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1975再建された米よこせ母子像③.jpg
<Mより発信>
引き続き、『現代日本生協運動史』から日消連と「米よこせ運動」についてご紹介する。
【『現代日本生協運動史』より日消連と「米よこせ運動」】
『現代日本生協運動史』上巻P58~
3節 運動の広がりと戦時下の苦闘

2.労働者生協と学生消費組合の活動
1)日消連と「米よこせ運動」

労働者生協の多くは関東消費組合連盟に加入していたが、連盟は生協の全国的な連合組織が末確立ななかで、1927(昭2)年には国際協同組合デーをわが国で初めて挙行した。同年の野田醤油の争議では野田購買組合が行なう米、味噌など必需品の原価提供などの活動を支援し、7か月にわたった争議を支えた。同時に加盟組合の婦人部を通し組合員に呼びかけ、亀甲万醤油のボイコットに取り組んだ。
連盟には労働者生協以外にも江東消費組合や落合消費組合が加入し、地方からは高知共働社、会津共働社、秋田消費組合などが新たに加盟した。
しかし、1929年、東京府消費組合協会の設立をめぐる意見対立から東京共働社や江東消費組合など6組合が脱退するといった事態もあり、財政的にも困難を迎え、再度委員長となった岡本利吉は神戸の那須善治、平生釟三郎の協力で財政を立て直した。その後、関消連は、1930年には東京市電争議(北郊消費組合など5消費組合が関係)をはじめ、大島製鋼、凸版印刷などの争議に支援を続け、労働運動における兵站部の役割をはたした。
1932年、関消連は関西の高砂消費組合など全国の有志組合を結集して日本無産者消費組合連盟(日消連。のち「無産者」をとる)を設立した。
1932年6月、東京の下町・三河島の失業者とその家族が「米をよこせ」と町長・警察署長官舎に押しかけた。世界恐慌以来の不況に東北地方の米の凶作が重なり、政府も一部の貧困者に政府米の払い下げを実施、東京の下町でも東京第一合同消費組合(旧柳島)が東大セツルメント名義で払い下げを受け、配給していた。しかし、微々たるものであり失業者などの要求は強かった。そこに「米、百万石の海外ダンピング」」が報道され、日消連と関消連は三河島から広がりつつあった運動を、7月の国際協同組合デーを中心に「政府所有米獲得請願運動」として展開することにした。
運動は切実な要求運動として盛り上がりをみせ、国際協同組合デー当日、日消連傘下の消費組合が労組や農民組合などとともに請願署名をもって農林省への陳情行動などを行ない、関消連を取り扱い窓口に1,000俵の払い下げ米を獲得した。その大衆的な陳情行動は当日の夕刊各紙に報道され、取り組みはさらに各地に広がった。
東京では「米よこせ会」が結成され、8月の農林省交渉でさらに6,000俵の払い下げを獲得した(注12:山本秋『昭和米よこせ運動の記録』76年7月・白石書店)。
「米よこせ運動」は日消連傘下の生協を中心に各地に広がりをみせた。東北同様に凶作に見舞われた北海道では、札幌消費組合(1932年設立)、函館消費組合、小樽消費組合(準備会)がそれぞれ労働組合などと「米よこせ会」などを結成、市長交渉を行ない一定の成果をあげた。
東北地方では青森県の黒石、青森、弘前などの消費組合、宮城県の仙台、石巻などの消費組合をはじめ農民組合などが各地で同様の運動を展開した。福島県では設立間もなかった福島消費組合の関誠一、宮原良平らが勉強に行った飯豊消費組合など相馬郡の数組合が、日消連と連絡しつつ取り組んだ。
関東各地での取り組みは農民組合などのほうが活発だったが、栃木・芳賀消費組合、埼玉南部消費組合、神奈川・平塚消費組合などが参加した。甲信越・中部の各県も農民組合が中心であったが、愛知では名古屋消費組合が「米よこせ会」を結成、払い下げを受けた。
京都ではこの年、家庭消費組合、無産者消費組合など6組合が合併、京都消費組合に一本化し「日消連の関西地方の拠点」となっていた(注13:前出『昭和米よこせ運動の記録』)。8月の反戦デーの陳情デモでは責任者が検挙されるといった弾圧を受けたが、米の払い下げは獲得した。大阪では日消連未加盟の共益社を先頭にたて、大阪・大同・阪神などの各消費組合が7月の国際協同組合デーに中央に呼応して取り組み、成果をあげた。兵庫では高砂消費組合がいくつかの小組合を糾合し兵庫県消費組合となっており、「国際デー大演説会」を開催したが、それ以上の取り組みはなかった。中四国では岡山消費組合、広島消費組合などが、九州では福岡消費組合、長崎無産者消費組合、熊本消費組合、沖縄の大宜味消費組合などがそれぞれ日消連と連携し宣伝活動などに取り組んだ。
「米よこせ運動」の展開は、結成されて間もない日消連の活動として成果をあげたが、労働運動はじめ大衆運動への弾圧を強化しはじめていた当局からは日消連とその傘下組合は強く警戒されることになり、中央では8月の農林省交渉の成功のあと「米よこせ会」の幹部だった関消連幹部の多くが検束された。「米よこせ運動」は日消連、関消連の活動のピークであった。
以上
(Mより追記)
冒頭の写真は、旧生協会館7階ロビーに設置されていた頃の「米よこせ母子像」=1975年10月発行の『米よこせ母子像ができるまで―その趣旨と最終報告』掲載の写真より画像作成して追加。コーププラザへの移転後、この母子像は2階の会員ラウンジ入り口に堂々とした姿をみせている。
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【2010/06/30 00:11】 | アーカイブ
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<Mより発信>
引き続き、『現代日本生協運動史』から昭和初期の不況と労組、労働者生協の動向についてご紹介する。
【『現代日本生協運動史』より昭和初期の不況と労組、労働者生協の動向】
『現代日本生協運動史』上巻P57~
3節 運動の広がりと戦時下の苦闘

