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<Mより発信>
関東大震災後の復興の取り組みの中で生まれた消費組合について、続けてご紹介していきたい。1979年に江東会によって発刊された『回想の江東消費組合』の中で、大西信治氏(当時かながわ生活協同組合顧問)が「柳島消費組合と江東消費組合と」という文章が掲載されており、こちらでもご紹介する。
【柳島消費組合と江東消費組合と】
『回想の江東消費組合』第二部 回想よりP210~
「柳島消費組合と江東消費組合と」大西信治(かながわ生活協同組合顧問)
  一
 関東大震災のときに、東京帝大の穂積、末弘博士を中心とした学生有志団は、上野の山に避難してきた、浅草、下谷一帯の、数万人におよぶ羅災者救護をいってに引き受け、物資の配給、風紀、衛生、傷病者の手当など、文字通り献身的な活動を行いました。
 両博士は、賀川先生から〝この学生グループを恒常的な組織につくりあげては〟-という示唆をうけて、オックスフォード大学セツッルメント(注1)の先例にならって、大学セツッルメント運動を興すことになりました。
 この運動の第一着手として、対象をどんな社会層においたらよいか、活動の拠点をどこに置いたらよいか、と検討された結果、本郷から比較的ちかく、生活に希望をもち、向上心のある労働者街を選ぶべきであるということになり、永い間、行政機関などからほったらかされていた江東の地域を選出して、柳島元町に、34.5坪の建物をつくり、ここを拠点に、事業を始めることになりました。大正13年のことです。
 セツルでは、通りに画した角に、消費組合の店を設け、正面玄関の左側に診療所、その奥に法律相談室、二階に図書室を兼ねた小講堂をつくり、労働学校、市民学校、児童学校の教室にしていました。別棟に児童会館をかねた託児所と子供の遊び場がつくられました。
 消費組合店と託児所は昼間の事業で、診療所や法律相談やいろいろな講座は主に夜間に行われました。
 セツルの各種事業は、学内運動のなかで広まった「人民の中へ」の思想に強い共感をもった新しいタイプの学生が本郷の学生街から出向いてきて行ったので、附近の住民から非常に喜ばれ、信頼されるようになりました。
 セツル事業の一部であった消費組合部は、昭和2年8月、末弘博士の発想によって、地域居住者の自主的組織として発足させることになりましたが、これが、柳島消費組合の誕生で、当時学生であった二代目組合長の山本秋さんはどぶ臭い水溜りのある路地から路地へ、焼けトタンの長屋を一軒一軒廻って、精工舎や栗原紡績などに勤める地域の人々を根気よく啓蒙して、労働学校や市民学枚の生徒にも、加入を勧めながら、一方では汗水たらして重い荷車を引き、深川の米問屋に仕入に出むいたり、配達したりして、この組合の基礎づくりに献身したといわれています。
 その頃(昭和3年)、郷里の埼玉で農民運動をしていた私は、消費組合を勉強するために関東消費組合連盟に派遣されることになり、その傘下の柳島消費組合で働くことになりました。23のときのことです。
 午前中は、小石川の東京共働社(砲兵工廠の従業員が主体でした)で開かれていた関消連主催の消費組合講習所に通い、午後は、柳島にもどって実務をうけもちました。
  二
 当時、同じ本所の松倉町に、関東消費組合連盟加入の江東消費組合がありました。
 震災前、関西で、購買組合共益社や神戸消費組合を設立された賀川先生や木立義道さんたちの本所基督教産業青年会の人々によって、震災直後、前記の東京帝大の穂積、末弘両博士の学生グループと同じように、被災者救援運動がおこされました。
 江東消費組合はその産業青年会を母胎とし、労働総同盟に属していた東京合同労働組合などの支持を得て、昭和2年4月に創立されましたが、東大セツルメントを母胎とした柳島消費組合の創立は同年8月で、僅か4ヶ月の差をもって、同じ本所に、この二つの歴史的な組合が発足したというわけです。
