていく」のが21世紀の新たな政治的潮流であることについて報告されました。
 以下、講演の要旨です。

テーマ「賀川豊彦と世界連邦運動&
21世紀における市民による社会変革の方向性」の講演要旨


1.賀川豊彦と世界連邦運動 
■世界連邦運動の胎動
<世界連邦運動のはじまり>
 原子爆弾の出現により人類の危機を感じた、アインシュタイン博士やバートランド・ラッセル、湯川秀樹など科学者や文化人は、原子力爆弾の投下に危機感を顕わにし、この原子力は国連とは違って一定の権限を有する世界連邦に管理させるべきであると提唱した。
1946年10月にルクセンブルグに14カ国30団体が集まり国際的運動組織「世界連邦政府のための世界運動」が結成された。世界連邦運動の第1回大会は、翌年1947年8月にスイスのモントルー市で開催され、モントルー宣言を採択した。
 モントルー宣言では、①全世界の諸国、諸民族を全部加盟させる。②世界的に共通な問題については、各国家の主権の一部を世界連邦政府に委譲する。③世界連邦法は「国家」に対してではなく、1人1人の「個人」を対象として適用させる。④各国の軍備は全廃し、世界警察軍を設置する。⑤原子力は世界連邦政府のみが所有し、管理する。⑥世界連邦の経費は各国政府の供出ではなく、個人からの税金でまかなう。と6原則をうたっている。
 アインシュタイン博士が76歳で亡くなると、湯川秀樹は彼の意志を引き継ぎ、1961年に世界連邦運動協会(本部ニューヨーク)の第5代会長に就任した。
<日本における世界連邦運動のはじまり> 
 日本における世界連邦運動は、1948年「憲政の父」と呼ばれた尾崎行雄を代表に、賀川豊彦を副代長に発動した。当初は、社会運動家として有名だった賀川豊彦が代表候補に考えられていたが、彼はキリスト教の信者であったため、まだ当時の日本の価値観では代表に望ましくないだろうという事を賀川自身が述べ自ら一歩退いため、尾崎行雄が代表になった経緯がある。
<核廃絶運動の挫折「核抑止論」> 
 戦後、アメリカ、ソ連を中心とする冷戦時代、大国が核を持つことによって、逆に平和が保たれるとする「核抑止論」が主流となり、世界連邦運動の目的である核廃絶運動は挫折し、低迷な時期を過ごすことになった。

■世界連邦運動の現在
 1989年ベルリンの壁崩壊と冷戦の終結により、新たな変化が起こった。核抑止論は、インド、パキスタン、北朝鮮などが核を保有するなど現代では機能しないことが明らかになってきている。ヨーロッパでは、1992年EC(欧州共同体)が設立され、国家を超えたガバナンス機能を持つ共同体が出現した。世界連邦運動もその流れをうけ新たな活動を開始した。
<国際刑事裁判所(ICC)に加盟するための運動>
 1995年、世界のNGOは効果的で公正な国際刑事裁判所の設立を推進するための『NGO連合CICC』を結成した。2000以上のNGOがこの連合に参加し、本部を世界連邦運動協会国際事務局(ニューヨーク)に置いた。
 これまで、国際法はあくまで「国家を対象」とするものであったために判例が出たとしても処罰することは出来ず、不法行為に対する国際社会の主要な対抗手段は禁輸などの経済制裁措置や多国籍軍による軍事介入であった。国際刑事裁判所とは、紛争の起きている地域で拷問や虐殺を行った人など、戦争犯罪を犯した『個人の責任』を裁く裁判所で歴史上初めてできる常設の国際法廷である。
 日本においては、1997年、東京に本部を置く世界連邦運動協会(WFMJ)が中心となって、法学研究者や人権問題NGOなどによって『JNICC』を設立し、日本国政府がICCに加盟するためのロビー活動を展開した。木戸寛孝氏は世界連邦運動の事務局次長としてその主要なメンバーとして関わった。
 1999年、NGO主催で「ハーグ平和市民会議」が開催され、100カ国以上の約1万人の市民が参加し、「公正な国際秩序のための基本10原則」を掲げ、「21世紀の平和と正義のための課題」(ハーグ・アジェンダ)を採択し、アナン国連事務総長に手渡した。アジェンダでは、「すべての政府は、国際刑事裁判所条約を批准し、国際地雷条約を具体的に運用すべきである。」とうたっている。
