日本生協連25周年記念の虹の小旗等15%縮小
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 6/2のgoogleのトップページは「ギルバート・ベイカー 生誕66周年」ということで、虹の旗が縫われる動画がロゴになっていた。性的少数者(LGBT)の活動のシンボルのレインボーフラッグをデザインしたことで有名ということからだ。「世界のGoogleトップロゴ観察」さんの記事Wikipediaの「レインボーフラッグ (LGBT)」より引用しながら以下、ご紹介する。
 Gilbert Bakerさんはアメリカの美術家で、人権活動家。1951年6月2日に生まれ、2017年3月30日に逝去され、生誕66周年ということでとりあげられた。Gilbert Bakerさんは軍隊時代に「ゲイ」の人権運動が盛んなサンフランシスコに駐留。彼自身も「ゲイ」であり、除隊後にゲイの人権活動や反戦運動に参加した。1978年6月25日にサンフランシスコで行われた「Gay Freedom Day Parade:ゲイ・フリーダムデイ・パレード」で初めて使用された。
 最初は8色でデザインされ、以下のような意味が込められていたという。▼ピンク Sexuality:セクシャリティ、▼赤 Life:生命、▼橙 Healing:癒し、▼ 黄 Sunlight:太陽、▼緑 Nature:自然、▼ターコイズ(青緑) Magic/Art:魔術 / 芸術、▼藍 Serenity/harmony:平穏 / 調和、▼紫 Spirit (精神)。
 最初の一枚は、30人もの仲間が集まり、生地を手染めして縫い上げたと言われている。その後、運動は世界に広まり、レインボーフラッグも広く周知されていくが、そうなると、大量のフラッグが必要となった。そこで、どの地域でも入手のしやすい生地などの点から見直しが行われ、現在では「6色構成の旗(赤、橙、黄、緑、青、紫)」が一般的となった。(ピンクとターコイズが除かれて、藍色が青色に変更された。また、この旗の公式な向きは自然の虹と同じく横方向に色が流れて赤を上にした状態が正しいとのこと。)
 Wikipediaの「レインボーフラッグ」では、現在使用されているレインボーフラッグには以下のものがあるとする。
1.平和を象徴する旗の名称 (1961年頃考案):「平和のイタリア語.PACE (パーチェ)」と白抜きがあり下の虹は紫からの配色で7色。Flag of the Paceの画像はこちら
2.LGBTコミュニティを象徴する旗の名称(1978年発案)。
3.南アフリカ共和国の国旗 (1994年制定) の通称。
4.ロシアユダヤ自治州の州旗 (1996年制定) 。
120px-PACE-flag_svg