 その当時の勤労者は、貸銀が低く、生活に追われて、明けても暮れても油じみた葉っぱ服やカーキ色の作業服を着て、会社や工場に通っていました。
 江東消費組合では、誰の発想であったか、コール天地の開襟服をつくり、「賀川服」と名づけて、普及宣伝につめていました。
 作業服で毎日工場に通うのは、一寸おそまつだし、といって官公庁の役人の着用する背広服は高くて買えないので当時の労働者の間に大評判となり、好評を博していました。
 関消連加盟の組合常務者はもちろん、労働組合幹部の人たちもこぞって着用しました。
 江東消費組合と柳島消費組合とは、比較的近いところにあった関係から、私は、賀川服購入のため、よく訪れたものです。
 そのころ、江東消費組合で活動されていた笹川恵太郎さんは、のちに吾嬬町に、総同盟系・日本紡績労組の人たちを中心に、南葛消費組合を設立し、また、田中勝太郎さんは深川の木場に、関東木材労働組合や浅沼稲次郎氏(注2)らの労党系(ママ:浅沼は日本労農党に参加していたので誤植と思われる)の人々を中心に、深川共働消費組合を創立されましたが、のちに、これら二つの組合は柳島消費組合と合併して、東京第一合同消費組合となりました。この面からいっても柳島と江東とは縁があったわけです。
 広瀬庫太郎さんからも、何かと指導をうけましたが広瀬さんは、あれから上海に渡って、中国で活躍されたようにきいております。
 昭和3年、東京共働社の階上で開かれた、関消連の消費組合講習所で、講師であった木立義道さんの、階級闘争のきびしい情況のなかでの協同組合の役割をぼかし、キリスト教的友愛による労資協調路線をとる協同組合論の講義を受講生たちがボイコットして、砲兵工廠前の小高い山にたてこもったことがありますが、これが契機となったのか、やがて、関消連は左右に分裂して、消費組合運動の方向について、両者がはげしい論陣を張るようになりました。あれはもう、50年の昔となりましたが、今となってはすべてはただなつかしい思い出となってのこるのみです。木立さんの講義をボイコットした事件は「若気の至り」と木立さんにお詑びしたい気持ちでおります。
以上
(注1)ネット検索で見つけたYahoo!百科事典の「セツルメント」の項はこちら
(注2) wikipediaの「浅沼稲次郎」の項はこちら
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【2011/05/17 12:55】 | アーカイブ
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1926江東消費組合・中之郷質庫・基督教青年会60%×60%縮小.jpg
<Mより発信>
関東大震災後の賀川豊彦の復興の取り組みについて、続けてご紹介していきたい。
1979年に江東会によって発刊された『回想の江東消費組合』の中で、賀川豊彦の自伝小説「石の枕を立てて」より、江東消費組合と中ノ郷質庫信用組合にかかわる部分が抜粋されて掲載されていたので、その部分をこちらでもご紹介する。冒頭の写真も同書掲載分である(左より中ノ郷質庫信用組合、江東消費組合、本所基督教産業青年会)。
なお、この小説は「賀川豊彦全集」の第19巻にも収められている。
【賀川豊彦の自伝小説「石の枕を立てて」よりの抜粋】
『回想の江東消費組合』第二部 回想よりP67~
ただ一つの道 -「石の枕を立てて」より
「石の枕を立てて」(昭和14年刊)は、賀川豊彦の「死線を越えて」につづく自伝小説で、内容は、大正12年9月1日の関東大震災に際し、東京救援のため神戸より急遽上京した賀川豊彦が、10月19日、本所松倉町に天幕を張って運動を開始してから4、5年にわたる記録である。
その中から、江東消費組合、中ノ郷質庫信用組合にかかわる部分を抜粋した。
文中の「新見」は賀川豊彦、「木村」は木立義道である。-編者-
 本所では、近所の人の生活費を軽減しようと、新たに小さい消費組合が生れた。
 バラックの一番北の端の板壁を取りはずして、そこを店舗にし、米、炭、缶詰、その他日用必需品を販売し始めた。