 2002年、国際刑事裁判所ローマ規程では、60カ国の批准の後に規程が発効し、裁判所が設置されると規定しており、2002年4月11日、国連本部で行われた特別セレモニーの席上、批准国数が規程に達した。日本では、国内法の修正などに時間がかかったが、2007年の通常国会で条約加盟を承認し、10月1日にICCに正式加盟した。当時日本は、国連常任理事国入りを目指したが実現しなかったことをうけ国連への拠出金の減額を決め、その分の予算をICC加盟国が支払う分担金に企てることができたのが幸運であったそうだ。2007年11月、故・齋賀冨美子氏が、2009年11月には尾崎久仁子氏がICCの裁判官として抜擢された。
<国際連帯税を推進するための運動> 
 世界には、飢餓などで苦しむ人々が大勢いる。しかし、国際社会は直接の税源を持っておらず、各国からの拠出金やODAというかたちで援助しているが、予算上の制約により充分な援助が行われていない。そこで国家ではなく、国際社会自体が開発援助のための安定した財源を確保しようという意図で国際連帯税という構想が生まれた。最初は、トービン税としてノーベル経済学賞受賞者のジェームズ・トービンによって1972年に提唱された。
 2009年11月、欧州連合(EU)は、銀行救済のための巨額の公的資金の投入の反省などから、財務相理事会などで、今後、トービン税を協議することで合意した。
 日本においても、2008年国際連帯税創設を求める議員連盟、2009年、国際連帯税推進協議会(寺島委員会)・国際連帯税を推進する市民の会ができた。市民の会では、世界連邦運動協会が共同事務局を務めている。
 議員連盟は、2010年8月、岡田外務大臣に国際連帯税の導入の要請を行った。岡田大臣は、国際連帯税について積極的に取り組みたいと話された。
<世界連邦運動の現在> 
 2005年8月2日、「世界連邦実現への道」を盛り込んだ『国連創設及びわが国の終戦・被爆六十周年に当たり更なる国際平和の構築への貢献を誓約する決議』が衆議院で採択された。
決議文では、「政府は、日本国憲法の掲げる恒久平和の理念のもと、唯一の被爆国として、世界のすべての人々と手を携え、核兵器等の廃絶、あらゆる戦争の回避、世界連邦実現への道の探求など、持続可能な人類共生の未来を切り開くための最大限の努力をすべきである。」と宣言している。世界連邦運動の理念が国会決議に盛り込まれたことは、世界連邦運動関係者の悲願でもあり、画期的なことであった。
 この決議をうけ、世界連邦運動の窓口を「外務省総合外交政策局・政策企画室」が担当することとなり、毎年政策提言を行っている。2010年度は、第4回世界連邦実現のための以下の政策提言を行った。
 提言1 国会決議に基づく世界連邦建設の立志を鮮明にすること
 提言2 世界連邦議会への第1歩として国連議員総会の創設を検討し推進すること
 提言3 東アジア共同体を推進すること
 提言4 国際刑事裁判所の発展に寄与すること
 提言5 核廃絶への主導的役割を果たすこと
 提言6 日本政府が率先して地球環境対策に取り組み、人類の危機を回避する行動の先導国家となること
 提言7 国際連帯税を検討し実現に努めること
 賀川豊彦が、晩年に取り組んだ世界連邦運動について、木戸寛孝氏の講演で初めて全容を知ることができた。世界連邦運動の理念は高く、60年近くかかって、ようやく一歩、二歩を踏み出しているようだ。これまでは、啓蒙思想期であったが、これから実現に向けた変革期を迎えるのではないかと感じた。世界連邦運動は、封建時代(藩)から近代(国家)に歴史が移行したように、主権が国家から世界連邦に移行する歴史的な運動だ。100年単位の運動のように思う。こうした運動も、NGOなどに参加する市民・個人の「志」が動かしていることも印象に残った。振り返れば、明治維新も坂本龍馬や桂小五郎はじめとする「志」をもった個人が集まって成し遂げたものだと思う。木戸寛孝氏は、桂小五郎(木戸孝充)から6代目の直系とのこと。木戸氏が、日本の世界連邦運動の中心となって活躍されているのは、やはり変革の「志」を引き継いでいるからであろうか。

2.「医療志民の会」と「子宮頸がん予防ワクチン接種の公費助成推進実行委員会」の取り組み
 木戸寛孝氏は、「医療志民の会」と「子宮頸がん予防ワクチン接種の公費助成推進実行委員会」の事務局長も務め、市民の力で政策を立案し、政治家や行政に提言し、また世論へ訴え、政策の実現を目指している。