 かつて協同組合のシンボルだった虹の旗だが、現在では使われていないとされてしまったのだろうか?
 そもそも七色の虹が協同組合のシンボルとなったのは、第一次世界大戦後だ。旧約聖書に「ノアの大洪水のあと人々が助け合う姿を見て、神が虹をあらわした」とあることから、不戦の誓いと重ねて虹を平和と協同のシンボルとすることを数年の議論の末に決定し、1924年のベルギー・ゲントで開催された第11回ICA大会から公式に使われてきた(日本生協連の通信教育「入門コース」(2013年改訂版)の記述を確定させる際、生協総合研究所研究員の鈴木岳さんにも見ていただいて正確な表現に変更しているが、決定は中央委員会で、公式使用がこの大会)。
 冒頭の写真の上にあるのが日本生協連創立25周年記念で役職員に配布された虹の小旗で、下は1961年発行の『灘生協四十年』(合併して灘神戸生協になる前、現在のコープこうべ)が赤から紫までの7色の虹を表紙にしているのを撮影。(Wikipediaの「国際協同組合同盟」にある虹の配色と比べると、ターコイズブルーと薄紫が違っていて、これについてもまた調べる価値はありそうだ。)そしてまた、2001年決定のICAロゴでも6色の虹が基調に使われている。
2001年決定のICAロゴ
 ところが2012年の国連・国際協同組合年を契機にICAのロゴが見直されることになり、2013年に「グローバル・コープマーク」が制定され、虹を基調に使うことがなくなっていた。また「COOP」とハイフンなしの表記がデザインの基調になったのはハイフンなしだと「監獄」というスラングになってしまう英語圏中心の考え方ではなくなっていることがうかがえた。時代の変化を痛感させられる。
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 日本における虹の旗の普及については勝部欣一さんが『虹の歩み』の中で書いている(以前紹介した記事はこちら)。
 勝部さんは家庭購買組合の組合員の家庭に育った。東大生協を創設し、日本協同組合同盟に就職。協同組合運動が分断されて同盟が生協だけの指導機関になり、生協法制定を求めて実現し、日本生協連設立という最中にいた若手事務局だった。1953年にユネスコの勤労者奨学金試験に合格してイギリスを中心としてヨーロッパに留学し、国際協同組合青年大会に出席した際に会場や街中にはりめぐらされた虹の旗に感激。帰国するとすぐ、虹の旗やバッジの普及を提案し、日本のあらゆるところへ虹が出るようになったと、自著のタイトルとのからみでまえがきに言及している。
勝部欣一氏の自叙伝『虹の歩み』表紙
 残念ながら「日本のあらゆるところへ虹」という状況は今ではなくなってしまった。LGBTの活動が世界に広がる中で虹の旗(レインボーフラッグ)がシンボルとしてアレンジもされながら認知度も上がっていったため、ICA等はイメージの混同を避けるために長く使われた「虹」を象徴として使うことをやめることにしたのではないかと推測している。
 しかしながら、協同組合運動の歴史をきちんと踏まえるためにも、協同組合の象徴の虹の記憶を継承していきたいと思う。
(追記)
2011年6月にも「虹の旗(協同組合旗)の由来について(追記あり) 」という記事を書いています。そこからのリンクも含めてご参照くださると有難いです。

【2017/06/05 23:21】 | 情報
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上は中野邦夫氏。下は小澤理恵子氏。
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<Mより発信>
 2014年3月に日本生協連のコーププラザ(渋谷本部)の1階ロビーに「コープ商品ミュージアム」が開設されて3年が経過し、開設当時の担当者の多くが異動や定年退職し、語り部養成の必要で企画された連続学習会がより参加しやすい企画として「CO・OP商品の歴史を語り継ぐ講座」として月曜日の15時~17時で開講が決定。前半の2回は役職員OB・OGを講師にお願いした企画で1/30、2/6で開催され、いずれにも参加してきました。企画段階から協力し、史資料を提供講演の内容は以下、概要。
 第1回:①中野邦夫氏からは戦前からの生協の歴史の中でコープ商品の前史、1960年の連合会CO・OP商品第1号誕生から1970年代の管理価格と有害食品に対抗してきた歴史、②小澤理恵子氏からは組合員の商品活動の歴史の中からコープ商品に組合員の声を反映するしくみづくり。第2回:①日和佐信子氏からはCO・OP商品と食の安全の社会的な仕組みを生み出した組合員活動、②石飛豊氏からは1990年代にメインとなった価格重視の品揃えと別にサブブランドとして配置されたコンセプト開発の経験について。
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上は日和佐信子氏。下は石飛豊氏。
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 いずれも聞き応えがあり、定員40人の会議室は部署も年代も多様な参加者メンバーの熱気で包まれて、企画段階から資料室として協力してきた甲斐がありました。第2回終了後、第1回の講師の方にもおいでいただいての交流会を開催。参加者からの質問、講師の方からの質問もありのやりとりタイムも設けて諸先輩の経験と想いを継承し、若い世代を激励する充実した時間となりました。
後半の3/6と3/13は現役のメンバーの講師による企画が続きます。そちらの企画にも史資料を提供していくつもりです。
(参考情報のリンク)
2014年12/19「コープ商品の歴史とこれからを考える」(講師:中野邦夫氏)の簡単報告→こちら