 組合員は主として近所のバラックに住んでいる人々のみなので出資払込みも僅か1口2円とし、労働階級にのみ奉仕せんと計画をたてた。勿論、初めから東京府庁の認可を得ることができなかったので、2、3年間は認可なしでやって見ることにした。
 大阪、神戸の経験で、消費組合が非常に困難であることを知っていた新見は、毎月若干の損害は始めから見越していた。僅かの品物を一々配達せねばならない労働者向きの消費組合では、配給費だけが損になることがよくわかっていた。
 しかし、産業組合を作らないで、単なる社会主義運動だけでは、絶対に社会改造ができないことを知っていた新見は、どんなに苦しくてもその損失を補填しようと覚悟した。
 そして、主事の木村君も必ず成功して見せると意気込んでいた。
   ×
 新見の留守の間に、本所キリスト教産業青年会のバラックの代りに、そこから約一丁ばかり離れた東駒形四丁目の地域内に建てられていた産業青年会付属の宿泊所の隣へ持っていって、産業青年会の本建築をする計画をしていたものが、もうでき上っていた。
 そして木村君は、その北側へ、質庫信用組合と消費組合の店舗を並べて建築し、キリスト教産業青年会の創立せられた目的の実現に邁進したいと、彼の理想を新見に明した。
 北側の空地に2階付の店舗が2軒並べて建てられた。バラックの北の隅っこで始められた江東消費組合の売店が、その南側の店舗に引越してき、中ノ郷質庫信用組合がその北側に腰を落ちつけることになった。
 新見の考えでは、消費組合の困難はその金融にあった。それで、できれば信用組合の金融をうけて、労働階級に日用品を廉価で供給したいと考えた。しかし、下層労働階級の信用組合は、大正12年の12月頃から始めた生業資金の貸出しでいい経験をもっていた。そのときは主婦の友の社長・石川武美氏が「生業資金に貸出してくれ」と千円の金をくれたので、五十円、百円と区切って全部貸出して見たが、その金を返却に来るものは殆どなかった。それで、組合部を受持っていた木村君は、信用組合が質屋をやっていることを知って、それを見にいってきた。
 「信用組合で質屋をやりましょう。東京の庶民階級は、一年間に2500万円以上の質草を二千軒近い質屋に持っていっていますし、質屋の利息は一年間三割四分ですから、年に一割で貸出しても労働階級は随分助かりますヨ」
 木村君の報告を聞いて新見はすぐ質庫信用組合の創立に賛成した。ところが、東京府庁の方から、ぜひ三千円位はそちらで金を作るように、と内意を伝えてきた。それで新見は、有馬頼寧伯その他の知己友人に依頼して、信用組合の創立資金三千円を出資して貰った。そして、田川大吉郎氏に依頼して組合長になって貰い、いよいよ事業を開始することにした。
 松沢の新見の家で鶏飼いをしていた佐々木君が、村から出てきて信用組合の主事に赴任した。組合加入者は僅か十銭の払込金で、組合員たる権利を獲得できるような仕組みになっていた。それで、信用組合は始めからぐんぐん伸びて、初年度から一文も損せずに済んだ。
 しかしその蔭には、奥堂定蔵氏の並々ならぬ努力のあったことを新見はいつも思い出すのであった。
 奥堂氏は築地の聖パウロ教会の信者で、王子の大きな質屋の若主人であったが、新見が本所にバラックを建てるとすぐやってきて、“ぜひ東京市の質屋制度を改造したい”という彼の祈りを新見に語った。産業組合の手で質屋が経営できるなら、彼はいつでも参加するということを誓った。
 そのことを思い出した新見は、木村君に奥堂氏を訪問して貰った。そして、奥堂氏自身に乗り出して貰って、彼の店から質草の鑑定人を送って貰い、奥堂氏自身には、中ノ郷質庫信用組合の専務理事に就任して貰った。
公益質屋が五十円以上は貸さないにも拘らず、質庫信用組合が始めから千円まで貸すこことを公表したので、電話を担保に金を借りにくる者が続々でてきた。
 それで、金額を多く借りる者には利息を多くとり、質草を持ってきて二円や三円の金を借りる者には、年四分位の利息で貸すことにして、更に利益があった場合には、一円以下の金を借りる者には無利息で貸してもよいという方針を取った。