 「医療志民の会」は、産婦人科や小児科の医師不足や勤務医の労働条件問題など医療の様々な問題を解決すべく「医療改革国民会議の設立」を衆議院選挙の前に各党の選挙マニュフェストに盛り込むベくロビー活動を展開した。この提案は、一部の政治家や特定医療官僚、専門家集団に独占されている医療政策を本来の当事者である国民・市民の手に主導権を奪回するため、既得権益に害されない各界・各層の国民代表が医療政策の合意形成プロセスに参画できる仕組みを確立するものである。その結果、自民党、民主党、公明党のマニュフェストに反映された。そして、政権党となった民主党の長妻厚労相は、医療改革を推進することを表明した。けれども官僚によって阻まれており実現には未だ至っていないとのこと。
 「子宮頸がん予防ワクチン接種の公費助成推進実行委員会」は、子宮頸がんの予防ワクチン接種の公費助成を目指し、患者関係者、学校関係者、芸能関係者、医療関係者、政治関係者など幅広い発起人が集まり、設立記者会見を行いメディアに訴え、署名活動を行い世論を動かす活動を展開した。そして厚生労働大臣に要望し、11年度予算に150億円を盛り込むことを実現した。

 近代国家のシステムは代議制であることから、これまでは選挙で選ばれた政治家や、行政を担う官僚が政策をつくってきたが、木戸寛孝氏は、21世紀は市民が、よりダイレクトに政策の合意形成ならびに策定に関わっていく時代になると強調された。価値観が深く雑で多様化した時代に於いては、政府や行政も自分たちですべて対応できるわけがなく、専門知識をもったNGOやNPOといった市民社会と協働していく時代になっていくべきという。
 「賀川豊彦先生が、今の時代に生きておられたら、当時では協同組合が斬新であったように、時代の要請をうけ既存の政党政治のカテゴリーにはおさまりきれない新しいパーティーをつくられるのではないか。」と木戸寛孝氏は話され講演を終えた。
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【2010/09/28 10:57】 | 主催企画報告
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<Mより発信>
引き続き『生協運動』1960年4月号の故賀川会長追悼特集よりのご紹介。
【賀川さんと日本の社会事業】日協連顧問 本位田祥男

賀川さんをはじめて知ったのは賀川さんが神戸消費組合を設立されたころである。だから40年まえである。わたしは書物のなかで知った消費組合運動が、関西で協同の旗をかかげて出発したのをみて、ようやく日本の協同組合運動もほんものになったことを知り、それを処女作である「消費組合運動」のなかにも紹介した。こんど「日本の協同組合運動」をまとめる際には、あらゆる協同組合運動のなかに賀川さんの足跡の大きいことをみて、いまさらながら大衆運動のなかでも、一人の人間の貢献にまつところの大きいことを実感した。
賀川さんが直接手がけられた灘生協、神戸生協、東大生協、東京医療生協等が日本の生協運動の先途にたっているのはもちろん、信用組合運動のなかでは、中の郷質庫信用組合が特異な存在となっている。農協運動では産業組合時代から農林省の指導がつよかったために、賀川さんが直接指導されたことはすくなかったようであるが、今日共済事業があれほど発展しているのは賀川さんの創意によるところが大きかった。組合保険は大正時代からの賀川さんの主張であった。戦後もあたらしい協同組合法に保険事業をみとめることを主張されたが、やっと共済事業がみとめられ、その一として実質的な火災保険や生命保険がまず農協のなかに発展し、やがて生協や中小企業協同組合のなかでもおこなわれるようになったのである。
賀川さんは、労働組合運動や農民組合遊動にも貢献された。日本で最初の大争議とされている川崎造船所のストライキに際しては、示威運動の先途にたっていた。社会党の結成についても賀川さんは貢献された。みずから政治にたずさわることを欲しられなかったので、単に顧問にとどまったが、舞台裏における役割は大きかったのではないかと思われる。病床につかれてから社会党はあのような分裂となったが、さぞ心を痛められたことと想像される。
あれほどひろい思想体系をもち、社会のあらゆるうごきに目をそそいでいられた人が、宗教運動とともに、これほど社会的にもひろく動かれたことはとうぜんである。しかし多くの社会運動のなかで責任ある地位につかれたのは協同組合だけであったことは興味のふかい事実である。今日でも日本生協連合会の会長をはじめ、東京医療生協、松沢生協、中の郷質庫信用組合の組合長であり、戦前にもいろいろな組合長となっていられた。これは宗教運動、友愛運動を基調とされた賀川さんの思想に、協同組合運動がいちばんぴったりとしているからではなかろうか。