2013年11/14の報告」(講師:小澤理恵子氏):概要編→
こちら

【2017/02/11 23:59】 | 情報
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12/12(月)16時から生協総研の共済研究会「賀川豊彦の協同組合保険の思想と実践に学ぶ」@松沢資料館に参加してきた。講師の和田武広さん(元JA共済職員、賀川フォーラム会員)から、今回初めて賀川豊彦が「JA共済の父」と呼ばれる由来をまとまってお聞きすることができた。さらにこれまで農協についてはまともな協同組合なのだろうかという偏見をもってしまっていたが、もっときちんと勉強する必要を痛感した。
 このところ「資料室土曜講座」にも参加して、戦前の協同組合がどのように戦時体制に組み込まれていったかをさらい直す機会があり、産業組合の農村組織は戦時下に統制組織として「農業会」に再編されてしまっていたことがわかってはいた。それが戦後にも大きく影響しているようだ。戦後、農協は「伝統的・自主的な協同組合」と「行政補助機関」という2つの側面を持って設立されていて、後者は「農業会」時代を大きく引きずっている。そういう歴史が農協共済にも影響していた。前者の側面による運動の大きな成果の一つが協同組合保険=共済事業ではないかという視点での展開で、その中で賀川豊彦の思想が論じられた。充実したテキストもいただいたのでじっくり読み込んでみたい。
 今回は礼拝堂を会場にしたために、パワポのスクリーンの上にステンドグラスのキリストが子どもの頭をなでているところも写っている。パワポの最後の画像に賀川の写真もあったが、「おわりにあたって」の文章が以下。(薄井清『一粒の麦は死すとも-賀川豊彦-』P282~283からの引用)
 「いま読み返して思うのは、農業協同組合は戦後にマッカーサーからあたえられたものではなくて、賀川豊彦を含めた産業組合運動家たちが、血みどろの戦いの末に勝ちとった組織である、という感慨である。いま、・・農協は、一つの岐路に立たされている。・・」
 終了後のディスカッションの中で、戦前の反産業組合運動は国内の商業者による攻撃だったが、現在はTPPなどグローバル化の中での闘いであり、相手の土俵で戦うべきではなく、協同組合理念を踏まえたものにしなければならない。戦後の農協は組合員をお客さん扱いしてきてしまった反省に立つべきという話が出た。それを聞いて、生協陣営も他山の石としなければならないようになっているし、それにブレーキをかけて「生協の理念」に基づいて事業と活動の再構築をしていかなければならないと思えた。

【2016/12/14 23:55】 | 情報
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 2016年度の「日本生協連資料室 土曜講座」については、こちらでもご紹介させていただきました。12/3の第4回に参加してきましたので、以下、概要をご報告します。

テーマ:「戦前の消費組合(生協)の組合員活動について」
※当日資料のファイル名は「消費組合による女性運動の光と影」、資料のタイトルは「消費組合による女性運動の活性化」でした。
講師:尾崎(井内)智子/四日市大学講師、
  同志社大学人文研究所 社外・嘱託研究員、
  元生協総研嘱託研究員


講義内容の概要

今回は、主に1920~1940年代にかけての生協運動を、特に女性たちの活動に注目して進めていく。暗いイメージがもたれているこの時代は、実は消費組合が活発化し、女性運動も盛んになった時代でもある。
1919年に第一次世界大戦後、名目GDPと実質GDPの差に注目すると、この差が大きいということは貨幣価値が大きく変動した=物価の大幅な上昇があったということで、自給自足ができず、給料が一定に決まっている俸給生活者にとっては大きな打撃で、生活必需品をなるべく安く共同で購入したいということで消費組合が全国的にも数多く設立された。東京市などでは行政の政策としても消費組合設立が進められた。この時期の消費組合は、都市の給料生活者と安定した雇用の労働者(重化学工業の労働者、交通関係の労働者)によって結成された組織。
1924(大正13)年の神戸消費組合をはじめとして全国の消費組合に家庭会・婦人会が設立されていく。本発表は、消費組合の家庭会・婦人会によって、日本の女性運動は活性化したということを挙証するものである。女性運動というと、市川房枝らの婦人参政権獲得運動が名高いが、彼女たちの活動は同じ女性からの批判も多く、当時の多くの女性たちには共感を得られていなかった。