 日掛貯金がはじまった。震災当時に近所に奉仕したお蔭で、近所の評判はとてもよく、町内残らず、日掛貯金に加盟してくれるところさえできた。
 ある老婆の如きは「おうちはキリスト教で間違いはないでしょうから安心してお金が預けられますワ」そう言って喜んで預金してくれた。
 その話をきいた時、新見は新しき責任を感じた。
 その後も、某銀行が取付けに遭うという噂が立った時、町内の多くの人が、銀行から金を引き出してきて、中ノ郷質庫信用組合に預金してくれた。その言い草が面白い。
 「おうちはキリスト教だから間違いはないですヨ、産業青年会の若い人は皆賢いですナァ、実にえらいことを考え出すもんだ、銀行であれば、儲けがあれば皆取ってしまうが、こちらの組合は、儲かったら儲っただけ、利息に近いお金を払戻してくれるからネエ、今どきの若い人にかかったら敵わんヨ」
 しかし、消費組合の方はそう好都合にはいかなかった。日用雑貨品の価格の変動が激しいのと、出資金の金額がすくないために、仕入れにこまってしまった。しかし、一旦始めた以上、新見はどこまでもやり通す決心をしていた。それで、毎月相当の金額に上った損害を原稿料で埋めていった。
 この消費組合の損害は、社会事業に出す金と違って、なんだか馬鹿馬鹿しいように思われた。けれども新見は、社会を改造する唯一の道が、この協同組合運働の外にないと思っていたから、石に噛りついても、労働街の消費組合運動を成功させたいと思った。
 幸い、大阪消費組合協会のコール天服(注・賀川服)が売れていたので、そこから現金千円を寄附して貰い、差当りの困難を切り抜けることにした。
   ×
 さる日の負傷は、彼にとっては大きな打撃であった。
 しかし、それによって彼は大きな教訓を学んだ。彼は自分の仕事を限定せねばならないことを知った。もうそんなに手を拡げることはできない。勿論、無理なことはできなくなってしまった。
 最初彼は神戸の貧民窟の事業だけで、彼の仕事としては重荷すぎると考えていたのに、震災とともに東京に手をつけ、更に大阪に彼の事業を拡張していったために、一ケ月の出費だけでも、毎月千円以上準備しなければならなかった。
 そこへ、今までうまく行っていた大阪の消費組合共益社が、従業員の費い込みと、震災後の不景気に崇られて、月末の金融にさえ困るようになった。
 その上、最近、本所区松倉町のバラックで始めた子供遊びのような消費組合が、毎月、八、九十円から百五十円程度の損害を出していた。
 社会改造とはいえ、購買組合の仕事は一種の商売であった。それで、収支相償えば少しも苦痛に感じなかったが、朝から晩まで筆を走らせて、下手くそな小説や論文を売りつけて、辛うじて原稿料を受けとり、その金を全部、社会運動に投げ出すことは、何でもないような事であるけれども、同じ百円でも肺病患者にあたえると感謝してくれるが、組合事業で損をすると誰も感謝してくれなかった。で、それは泥溝の中へ金銀を投げ込んだような気がしてならなかった。
 しかし、良心を通して神が囁く声は、こうであった。
 ―― 協同組合運動に投げ込む金は、単なる救済事業に投げ込む金より、更に大きな結果を持ち来らすから、決して躊躇せず、その効果が顕れるまで持続する必要がある――と。
以上

【2011/05/02 19:44】 | アーカイブ
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1923関東大震災支援活動の賀川50%×50%縮小.jpg
<Mより発信>
今回の東日本大震災の復旧・復興の活動の中で、あらためて生協が大きな役割を発揮することが期待されている。その原点として、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の時の賀川豊彦の活躍が注目されている。それまで関西で活動していた賀川豊彦は、震災後いちはやく駆けつけてその被害の大きさに驚き、とってかえして講演活動で義援金をつくり、支援物資とともに東京へ。その後は活動拠点を東京に移してしまったのだ。