2.労働者生協と学生消費組合の活動
金融恐慌にはじまる昭和初期の不況のもと、産業界は軽工業から重工業へとシフトをはじめ、企業合併と財閥形成などを進めた。その合理化策は労働争議を頻発させた。労働組合の組織率は、1927(昭2)年で31万人・6.6%、1930年で35万人・7.5%に過ぎなかったが、労働争議件数は1927年4.7万件、1929年7.7万件、ピークの1930年は8.1万件にのぼった。
一方で、労組組織は大正末から昭和初期にかけて全国組織の分裂、創立があり、労働者生協もその影響を受けることとなった。総同盟系(日本労働総同盟=野田、共愛消費、兵庫・共栄社などの消費組合)、評議会系(日本労働組合評議会=博文館、品川、田町共働社など)、全労系(全国労働組合同盟=兵庫・高砂消費組合など)、総連合系(日本労働組合総連合=向島、大森共働社、関西・消費者組合協会など)である。昭和期に入っても労働者生協づくりは、これら労組組織の支援のもとで続くが、地方別にみると次のような状況であった。
関東では、東京の蒲田共働社、石川島自彊購買、東京湾船員購買、購買組合自営社、芝浦河港購買、南葛消費、北郊消費など、神奈川の田島購買、製鋼購買、神奈川鉄工消費、千葉の宝信用購買、埼玉の川口消費などが大正末から昭和の初期(1925~32年頃)に設立された。
関西では、兵庫の購買組合共栄社、高砂消費、神戸共同消費、大阪の栗本共栄社、広島の因島消費相愛社、広工僚信購などが設立された。ほかに静岡の岳南消費、福岡の製鋼小倉購買などがこの時期に設立された。兵庫の高砂消費は三菱製紙の労働者により1927年に設立されるが、関消連傘下組合として後述の「米よこせ運動」などで関西の中心になった。
以上