(1) 生協に女性の組合員が増えていき、積極的に関わるようになった
もともとは生協組合員は男性がほとんどで当時の資料でも男性名が多かった。ところが、1920年代後半から女性名の加入者が増えた。社会構造の変化により女工中心だった工場労働者も男性が増え(事務局注:軽工業から重工業へ)、サラリーマン層も厚みができて、その妻である専業主婦が増えたことによる。これらの層は社会の10%以下で、その中で消費組合が設立されている。
当時の専業主婦は高学歴で夫の給料だけで生活でき、新しい家庭を築こうという気運があり、消費組合に積極的に関わるようになった。消費組合側も女性たちを活動の鍵とみて、家庭会や婦人会を設立して組織した。
「神戸消費組合家庭会案内」、「家庭購買組合婦人会」、「西郊協働社家庭会」の史料を用いての説明が続いた。特に家庭購買組合は、東京の山の手のエリアで展開されていて、富裕層向けに宅地開発されたエリア「大和村」の村事務所を通じて組合加入のお願いの手紙を出すよりも、婦人会ができてから女学校時代の友人や知り合いに組合員勧誘をする活動が力を発揮した様子もわかった。そして、その方法は系統を超えて全国の生協に普及されていった。

(2)家庭会や婦人会はどのような活動をおこなっていたのか
●関東消費組合連盟(関消連)は、1927(昭和2)年に奥むめおの尽力で婦人部確立を決議。関消連が目指したのは婦人部によるストライキだったが、現場からは「先づ消費者としての婦人は、何に一番困つているか、何に不自由しているか、其の要求から仕事は初まり『階級意識』とか『組合意識』にうつたへてばかりではわざわざ子供を引つぱつて寄合に何度も何度も出られるものではない」という実態が報告されている。
●基本的には楽しいことが中心で、講演会や講習会も難しくなく、とにかく人が集まる企画・・・神戸消費組合家庭会、家庭購買組合婦人会の団らんの夕べ、西郊共働社のバザーやピクニック
●料理講習会は多く人気だった。当時の消費組合には農村から出てきた人々も多かった(地方から男性が進学で出てきて奥さんがついてきた)。女学校の家政科の授業は洋食のマナーなど生活にすぐに役立たず、農村での食事は「芋の季節になれば芋ばかり、大根の季節になれば大根ばかり」というように季節の野菜を選んで買い物をし、献立を作って食事の用意をするという概念がなかった。農村では一族重視の価値観だったが、都市部のサラリーマンは核家族が多く、家族を重視して教育熱心になった。家族のために栄養バランスのよい料理講習、生花や洋裁等の講習、子どもの家庭教育に役立つ知識の講座などの企画が多かった。
●楽しいことの中に消費経済の講座もあった・・・神戸消費組合家庭会の「一般経済学」「家庭経済講演会」、家庭購買組合の本位田教授の講演を聞く、西郊共働社の消費組合研究会など
●消費組合の経営にもメリットがあった・・・たとえば、西郊共働社の場合は作家などの文化人を多く組織していて、1930年くらいの「円本ブーム」が落ち着いてしまうと作家は貧窮していった。1家庭あたりの購買額減少を、組合員数の増加で補っていたが、家庭会の行事には組合員家庭ではなくても参加可能なため、新規の組合員獲得の場となっていた。
●地域にある組織としては、町内会は大正末から結成されていたものの男性しか出席できない世界だったし、学校も父兄会だった。公民館などもない中で、生協の家庭会・婦人会は女性が地域で活動できる場として大きな役割を果たしていた。