賀川さんについて憶いでが多く新聞にでたが、ほとんどいちように賀川さんは日本よりも外国で評価のたかかったことをのべている。わたしもアメリカにいった時とくにそれをつよく感じた。伝道における賀川さんの活動はわたしには評価できないし、あるいはその方面におけるアメリカの活動がめざましかったのかと思っていたら、社会運動家としてもたかく評価されているのである。19世紀においてはアメリカでは協同組合は微々たるものであった。ことに消費組合運動には砂漠であるとさえいわれていた。そこへ賀川さんがでかけて協同組合運動の宣伝をされ、多くの人々の共感をえて協同組合が処々に設立され、今日では巨大な組合ができあがっている。アメリカの協同組合運動史にはかならず賀川さんの貢献がのべられるだろう。
もちろん、その時聞からみても賀川さんの気持のうえでも日本における運動は米国における以上であった。その成果のあがっていることもたしかであるが、日本における評価が外国ほどでなかったのはなぜであろうか。ひとつは賀川さんの宗教家としての映像があまりに大きいために、社会運動としてそれについていけなかったためであろう。アメリカのように思想的にも日常の規律においてもクリスト教の普及しているところでは賀川さんにぴったりとついていけたが、日本ではきわめて熱心な信徒をえるいっぽうで多くの人々を躊躇させたこともあったろう。
しかし賀川さんは、けっして宗教を他人に強いたのではない。社会運動では、その背後の根拠は宗教であるとなしとをとわず、いわんやいかなる宗教であるかをとわず、友愛を指導原理としてこそ人人に訴えたのである。ところで日本ではこの友愛の理想をかかげてすすむことをよろこばぬ傾向が社会運動の中にある。それが階級斗争の障害になるというのである。労働者階級が権力をにぎるまではあらゆる運動を斗争に合目的でなければならぬとする。そうした考えかたにたいしては賀川さんは反対であった。その思想と運動方針の対立が賀川さんにたいする日本の社会運動の評価をひくくしたのではないかと思われる。
考えかたはどんなにちがっても賀川さんのたかい人格にたいしては尊敬をはらわざるをえなかった。それが賀川さんを日本の生協運動の指導者とし、ここまで発展してきたのであろうが、その昇天が日本の協同組合運動の横道にそれる契機にならないよう切望する。むしろ一粒の麦の死によって百倍の実がなるように、賀川さんの貢献を省察することによって、その理想主義が日本の協同組合運動のなかで、ますますもえあがることを切望する。
以上
(Mより追記)
検索欄に本位田祥男氏の名前を入れて探しても、これまではあまり登場していただいていない。これからおいおいご紹介していくことになると思われる。
今回は、国民生活センター編『戦後消費者運動史』から戦後の生協の動向と生協法制定関係の情報の記事で、GHQとのやりとりの中で東大教授だった本位田祥男が斡旋してくれたという言及がある。その記事をこちらにリンクしておく。
戦後の生協の動向と生協法制定関係の情報(その2)

【2010/09/27 18:38】 | アーカイブ
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<Mより発信>
引き続き『生協運動』1960年4月号の故賀川会長追悼特集よりのご紹介。
【大震災前後のころ】中ノ郷質庫信用組合代表理事 木立義道
大阪共益社
賀川先生が、協同組合運動に具体的に着手されたのは、大正9年8月にできた大阪共益社であったとおもいます。先生の協同組合思想については、著書などで御存知のこととおもいますが、だいたいギルド社会主義の立場から、労働組合を発達させるとともに、消費組合を設立すべきことを力説しておられたわけです。
大阪共益社は労働組合の人々と大阪市内の教会関係有志とが中心で、労組関係としては、大阪砲兵工しょうの「向上会」、印刷工組合、伸銅工組合の「新進会」などが中心で、安藤国松、八木信一、西尾末広、今井嘉幸(組合長になった人)、金子忠七、酒井清七(専務になった人)などがおられました。先生は実質的な創立者でしたが、平理事にとどまっておられました。
私は、わかいころ、河上肇先生の「貧乏物語」に感動し、周囲の反対をおしきって故郷をとびだして、神戸橋本造船所の鋳物見習工となったのです。米騒動のあとで大正8年9月のことでした。そこではたらきながら、夜間工業学校へかよっていたのですが、当時、友愛会の幹部をしていた野田律太氏が橋本造船ヘオルグにこられた関係で、友愛会々員となり、友愛会刈藻支部の幹事におされました。いまでもおもいだしますが会長鈴木文治の名で、大きな辞令がきたりしたものでした。私が労働組合関係へはいった最初だったわけですが、当時は、神戸の労働運動はひじょうに大きなものだったし、賀川先生などの指導で、つよい活気のあるものだったわけです。