冒頭の写真は『賀川豊彦写真集』(東京堂出版)より、関東大震災のがれきの前で仲間と話をしている写真。左から末広厳太郎、賀川豊彦、石田友治。
関東大震災について、これまでの知識からはぼやっとしかイメージが浮かばないのであらためて把握しようとネット検索をした。Wikipediaの「関東大震災」の項をご紹介。
資料室の書架にある資料もあらためて整理してみた。その中に、阪神・淡路大震災3周年記念事業の一環で開催された「全国生協ボランティア活動交流集会」(1998年1/15~17)の報告書があり、パネルディスカッションでコープこうべの増田大成氏(当時、副組合長理事)が発言しているところから、以下、わかりやすい部分を抜粋してご紹介したい。

増田 舞台裏のほうの話を先にしますと、「なぜ生協がボランティアなんや」というご質問を受けました。私たちは当然だと思っているんですが、外から見ると、結びつきがちよつとフィットしないようにお感じになられるかもしれないと思います。神戸のこの地の方々は、もうご存じの方が多いんですが、全国からお集まりいただいておりますので、いい機会ですから、ご紹介しておきたいと思います。
 コープこうペが誕生しましたのは大正10年です。ですから、もう77年ぐらいになるわけです。その当時、神戸に非常に大きな“スラム”がございまして、そのスラムに賀川豊彦という青年が身を投じて貧民救済の活動をしていたわけですね。まさに、福祉のボランティア活動を賀川先生は、この神戸の地でなさっていたわけです。
 賀川先生は、確かに貧民救済の活動も大事には違いないけれども、やっぱりそこには一定の限界がある。貧しい人たちを1人ひとり救済していくことは、まさに体にできるできものを1つひとつ治療するようなもので、休そのものを健康体にしない限す、次々とはれもの、できものは続いて出てくる。だから、体をよくすることが大事なんだと、そういうことを考えられて、貧しい人を出さない社会的なシステムとしての生協をおつくりになったわけです。ですから、生協というのは、もともとボランタリーな活動が社会的なシステムに昇華したといいますか、そこから姿を変えたものとして今日に続いているわけですので、生協の源流はボランタリーな活動なんだということです。
 賀川先生は、その直後、あの関東大震災にいち早く駆けつけられて、ボランタリーな活動を通して、当時の被災を受けられた方々のために一生懸命お働きになったという、こういうことがあるんですね。ですから、この神戸の地とボランティア、ボランティアと生協というのが非常に近い関係にあるということを、まずご理解いただくとありがたいと思います。
(以下、略)

なお、「全国生協ボランティア活動交流集会」(1998年1/15~17)の報告書をネット検索したら、ボランティア・市民活動情報資料プラットフォーム「らいぶらりぃず」この項にヒット東京ボランティア・市民活動センターにある「ボランティア・市民活動情報資料センター」に収蔵されているということがわかった。この分野の重要資料であるらしい。
もちろん、日本生協連資料室でも閲覧可能である。

【2011/04/25 12:49】 | アーカイブ
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20110419復興支援れぽーと貼り出し.jpg
<Mより発信>
日本生協連は今回の東日本大震災後の復旧・復興のために直後から対策本部をつくって動き出した。人事企画部では、3月19日から全国の事業所に掲示できるようにA2版の壁新聞『復興支援れぽーと』を発行している。資料室用には掲示用と保存用の2部を送ってもらうようにし、入り口近くの可動式ラックの書架の側面に続けて掲示している。冒頭の写真は4月19日付けのNo.5が届き、5枚並んだところ。多くの事業所ではどんどん貼り替えてしまっているので、並んで見ることができるところは少ないとお声をかけられた。

また直後から、いろいろな部署から資料室への問合せが続いた。