※事務局注:今回も当時の史資料のミニ展示を行なった。冒頭の写真は家庭購買組合の組合員啓蒙誌『ホームユニオン』。木村正枝さんの『消費組合小史』では「生産経済」と「消費経済」を対比させて「消費経済」の研究が日本では不十分で、「消費経済の知識が身につく人生」をというようなことが、冒頭の「本書をまとめるにあたって」に書かれていた。『ホームユニオン』でもそのあたりを大学の先生に書いていただいている論稿がけっこうある。

(3)消費組合の家庭会や婦人会の他の女性運動との関わり
 満州事変が勃発した1931年頃、女性運動に転機があった。国会請願を続けていた婦人参政権運動がこの時期を境に低迷し、消費者運動など生活の中から政治活動へつなげていく地道な活動へシフトした。一方で、出征する兵隊を見送りしたいという大阪の1人のおかみさん(夫は企業家)の活動が「国防婦人会」として台頭し、陸軍の援助を受けて日本全国に広まっていった。
●市川房枝記念会に、「日本消費組合婦人協会」設立時の招待状に残っている。1932(昭和7)~36年、東京日本橋の魚市場を築地に移転し中央卸売市場として整備する際に商工省が卸売り会社を1社に統合しようとすることへの反対運動に東京の3つの家庭会・婦人部が市川房枝らの婦選獲得同盟とともに参加するなどの接点があった。
●1936年(昭和11年)、全国の家庭会・婦人部の提携を目指して「日本消費組合婦人協会」(日消婦協)が設立された。当初は協同組合運動の発展と消費組合によって「世界平和と人類の理想社会を実現」することを目的にしていたが、協会設立の翌年に始まった日中戦争の泥沼化に伴い、「東亜の平和」「国力を伸張」を目指すように変わっていった。
●1937年、市川房枝らが中心になって婦選獲得同盟、YWCA、婦人矯風会、『婦人之友』の友の会など、婦選運動に参加していた自主的な女性団体により「日本婦人団体連盟」が結成され、のちに「日本消費組合婦人協会」も参加を求められた。任意加入の団体としては14団体、概算で5万人を組織した協会は日本で最大だった。ただし、市川らとともに活動することはあまりなかった模様。
※事務局注記:ネット検索したところ、「日本婦人団体連盟」の構成団体に日消婦協が入っていない。設立後に出入りがあった可能性がある。連続学習会「いま《山川菊栄》を読む」④ 戦時下の山川菊栄 という情報。
「一九三七年九月二八日に、市川さんなどが中心になって、自主的な女性団体八団体が集まって作りました。婦選獲得同盟、YWCA、婦人矯風会、『婦人之友』の友の会、それから小学校、中学校の女教員会といったところです。」 

(4) 1937年以降の日中戦争戦時下で、国家政策に賛同し、推進する役割を果したのはなぜか
協会の中心的な団体だった家庭購買組合婦人会の活動を『ホームユニオン』などでみると、切り詰めた食材で栄養バランスのとれた食生活をとか、消費を節約して貯蓄強化をしようとか、出征軍人の家族を慰問しようとか、後世には時代の変化によって戦争協力活動に変質していったと言われるが、ご本人たちは元々の消費者運動の延長線上でとらえていたのではないかと思っている。

まとめ
●戦前の生協が当時の時代状況の中で主婦を組織した意義はあった。社会運動に関心のなかった女性たち(特に専業主婦)を消費者運動へ巻き込んだ功績は大きい 。確かに、消費組合が“認める”女性運動の範疇は狭く、その活動には限界があったが、それは戦後の高度経済成長で「一億総中流」の時代に増加したサラリーマン層の間で生協が発展していったことにつながっている。