神戸生協創立まで
私が、協同組合にたずさわるようになったのは、神戸生協設立のときでした。じつは、神戸の川崎造船所で、青柿善一郎という人が、職域生協の設立を計画して、賀川先生のところへ相談にいったわけです。そうしたら、先生は、ゼヒ地域生協にせよ、と指導されたのですね。そこで鉄道工組合の掘義一さん、この人は以前産業組合に関係しておられたのですが、この方が実務をすすめ、いっさいの指導を賀川先生がやる形をとったわけです。私は、この掘さんの紹介で、はじめて先生にお目にかかり、設立準備をお手つだいすることになりました。生協創立事務所は、新川の貧民窟におかれましたが、そこは、先生の書斎兼伝道の場所でした。またちょうど、馬島氏がいっしょに診療事業をしておられ、そこは診療所兼用でもありました。
生協の設立準備という点では、一般的な理解がうすく、いまよりもはるかに困難だったとおもいます。一年ほど準備活動をやりましたが、学校をかりたりして、常会をやり、生活改善講演会などということで、ポスターはりやチラシくばりなどをさかんにやったものです。1,000名を目標として、1,000名結集できるようになったらはじめようという目標をたてていましたが、しかしなにしろ、講演会にも、はじめは、ふたりか三人の聴衆しかこないという状態でしたよ。費用は結局先生が印税などでふたんされていました。イエス団診療所、炭鉱夫の組織活動の援助費、大阪共益社の関係、大阪労働学校、そして神戸消費組合の設立準備という具合で、金のかかるものばかり。はいる金はすべてでていきましたね。先生はそういうことをやるなかでもずいぶん誤解もうけたし、また無理解から乱暴をうけることもしばしばありました。私がおぼえているひとつに、新川で松井其という沖仲仕のゴロツキにあばれこまれ、イスをなげつけられて歯をおったことなどもありましたが、そういうときの先生はジッと無抵抗でした。
そういう状態のなかでも、先生はずいぶん本をよまれ、勉強していました。聖書の研究などはまったく精魂かたむけていましたが、伝道のときに、聖書の引用や要約をプリントでくばったり、当時としてはあたらしい方法もとりいれていました。
私は、労組の仕事もやっており、日本農民組合関係の仕事もてつだうということで、消費組合と半々くらいでしたが、先生の本の校正をやったり、また精神的な面にふれたりしているうち、しだいに先生にひきつけられていきましたね。
生活はほんとうにキレイなものだったし。
大震災の救援活動へ
こうして神戸生協は、大正10年に、市内の八幡通り四丁目にある貿易商社の事務所と倉庫をかりて、開店したのです。専務は、林さんという方、私は一時事情があって新川へかえりましたが、かえってすぐ関東大震災がおこったのです。ちょうど、御殿場へでかけ、つずいて上京していたのですが、その2日め9月1日におこったのです。本所被服廠跡の死骸がつみかさなったすさまじい光景をみてぼうぜんとしたものです。賀川先生もすぐ上京され、被害が予想以上なのをみてかえり、関西婦人連合会、キリスト教関係、朝日新聞などの協力で物品をあつめて、救援活動にとりくまれました。再度の上京で、本所のあたりが救援がもっともおくれていることを知り、当時の本所区松倉町(現在の中ノ郷質庫信用組合のすぐそば)にテント3張をはって活動をはじめられたのでした。結局、ここが、先生の東京での社会活動の根拠地になったわけです。
はじめはじきに神戸へもどるつもりでしたが、冬がくるというのに、バラックも衣類もない人がゴロゴロしている。どうにもならないというので、もうすこし腰をおちつけることになり、馬島ドクトルをよんで診療所もはじめ、労働者宿泊所を2ヵ所つくったりしました。結局これらは応急措置をおえてからセツルにきりかえたのですが、これは東大セツルなどができるまえのことでした。やはり、運動という考えかたをもふくめ、労働者教育といったものもふくめた形でのセツルがうまれたのは、このころからじゃないでしょうか。
持説の実践として