1995年1月の阪神・淡路大震災から16年、その時やチェルノブイリ原発事故の時の活動や対応の記録、その後の政策方針文書の現物は既に現場の部署にはないことが多く、資料室にある過去の理事会・常務理事会等の資料合本から探し出すことになる。私が資料室に異動してきてから1年半後くらいから1951年創立以来の総会と理事会の資料集の総目次を1年がかりでエクセルでリストをつくってあるので、その部分は探しやすいが、常務理事会の方は作らなくてよいと当時の上司の判断があって作っていない。理事会資料から関連をたどって常務理事会資料や定期発行の『会報』をひっくりかえせば見つかることが多いのでまぁなんとかなっている。
資料だけでわからないところは、この間お世話になっている日生協の役職員OBの方に電話などでお問合せを入れ、資料の位置づけ等の情報も合わせて回答している。
資料室ならではの後方支援で尽力する所存である。

【2011/04/20 12:54】 | アーカイブ
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<Mより発信>
『賀川豊彦全集』の第11巻に添付された『月報』9.掲載の文章のうち、中林貞男氏の分のご紹介。
【情熱を注いだ生協運動】日本生活協同組合連合会副会長 中林 貞男
「一人は万人のために、万人は一人のために」各地の生協を訪れてこの文字をみると、私は賀川先生を想い出す。先生は生協の仲間から額や色紙などの揮毫をたのまれるとよくこの言葉をかかれた。この十八文字は簡単だが協同組合の精神を非常によくあらわしている。先生の協同組合運動に対する情熱はすべてこの言葉から出ているのではないだろうかと私は思っている。また伝道者としての情熱でもあったであろう。そして先生は人格主義を説かれ、よく数字をあげて青少年の犯罪のふえるのを嘆いておられた。先生はまた科学を愛された。先生と話をしていて一番まいったことは巧みに数字をあげて煙にまかれることであった。私はいつか先生が役人の汚職を憤慨して数字をあげられるので、その数字はほんとうかと思って後で年鑑を調べたところ、ぴたりとあたっていたのに驚いた。従って先生は協同組合運動の根本は教育だということを主張され、人の養成を強調された。いま私達全国の生協の仲間が先生の記念事業として神戸に生協学校(注)をつくろうと着々準備をすすめているのも、そのご遺志にもとずいたのである。
この根本的な考え方にたって先生は平和を愛し、戦争には絶対反対の意思を常に堅持しておられた。私はよく先生と話していて、こと平和の問題になると先生の強い信念におどろかされ、激励されることがしばしばであった。数年前警職法のことが問題になり、日本生協連としてその扱いを相談に行った時、先生は再軍備を中心に再び軍国調がつよくなって来たことを憂い、
「生協運動は平和運動だ、そんな法律は絶対反対だ、いまの日本にとって一番大事なことは平和の問題だ、戦争に反対して憲兵隊や進駐軍にひっぱられるのならかまわんではないか、君! そんなときは一緒にひっぱられよう」
と語気はげしくいわれたのには驚いた。その時の先生の姿はいまも私の脳裡にのこっている。人間賀川は徹底的な平和主義者であった。この先生の崇高な精神が日本の生協運動に大きく影響していることはもちろんである。
先生は友愛と信義、協同の精神を強調し、自らも尊重することにつとめられた。そして力の強いもの、権力を持っているものがこれを理解することが民主々義にとって一番大切だと私に教えられた。当時よく日本生協連の総会で元気のよい代議員や大学協連の若い代議員から私達に鋭い批判がむけられた。のんきな私でも時にはおこりたくなることがあったが、こんな時会長はいつも私にむかって
「君達は執行権をもっているのだから黙ってみんなの意見を聞くことが大事だよ、ことに若い学生の意見にはお互に耳をかたむける必要があるよ、若い連中の意見をきかなくなったら人間はだめだよ」