【2010/06/29 19:00】 | アーカイブ
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<Mより発信>
引き続き、『現代日本生協運動史』から戦前の「家庭会」「婦人部」の活動についてご紹介する。
【『現代日本生協運動史』より戦前の「家庭会」「婦人部」の活動の情報】
『現代日本生協運動史』上巻P42
このころ(Mによる注記:大正期)に設立された市民型生協には、ほかに大阪の浪速購買組合や室町購買組合、購買組合友愛社、京都購買組合、平安購買組合などがある。
浪速購買組合は1920年の事業開始時、7,000人をこえる組合員と11万円の払込済出資金をもって発足した大阪を代表する生協であり、翌1921年の供給高は76万円であった(注4:北田輝『浪速購買組合の経営方針』23年2月、『産業組創208号所収』)。
室町購買組合は町の婦人会がつくった主婦中心の当時としてはユニークな生協であり、友愛会の関係者によって設立された友愛社は「婦人の社会上並に家庭に於ける権利を回復する」とうたっていた。家計の担い手を主人公に女性の地位向上をめざした点で注目される生協であったが、ともに経営難などの理由で短期間で解散した(注5:大阪社会労働運動史編集委員会『大阪社会労働運動史(第1巻)』)。
京都購買組合は1921年、市の有力者が行政の支援もえて設立し、創立2年度目には組合員が2,000人をこえる当時としては大規模組合だった。
『現代日本生協運動史』上巻P56~
4)広がった家庭会・婦人部の活動
前節で大阪の室町婦人会による消費組合や友愛社のことにふれた。友愛社は組合長や理事の多くが婦人であったが、別に「あらため会」という婦人の組織をもち、主婦たちの自覚、教養をたかめるだけでなく副業の訓練なども進め、社会参加に積極的であった。しかし、数年で解散しており、友愛社の「あらため会」結成の数か月後に発足した神戸消費組合の家庭会がその後の消費組合の婦人組織のモデルとなった(注10:奥谷松治(協同組合人物略伝はこちら)「婦人と消費組合運動(1)」(1935年2月、『産業組合時報』)。
1924(大13)年発足の神戸消費組合家庭会は、「経済的危機に瀕せる現下の我邦の状態は真に憂慮に堪へない」として、消費経済を担う家庭婦人の立場から「生活問題に付いての組織的な且つ直接的な運動」を進めようと意気高く設立趣意をうたった。具体的には、物価、品質等の調査、栄養、衛生等家事にかかわることから教育問題などにわたる研究、講習会などを企画、実践を進めた。
すでにみたように神戸消費組合の試みは灘購買組合の家庭会づくり(島田薫など)となり、甲陽消費組合、伊丹消費組合にも広がり、交流と共同の取り組みを進め、1936(昭11)年には大阪の共益社、京都の洛友消費、鳥取購買、高知消費の各組合の家庭会とともに関西消費組合連合家庭会を結成した。
東京では関消連において奥むめお(Wikipediaはこちら)、田尻久子らにより計画、準備され、1927年の連盟総会で関消連婦人部の設立が決定された。奥らの指導もあり、同年、江東消費組合、西郊消費組合、東京共働社などに婦人部が組織され、連盟婦人部とともに活動が進められることとなった。
1930年には産業組合中央会の丸岡秀子(Wikipediaはこちら)が実態調査をはじめ、翌年、『産業組合』誌にその結果を発表した(注11:丸岡秀子「消費組合に於ける婦人団体(1)~(5)」(31年、『産業組合』303・304・305・307・311号所収))。
取り上げた組織は、神戸、灘、関消連、江東、西郊、共働社のほか、長野の高嶺購買、同上田・松尾購買、鳥取・倉吉購買利用組合と東京自由学園消費、群馬・強戸信用購買販売利用の各組合の婦人組織であった。強戸は農村の組合であり、自由学園は女学生と「友の会」会員を組織しているので若干異質であるが、多くは家事=料理、手芸、洋裁などの講習会を中心に文化、教養面の企画で婦人の自覚をたかめるなど、共通点が多かった。
ただ、関消連関係は労働者家庭を対象にしており、副業や産児制限問題などを取り上げた点に特徴があり、関消連婦人部は野田醤油争議での亀甲万醤油ボイコットでは先頭にたって取り組んだ。
先の〈表0-3-3〉(省略)にあるとおり、前記の組合以外に盛岡市消費、鶴岡・共同社、福島消費、東京・共同会、大東京消費、家庭購買、長野・旭購買、京都購買、西陣購買、甲陽消費、伊丹消費、鳥取購買、愛媛・八幡浜消費、佐世保軍港購買の各組合に婦人部や家庭会が組織されていた(1935年現在)。
婦人に参政権が認められず婦人の社会参加の場が少なく、組合員は「戸主」が普通であった当時の購買組合の状況では生協の婦人部・家庭会活動は組合員家族の婦人にとって大変、有意義であった。台所にとじこめられていた当時の家庭婦人が生協の力で社会に出てきたことを意味し、一方で、婦人の参加は生協の生協らしい運営の保証にもなった。
以上

【2010/06/28 21:08】 | アーカイブ
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引き続き、『現代日本生協運動史』から昭和初期の福島消費と各地の状況についてご紹介する。
【『現代日本生協運動史』より昭和初期の福島消費と各地の状況】
『現代日本生協運動史』P51~
3節 運動の広がりと戦時下の苦闘