賀川先生の持説として「組合社会事業」ということがいわれていましたが、その実践の場であったわけですね。私は、それまでの社会事業というのはいろいろ発展はしてきているが、まだもてる者がまずしい者をたすけるという状態をぬけきれない。そうでなく、地区の人々の協同により、その人たち自身のカで社会事業をすすめることはできないか、と考えていました。
「すくわれる者が、みずからすくうカをもつことはできぬか」と考えたわけです。社会事業のすべてでなくとも、経済的な保護事業のいくつか、病院、保養所託児所、そして日用品購入などですね。結局、江東消費組合、中ノ郷質庫信用、東京医療生協は以上の実践としての運動であるわけです。
江東消費は、合同労働組合、汽車会社労組(友信共愛会)、紡績労組などの労働者と、地域市民とが230名ほどあつまり大正15年4月16日に発足したのでした。いわばロッチデールシステムの忠実な実行をめざしていたものです。中ノ郷は、江東消費の信用部にしたかったのですが、法律上できなかったものです。だいたい先生は質屋というものに、とくに興味をもっていました。新川で、朝炊いたご飯をカマのまま質入したり、「このフトン質入れすべからず」とソメぬいたフトンをもちこむなどの生活をみなれていたからでしょう。質庫をつくるといったら大賛成されました。
また医療生協は、先生が病人に大きな同情をもっていたことから、これも先生の口からでたものです。子供はすべてお医者にするつもりでしたからね。もぅひとつは、外国の保険制度などを研究してこられて、病院機関をもたねば健保はうまくいかぬ、健康保険の歴史は、医師との斗争史だ、といわれて、健保の基盤をつくるためにも医療生協が必要だと力説されていました。「医療生協に健保を代行させる」ことを考えておられたわけです。当時いわれたことが、すべてあたっていましたね。これによって医療生協は全国的にひろがり、青森県の東青病院、秋田県の秋田医療をはじめ、とくに東北6県で発展したものです。もうひとつ先生がつくった生協としては、大学生協がありました。教育を多少の実践をふくめてふかめるということですすめられたと記憶します。これは昭和4~5年です。ともかくこうして、江東消費、中ノ郷、東京医療、東京学生消費組合(早稲田大学、拓殖大学など数カ所に支部をおいた)、神戸、共益社など、じつにおおくの組合を直接手がけ、大きな足跡をのこしておられるわけです。ちょうど時期的には、大正9~10年ころからで、第一次欧州大戦末からの物価高インフレ、生活苦という状況のなかで、日本ではじめて社会運動としての明確な意識をもった消費組合運動をうえつけたのは、賀川先生とほかに岡本利吉氏だといってよいのではないでしょうか。
演説に魅されたファン
最後につけくわえるなら、賀川先生はけっして体が丈夫な人ではなかった。自分は「病気の問屋だ」といっていたくらいです。眼、それからジンゾー。最初会ったときなど青くて、ヒョロヒョロしていたのです。それでも、大震災の救援のときなど毎晩伝道にでかけ、12~1時にかえってくる。朝5時ころおきてみると、もう本をよんでいる。6時にはバラックへたずねてくる人にあうという状態でまったくよく体がもったとおもいました。
また、若いころは熱烈な演説をされ、大きな身ぶりで、詩のようなアジテーションもはいる。声がすごく大きいのでした。講堂がビリビリするような…。路傍伝道できたえた結果だそうですが、うまいというより、熱ですね。労働者がずいぶんひきつけられたもので、賀川ファンが講演会のあとをおいかけたものでした。(談話)
以上
(Mより追記)
木立義道氏についても、これまで何度かご紹介している。検索欄に名前を入れると該当記事のリストが出てくるが、神戸消費組合の創業期の一員でもあった木立義道氏が関東大震災の後、賀川に同行して東京で活動するようになり、江東消費組合をつくったというあたりにふれた記事をこちらにリンクしておく。
関東大震災と江東消費組合など

【2010/09/24 12:12】 | アーカイブ
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<Mより発信>
引き続き『生協運動』1960年4月号の故賀川会長追悼特集よりのご紹介。杉山元治郎氏は4/29の告別式の葬儀委員長を務めている。
【賀川豊彦氏の思いで】衆議院議員 杉山元治郎
賀川豊彦氏の御通夜の時、同窓にして先輩の富田満牧師は、『賀川君は大伝道者で、すべてのことはここから発足している。』とさけんだが、まさにそのとおりである。