参加者は講師を含めて17名で、日生協職員6名(OB含む)、医療福祉生協連1名、会員生協2名(OB含む)、地域生活研究所1名、参加型システム研究所1名、吉野作造記念館研究員1名、賀川豊彦松沢フォーラム1名、研究者3名、主婦連・主婦会館1名。
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ディスカッションの内容については以下に畳まれているので、開いてお読みください。
ディスカッションの論点
●家庭購買組合婦人会の団らんの夕べは、日比谷野外音楽堂で開催され、歌手や楽団を招く企画もあって会場を埋め尽くす1万人を越える参加者があったという。そういう取り組みができていた。
●戦前の組合員活動メニューの一覧を見たら現在と変わらないなぁと思った。他に主婦たちが学べる場はなかったのか?→月刊『婦人之友』の友の会は件今後の女性を集めて学びあいの活動を続けていたが、公民館などもなく、自分の家に招くなどで場所を確保することも難しかったので生協の婦人組織の活動は貴重だった。
※事務局注記:戦後、灘生協ではそのエリアの友の会のリーダーだった永谷晴子に家庭会の再建への協力を依頼した。永谷はその後、日本生協連の婦人理事にもなっている。
●日消婦協ができる前から生協の女性活動の交流はあった。日消婦協の結成総会の会長選出にあたり、家庭購買組合婦人会会長の押川美香が共産党勢力排除を主張して大もめにもめて委員長になり、関消連系生協と2つに分かれてしまったが、それでもは一度はみんな集まったことに意義がある。一方で地方では、東京で系統ごとに激しく対立したような先鋭的な対立はなかった。また、男性の経営トップどうしは表立って対立はせず、つかず離れずだったことと対照的。
●日消婦協は国防婦人会と同様に戦争協力への先兵の役割を果たしたのではないかという問題提起があった。それに対して、1929年の世界恐慌後、30年には大正デモクラシーの運動が雪崩をうって崩壊し、国内での分配問題を社会改革ではなく満蒙など海外進出に求める世論が無産政党も含めて圧倒的になり、生協の婦人組織を戦争協力の先兵と評価することはできないという反論もあった。1937年に日中戦争が始まり、1938年に関消連が解散、日消連も活動休止。城西消費組合は1941年までもちこたえた。1938年に関消連が解散するにあたって戦争協力的な声明を出したが、連合会は解散しても残った単位生協に障りが出ないように配慮してのことだった。そのような時代だったので先兵とまでは言えないという反論も。
●戦前から生協の経営は男性が牛耳っていて、女性はあたりさわりのない所で活動していたという印象がある。生協の女性の活動は家庭の中での女性の地位を変えることもできない運動ということで評価がしかねているが、講師はどのように考えるか?→今後の検討課題だと思っている。
等々、時間も延長となって熱い論議が続いた。以下は講師の尾崎さんのご講演の様子の写真。
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【2016/12/13 12:39】 | 情報
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 2016年度の「日本生協連資料室 土曜講座」については、こちらでもご紹介させていただきました。11/26の第3回に参加してきましたので、以下、概要をご報告します。冒頭の写真は講演する大川真さん。

テーマ:「吉野作造と協同組合~賀川豊彦との協同~」
※パワーポイント資料のタイトルは「賀川豊彦と吉野作造に学ぶ~貧困と戦争から世界を救うために~」でした。
講師:大川真/吉野作造記念館館長、
   国際日本文化研究センター共同研究員、
   尚絅学院大学非常勤講師、
   山形県立米沢女子短期大学非常勤講師


講義内容の概要
 古川市(合併後は大崎市)が公設で作った吉野作造記念館が2002年に民間委託となり、NPO法人「古川学人」(吉野作造の筆名が由来)が受託運営、2006年からの指定管理後も受託運営している。「古川学人」は吉野作造記念館の指定管理事業とともに、NPO事業として被災地支援や東アジア交流事業等多彩な事業を展開。
 大川さんは、まさに3.11で震災復興に関わりたいと東北大学の職を辞したということで、吉野作造記念館の副館長、館長をしながら、復興やまちづくり関連の事業開催のボランティア活動など多忙に過ごされている。自分としては賀川豊彦を先に知り、その後、吉野作造と関わることになった。時代は今、貧困の問題、平和の問題が切実になってきている。吉野さんや賀川さんを知れば生きる勇気が湧いてくるとのこと。
 日本を代表する政治学者であり「参加型民主主義の父」と言われる吉野作造のベースになっているのはフランス のレオン=ブルジョアが提唱した「社会連帯説」。国家は団体生活であり、参政権は団体生活の責任を個人が分担することとした。参政権は個々人が国家責任を分担するということに新しい根拠を見出しており、シティズンシップからの視点である。