3)福島消費と各地の状況
大正末から昭和初期の生協設立の動きは引き続き労働者生協のほうが盛んで、官吏・俸給生活者を中心にする混合型組合の設立はあったが、東京の家庭購買組合や兵庫の神戸消費組合、灘購買組合のような市民型生協の設立ははとんどなかった。市民型生協が盛んになるのは、労働者生協が相次ぐ弾圧で消滅していく満州事変以降である。
〈表0-3-3〉(省略)は、1939(昭14)年の主な地域生協(一般市民組合と混合型組合)の概要であるが、まだ規模は小さいが全国の主要都市に分布していたことがわかる。設立間もない福島消費組合よりも規模は大きい組合(組合員300人以上)だけ抽出したものであるが、ほとんどが戦時中まで奮闘しながら戦時体制下で解散した組合である。
その規模でみると、既出の生協以外では札幌の2組合、旭川、秋田・楢山、山形・松岬、石川・協同会、長野・高嶺、松本、岡谷、下諏訪、名古屋、鳥取、松山、宇和島、長崎、佐世保軍港、鹿児島・共助会、同・信購利組合などの各購買組合(消費組合)が当時の大組合だったといえる。
(中略)。
この時期に設立された生協の状況を数少ない存続組合のひとつである、福島消費組合の例でみてみよう。
福島消費組合の設立の動きは、東北地方が大凶作に見舞われ、「借金のかたに土地を手放しても足りず、歓楽地に身売りされる娘も多く、……県内の失業者は6万人を越す」といった状況にあった1931年、満州事変が勃発した年に始まった(注8:福島消費組合『だれでもできることをみんなで(50年のあゆみ)』82年10月)。それは福島高等商業(福島大学経済学部の前身)の学生を中心としたキリスト教青年学生同盟の活動からであり、学生の宮原良平やアメリカ人牧師の伝道を手伝っていた関誠一が中心であった。高商の榊原巌教授らの指導をうけ、家庭購買組合や神戸消費組合の活動を知った彼らは「消費組合期成青年同盟」を結成、その呼びかけに、「婦人之友社」の羽仁説子の影響下で「友の会」活動=生活改善運動を進めていた婦人たちが結集、1932年7月に福島消費組合の設立総会をもった。
出資金1口10円(加入時2円)で、設立時の組合員56人であった。宮原、関の2人を常務者にした組合は1本(180cc)4銭(市価6銭)の牛乳を配達することから事業をはじめ、米、味噌、醤油はじめ必需品のご用聞き事業を拡大していった。組合員は1934年200人、初年度7,145円だった供給高は1936年に3万円となるが、理事長、専務はじめ役員は無報酬で、2人の常務者の給料も当時の高商出身者の10分の1の月5円からのスタートだった。組合事務所は“協働の家”と呼ばれ、機関紙も“協働の家”と名づけられたが、まさに組合員と役員、常務者の‘協働”が理念だけでなく活動の実態であった。

「協同互助」は「不穏」
福島消費は1935(昭10)年8月に知事に購買組合としての認可申請を出したが、その定款は神戸消費組合をモデルにしたものであった。第1条に、本組合は「協同互助の精神を普及し経済組織の改善を計り洽く人類の福祉を益さんが為」組合員の経済に必要なる物を云々とあったが、この34文字が「不穏である」と削除された。「<協同互助の…経済組織…>は社会主義組織づくりを意味し、<洽く人類の福祉…>は反戦連動に通ずると恐れられた」ためであった(注9:前出『だれでもできることをみんなで』)。
2・26事件がおき、日中戦争に突入しようとする情勢が、設立間もない福島消費組合に見当違いの暗い影を投げていた。
当時、未認可ではあった市内に余目消費、伊達郡に飯野消費の2組合があり、福島消費組合はそれらと協同すると同時に、秋田、仙台、鶴岡、盛岡、能代、横手などの消費組合と連携し、1933年には東北消費組合連合会を結成した。しかし、それらの生協は戦時体制の強化のなかで次々と姿を消し、福島消費組合だけが戦後までに生き残ることとなる。
以上

【2010/06/26 23:38】 | アーカイブ
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引き続き、『現代日本生協運動史』から昭和初期の灘、神戸、京都消費などの活動についてご紹介する。
【『現代日本生協運動史』より昭和初期の灘、神戸、京都消費などの活動の情報】
『現代日本生協運動史』P51~
3節 運動の広がりと戦時下の苦闘