労働運動にしても、また農民組合運動にしても、社会福祉事業にしてもここから発足しているもので、キリストの真髄、十字架愛は他人のものをすこしでもかすめてならないとともに、まずしき者には「最後にのこした一枚の着物でもぬいであたえよう。」とするものである。おそらく協同組合運動にしてもそのとおりであって、搾取のない生活、もうけのない事業はひじょうに気にいったのである。大正9年には神戸で消費組合を創設した。また、その年のことだ、灘の消費組合の創立者那須氏が米相場をして、そうとうにもうけもしたし、またもうけるすべを知っていたのである。武士がもののふのあわれをしるように那須氏は相場師のはかなきとあわれをしり、賀川氏に「金のもうけない、またもうからない仕事はないか。」と相談されたのである。賀川氏は一言のもとに「協同組合事業がある。それをやりなさい」とすすめたのである。
それは賀川氏が英国のロッチデールの労働者消費組合のことをよく知っており、もうける者のない社会の建設を痛感しておったからである。かくして灘購買組合がうまれ、那須氏は米をやすいときに買うコツをしっているから、自分の資金をだしてかいあつめ、たかくなったときにやすく消費者に配給したから、灘購買組合は、急速に進歩発達し、今日の基礎をきずいたのである。
賀川氏と私が大正11年に農民組合をつくったのも、その当時農民のやく8割をしめる小作人が、地主に隷属して人間性がなく、ただ動物的に生きているのをみて、これを解放し救済するためにつくったのである。その当時賀川氏の名著「死線を越えて」は洛陽の紙価をたかめ、印税はそうとうにはいってきたのをおしげもなく、農民組合の創立費に、また維持費に投じたので、弾圧のなかにも発達し、迫害にも抗して今日の基礎をきずいたのである。もし賀川氏がいなければ農民組合は創立できなかったであろう。そうだとすれば日本の社会運動にひじょうな変化があったであろう。
賀川氏のつくった農民組合は、マルクス主義的な階級斗争的なものでなく、キリスト教社会主義的な、また、人道主義的なものであったから、地主階級も会ってよく話せばわかってくれたものである。
それで農民組合の創立と同時に消費組合部をもうけ、地主ばかりでなく商工資本階級の搾取にも対抗するようにし、その当時の農民組合の支部にはたいがい購買部があり、おおいに活動したもので、京都府の草内支部のごときは一村消費組合をつくったのである。
農民組合でも以上のとおりであるが、賀川氏が直接指導していた労働組合にはよりさかんに消費組合をつくったもので、大正9年ころ総同盟を中心に山名義鶴君が組合長に、大島君兄弟が事務員になって購買組合友愛社を大阪市の西野田に開店していたのである。それがのちに発展解消して、大阪市西区ウツボ本通に事務所をもつ共益社となったのである。我々の理想はよいが共益社の事業があまり発展しなかったのは、大阪市のごとき広汎な地区を組合地域としたからで、米の一斗や二斗の配達をウツボから天王寺までもっていくと、2時間内外かかるので、米の手数料よト配達賃の方がより多くかかるのである。繁昌して損がいくしまつで、ついに短時間で配達のできる範囲に支店を設けたが、一難さってまた一難くるというようなかけで、共益社の事業はあまりうまくいかなかった。損をしても賀川氏は私費を投じ、ふつうの人ならば投げるところだが、なかなか投げない。「尻ぬぐいは私の一生の仕事だからな」といってつずけられたのである。前述のように賀川氏は消費組合を単なる事業とみていたならば、損をするとすぐになげたであろう。しかし十字架愛の仕事とかんがえていたから、最後の最後までなげなかったのである。
賀川氏は協同組合の内でも信用組合(とくにドイツのシュルチェー・デーリッヒの無利子の信用組合をやりたい希望のようで、話の内にそのふしぶしがときにでてきたのである。おそらく中ノ郷質庫信用組合がその変形のあらわれであろう。搾取をなくし、あまりあれば最後まであたえようとする賀川氏の精神がもっともっと具現するように、質庫信用組合が努力してもらいたいものである。
賀川氏は聖書の言葉を、具現実行するために一生涯努力したもので、まずしき者に、もとめる者にあたえることに徹底しており、あたえることが賀川氏の道楽のようでもあった。「死線を越えて」の印税などがはいり、財布がふくらんでいるとあたえたくてしかたがない、私にでも「杉山君、小遣があるかね」といわれる。そのようなときに「今日はあります」とことわると機嫌がわるい。「イヤなにもありませんからください」というとよろこんでくれるのである。