と私をなだめられた。会長はこと日本生協連の問題になるといつも大同団結と運動の統一を私に注意された。おそらく先生は戦前からのながい労働運動、農民運動などの経験から、力の弱い生協は何より運動の統一をはかることが一番大切だと痛感されていたからだと、私は先生のその信念を肝にめいじている。これは今後も大事なことだと思っている。とにかく、労働者は大きく団結すべきだということを常に強調され、従って社会党の分裂等については病床にありながら強く批判しておられた。
先生のこの態度はいつも日本という立場よりむしろ人類という立場にたっての主張であった。その意味では先生はすばらしい国際主義者であった。日本人で先生ほど国際的にその人格や業績が高く評価されている人は少いのではないだろうか。私は国際協同組合同盟の会合等に出かけてみて、先生に対する評価が国内においてよりも国際的に高いのに驚いたのである。日本の主張をする場合にドクター賀川も同意見だというと皆柏手をしてくれるので、私は度々先生のお名前を拝借させていただいた次第である。先生が国際的だということにからんで私は一度先生に一喝されたことがある。それは社会党の故三輪寿壮氏が選対委員長をしていた時、
「鈴木委員長と相談して都知事候補に賀川さんを推そうというのだが君から先生の内意をうかがってくれないか、もし引受けてくれられそうなら党からも正式に頼みに行くから」
といわれ、私も名案だと思って先生に話した。ところが、
「君! 俺は泥臭い江戸川の水は呑まないよ! それよりもいま人類の破滅を憂い一生懸命原稿を書いているのだ。そんなことを考える暇はないよ」
といわれたので、更に社会党の真意を説明しようとしたら、
「君! 馬鹿なことをいうのはやめ給え、君はわしと幾年つきあっているのだ」
と大喝されたのでほうほうの体で引きあげた。先生の頭には人類の幸福、世界の平和ということ以外にはなかったのであろう。晩年ノーベル平和賞の候補にあげられ、国際的運動に発展しながらその結実を見ずに他界されたことはかえすがえすも残念でならない。
日本生協連が実力以上に国際的に評価され、現在世界各国との交流がスムーズにいっているのも先生の力に負うところが非常に大きいと思っている。われわれが現在やっている協同組合貿易についても先生は当初からの最も熱心な主張者であった。私はいま戦後17年間の日本生協連の歩みをふり返ってみるとその一つ一つが先生に負うところの大きいのに驚かざるを得ないのである。そもそも終戦直後の昭和20年11月18日に新橋蔵前会館で、日本生協連の前身日本協同組合同盟の結成大会を行って、運動を開始した時の資金は誰が出したのだろうか、現在の新しい運動の仲間は殆んど知らないだろうが、それは外ならぬ先生であったのだ。先生が某会から100万円借りてこられてポンと投げ出されたのが戦後の運動のはじめだったのだ。100万円といえば簡単だが、今日に換算すればいくらになるだろうか。そしてその後先生は一人でその全額を原稿を書いて返済してくださったのである。
私は先生の崇高な精神、そのバク大な資金的援助のあったことを想いそして現在の運動の姿を思い感慨無量である。また先生は中小企業団体法や小売商業特別措置法等の生協抑圧法が国会に上程され、反対運動をやっているといつも率先して国会に陳情に行ってくださった。最早私達は先生のその姿を見ることはできない。大正のはじめ神戸の貧民窟の伝道から大阪の共益社や神戸の神戸生協、灘生協(この4月に両生協合併)、また関東大震災後の東京に江東消費組合、つづいて中野の組合病院の設立に力をつくされた。キリスト者としての先生は生協運動を通じてその理想を実践されたのではないだろうか。
以上
(Mより注記)
「神戸に生協学校」をつくる構想はその後紆余曲折を経て実現困難になってしまった。時期をあらため、その精神を生かすものとして「賀川記念全国生協教育基金協会」(その後の略称:賀川教育基金)の創立が1981年の日本生協連創立30周年記念事業として設立され、現在に至っている。

【2010/10/15 12:44】 | アーカイブ
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