2)関西での運動一灘、神戸、京都消費など
創業期に赤字で苦しんだ神戸消費組合は1924(大13)年、イギリスの婦人協同組合協会(婦人ギルド)に学び、婦人組合員の自覚をたかめ、自主的活動を推進するため“家庭会”(代表・小泉ハツセ)を発足させた。日本の生協で初めての婦人組合員組織の結成であった。翌1925年、組合員は1,500人をこえ、事業も軌道にのり、27(昭2)年には、初めて購買高利用割り戻し1%を実現した。
神戸消費組合は協同組合の理念と運動性を重視する考えから、1924(大13)年、名称を購買組合から消費組合に変更したが、29(昭4)年には定款の第1条・目的に「協同互助の精神を普及し、経済組織の改善を図り、洽く人類の福祉を益さんが為め」を挿入する変更をした。
1930年には組合員2,100人、供給高25万円となり、翌年の創立10周年には本部事務所、精米所などを新設、1933年には六甲支部に2階に組合員ホールをもつ店舗を開設、三輪自動車も初めて購入した。初めての店舗は「百貨店式に陳列して選択にまかせ」る方式をとり、野菜・鮮魚なども扱った(注5:コープこうべ『愛と協同の志 コープこうべ70年史』)。
1935年には「京阪神消費組合共同計画」として大阪の共益社、京都の洛友、西宮の各消費組合とともに組合員拡大運動を展開した。
翌年から高知消費組合も参加したこの取り組みは、戦争遂行のための国策=隣保制・隣組にちなんで「隣りも向かいも組合へ」を標語とし「隣保強化運動」と呼ばれ、毎年続けられた。
その成果もあり、1938年には組合員は7,000人をこえ、供給高も86万円となった(注6:前出『愛と協同の志』、前出『星をめざして』)
神戸消費組合にくらべ、経営が順調だった灘購買組合は1923(大12)年には自前の醸造所で造った醤油を発売し好評をえ、年度末には購買高割り戻し1%と出資配当5%を実現した。その発展に脅威を感じた小売業者は、1929(昭4)年「灘購買打倒」の運動をおこし、県知事に陳情するとともに組合本部の前にむしろ旗を立てて気勢をあげた。
そのようななか、潮購買組合にも家庭会が発足し、婦人のための経済講座などを企画するとともに、取扱商品についての意見交換会などを開催した。
創業10周年の1931年には組合員3,500人、供給高54万円となり、初めての店舗・組合ストアを芦屋に開設した。この組合ストアは肉などは対面販売であったが、菓子類などは利用者自身が計量して伝票に記入し、初めて購入されたNCRの中古レジで精算するセミ・セルフ方式だった。日本の生協では初めての試みであり、1933年に住吉の本部が新築されると、1階が生鮮、食料品、2階が化粧品、雑貨等の本部ストアが同様にセミ・セルフで開店した。
当時はご用聞きによる配達が中心で、住吉でみると月供給、配達2.5万円、店舗5,800円(1932年2月)であった。このころが灘購買の躍進期であり、精米工場などの建設、サービス事業の拡充(時計部、製靴部、図書取り次ぎ、洋家具部から葬儀部など)、物産展による産地との直結事業など事業の発展かはかられた。さらに1935年から36年にかけては組合員5,000人から6,500人へ、供給高105万円から124万円へと発展するが、1937年、日中戦争がはじまり、戦時統制の苦難の時代を迎える。
兵庫では昭和期に入り、姫路購買組合(1931年)、神港購買組合(1932年)、甲陽消費組合(1934年)、伊丹消費組合(1937年)が設立された。甲陽、伊丹の両組合は灘購買組合の事業区域認可をめぐる困難から別組織として設立されたものであり、3生協は姉妹関係として運営され、のち合併する。
京都消費など
京都では大正期に平安購買組合、旭購買組合についで京都購買組合が設立されていたが、1929(昭4)年、京都家庭消費組合(組合長・田原和男)が“新興消費組合の旗揚げ”として誕生した(注7:京都・くらしと協同研究所『協う(54号)-京都・歴史版』99年11月)。しかし、翌年、田原らが分かれて洛友消費組合を設立、さらに京都無産者消費組合と京都プロレタリア消費組合などが設立された。1930年に京都大学に、翌年同志社大学に学生消費組合が設立されたが、運動の統一を推進する日消連の支援もあり、それらの組合は1932年、京都家庭消費組合を中心に合併、京都消費組合(組合長・能勢克男※)が発足した。京都消費組合は日消連に結集し「米よこせ運動」などに取り組み、班を基礎にした運営や東北地方の消費組合を通じての白菜の産直など戦後につながる経験をつんだ。
以上
※能勢克男に関わるネット検索は以下を参照
※能勢克男に関わるネット検索
「ブログ照る日曇る日」:『京都生活協同組合編:デルタからの出発』より「生協運動と先覚者 能勢克男」

同志社生協50th
:... 京都家庭消費組合の理事長だった能勢克男(元同志社大学教授) ... なかでも、戦前の大学生協や地域生協にかかわった元同志社大学教授・能勢克男氏(1894〜1979、戦後は弁護士、洛北生協(現京都生協)初代理事長) ...



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【2010/06/25 23:11】 | アーカイブ
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