賀川氏は神の言葉の具現、伝道は大使命であり、それ自身は賀川であったのである。だから賀川氏の関係したいろいろの事業を、ただ事業とみず、その内に躍動する賀川氏の精神をくみとりたいものである。
以上

【2010/09/22 19:02】 | アーカイブ
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<Mより発信>
引き続き『生協運動』1960年4月号の故賀川会長追悼特集よりのご紹介。
【愛の使徒を憶う】福島県連会長 関誠一
“彼、死ぬれども信仰によりていまなお語る”
大正13年といえば、37年の昔になりますが、そのころ「死線を越えて」「一粒の麦」「太陽を射る者」などが世にでて青年の心に希望と躍動をあたえておりました。神の国運動の大講演会に出席し、その痛快なる熱弁に心うごかされ、ついに基督者となりました。対座すれば慈父のごとく「世界中の人々がみんな2枚以上のきる物をもつまで神と人との前に奉仕者となりなさい」。資本主義の矛盾のなかに生活する労働者の労苦をさとりながら、記念にとかいてもらったのが「一枚の衣の使徒たれ」の9字でありました。おもえばこの一書こそ、私の一生涯を汝定ずけたものといえましよう。私は今日まで賀川服とツメえりの服しか着たこともなく、もってもいない。ソ連や中国そのほかヨーロッパ各地を旅行したときも、この服でとおしてきたが、これは奢侈とゼイタクにおぼれないように私みずからのよわい心を叱陀する記念であります。
大正14年に、商業学校を卒業すると、そのままなんのためらいもなく社会運動の道にすすんでいきました。戦前のこの道は、苦斗の道でありました。うまれてはじめて留置場(ぶたばこ)になげいれられたとき、日常尊敬していた先輩の指導者もいっしょでした。拷問をうけながら、拘留29日ずつのタライまわしが何ヵ月もつずくのですが、その苦労にたえかねるまえにこの指導者は煙草がほしくなり悲鳴をあげるようになったのです。
けいべつしていた看守に、手をあわせてすわせてもらっているかなしい姿をながめ、わるい習癖の恐怖をさとり、一生悪習の奴隷になるまいと決心しました。今日まで洒、煙草、麻雀等は一度もやったことがない。これはほこりうる何事でもありませんが、先生は人ほど誘惑にもろい者はない、社会運動者として生きるならば、つねに清廉潔白な生活をして、欲望をすてなければ、その志はなかばにして挫折するであろう、とおしえられていました。その実態のなんたるものであるか、このときそこで理解がついたからであります。
農民組合、労働組合、生協運動、労金、共済事業と37年の道をあゆみつずけてきた。そしてのこる生涯もまたこの道をすすまねばならないが、くすしくも、私の人生はこのようにして展開されていったのです。妻の場合も、私とおなじような経験をたどってきました。それは、昭和3年12月のはじめの土曜日の午前中「死線を越えて」の著者が「百万人救霊運動」のためにこられたのを女学校にむかえての講演会でありました。夜の公会堂の大伝道会、教会の早天祈祷会とつずいたが、それいらい教会生活にはいり、翌年の復活節には洗礼をうけ「神と人との奉仕者になる」と決心がつきました。昭和12年幼稚園を設立、現在園児300名、先生12人の幼稚園にそだっているが、3年まえ、先生をおむかえしたときほほえみをたたえながら「幼椎園は園と書きますよ。花咲き、樹木しげり、小鳥うたうという雰囲気になるように」と私どものおもいではつきない。生協の応接間には「献身犠牲」、幼稚園には「神は愛なり」と先生の書がかかげてあります。
病まねばならぬ日に
愛に私の身を委せる
死なねばならぬ日に
愛に私の魂を供托する
愛は私の最後の征服者であり
愛は私の奴隷である
愛のあるところ神があり
愛は私のいっさいである……
と神の愛を宣言した日本の聖者は「神、汝とともに活くべし」と御前にめされました。「キリスト、汝のために死にたまえり、これによりて愛ということを知りたり“汝もまた同胞のために生命をすつべきなり”」
「我と我家はエホバにつかえん」追憶のうちにいっさいの栄光を神に帰すものであります。
以上
(Mより追記)
関誠一氏についても、これまで何度かご紹介している。検索欄に名前を入れると該当記事のリストが出てくるが、昭和初期の福島消費組合の状況の中でふれた記事をこちらにリンクしておく。
昭和初期の福島消費と各地の状況

【2010/09/22 18:51】 | アーカイブ
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