Ⅰ.反貧困における両者の共闘:
 吉野は家庭購買組合が設立された1919年から亡くなる1933年まで理事長職をつとめていた(質疑で出た→強い中間集団作りでリーダー層の関係資本形成を重視)。吉野日記の記述からは賀川と計10回会っているが、元々友愛会で知ってはいたようで、関東大震災で賀川が拠点を東京に移してから協力する関係になっている。
 長男であり吉野作造没後に父の論集を編集した俊造氏の解説によると吉野のデモクラシーは純政治的要求と社会的要求の二面があるという。階級闘争による社会改革から生存権の保証へシフトしていくが、反貧困の思想家でもある吉野は日本における生存権提唱者だった。
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Ⅱ.平和をめぐる両者の共闘:
 1931年の満州事変が勃発後、軍部が自衛権の発動として説明していることを吉野は批判。侵略行動と書いた所は出版の際に伏字にされている。
 吉野作造記念館で現在開催している企画展「自由を愛し平和を貫く-吉野と安中教会」(~12/28)を準備する中で牧師の柏木義円へのハガキが見つかった。1931年10/20付の『上毛教界月報』第396号で日本は満蒙から引き揚げよと書かれたことに賛同する内容。吉野は1933年に亡くなり、その年に日本は国際連盟を脱退した。その後、マスコミだけでなく無産政党まで日本の貧困問題の解決のために満蒙をと主張していった。賀川やキリスト教団も開拓民を送り出した。
 まさに全体主義化を進めるのはマスコミと野党が批判しないことであるのは歴史の教訓。賀川は戦後に反省して平和運動に取り組んだ。今現在、希望を失うのは早計。先人の叡智を伝えて言葉の力によって私たちの連帯を築いていきましょう。

 参加者は講師を含めて17名で、日生協・コープ共済連職員5名、医療福祉生協連1名、生協総研1名、会員生協2名、地域生活研究所1名、賀川記念松沢資料館1名、研究者3名、主婦連・主婦会館2名。 
 
 ディスカッションでは、丸山眞男の「永久革命としての民主主義」的な議論や、自己規制の圧力が強まる実感がある中、生協、連合=労組でも「いのちを守る」課題として貧困問題の解決や平和をどう作るか話していくべきと話しあった。

吉野作造記念館の2016年度前期企画展「暮らしの向上を求めて~デモクラシーは暮らしから」に、資料室から家庭購買組合関係の史資料を貸し出して展示していただいた。企画展終了後の返却の際、展示で使われた説明パネルを一緒にお持ちいただき、今回の講座に合わせたミニ展示コーナーでも活用された。
 上から2点目の写真は、家庭購買組合の総会議事録で議長が吉野作造とあるページの写真。以下の写真2枚は、ミニ展示コーナーを撮影したもの。
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※当初の講演テーマは「吉野作造と協同組合~賀川豊彦との協同~」となっていましたが、パワーポイント資料のタイトルは「賀川豊彦と吉野作造に学ぶ~貧困と戦争から世界を救うために~」でした。松沢資料館での巡回展「賀川豊彦と吉野作造展」のオープニングシンポジウムと内容がかぶらないようにご配慮いただいたということです。それに今の日本の状況にマッチしています。

2016/10/8「日本生協連資料室土曜講座」第1回「柳田国男の消費組合(生協)論に学ぶ」参加報告はこちら
2016/10/22「日本生協連資料室土曜講座」第2回「奥むめおに学ぶ~戦前・戦後の生協の女性リーダーとして~」参加報告はこちら

【2016/11/29 23:54】 | 情報
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